後日譚~灰と男

 強く吹く風も次第に温み、しかし未だに桜の蕾は口を噤んだまま綻ばずにいる。

 地下に位置するヨゴト画房は常と変わらず甘く苦いにおいを漂わせ、一定の温度を保っていた。


 和ろうそくの火が揺れている。


 それに照らされる男――この店の主である亘乎はから変わらず鳳凰を身に纏ったまま、詰まった木目のカウンター越しに所在なさげに腰掛ける青年を眺めた。

 つり上がる短い眉は困惑を示すように微かに寄っている。

 七三に撫でつけられた青み掛かった黒髪に和ろうそくが照り、光の点は蛍火のように揺れた。


 青年――邏卒である矢途は、自分は一体何故呼ばれたのだろうかとただただ当惑していた。

 彼がここに来たと言えばあの事件が一定の収束を見せたあと一度のみであったし、亘乎と顔を合わせたのはそれを含めても二度しかない。

 再び詛呪絡みの事件が――それも亘乎の詛いが関わっている場合と言う限定で起きたらば三度みたびまみえる事もあろうけれども、それ以外でなぞ想像もしていなかった。


 あの事件についての全てを、聞かされている訳ではない。

 むしろ、矢途が知っている事と言えば連れ回された先先で見聞きした事柄のみであって、何かの形にするにはあまりに部品が足らなかった。

 しかしだからと言って、労力を割いてでも詳しく知ろうとは思わない。

 つまり矢途は、自らの中でもう終わったことだと判じていた。


 だのに、今更――矢途の心持ちを一言で表すのならばそれだ。

 自らと亘乎の間に何か関わりがあるとすれば一ヶ月ほど前のあの事件だけであり、矢途が詛いを求めた訳ではないし、ただ会話を楽しみたいが故に呼ばれたのだ、などと能天気なこともさすがに思えない。

 とすると、やはり事件に関してなのだ。


 目の前に置かれた砂糖とミルクが落とされた珈琲の香りが鼻腔を擽っても、どうにも手を付ける気にはなれない。

 面接か面談か、そんなものを目前に控えた学生時分を思い出すこれから一体何を言われるのだろうかと、ひたすら憂鬱さが湧き上がるのだ。

 矢途は奥歯を噛み締めて、出かかった溜め息をどうにか押し止めた。


 そんな心情を知ってか知らずか。

 否、一瞬膨らんだ青年のこめかみの下辺りをその目は確かに捉えていたのだから、全く想像が付かない訳ではなく単に指摘しないだけかも分からない。

 ともかくも、亘乎はゆったりとした手付きで手びねりのカップを持ち上げると、黒いままの珈琲を口にした。

 苦味とわずかな酸味が舌をなぞり、花のような香りを伴い下っていく。

 吐き出された珈琲の熱が移った息は店の空気を混ぜ、それを感じてから漸く亘乎は口を開いた。


「矢途さん、どうです、その後の調子は」


「はっ……ああ、はい、何も変わったことは」


「そうですか」


 戸惑いを滲ませた言葉に、亘乎はゆったりと目を瞬く。

 矢途はと言えば添えられた短い返事に余計当惑して唇を何かの形にしたけれども、結局はまた生真面目そうにきゅうと結んだ。

 その様子に気付きながら、亘乎の中で優先されたのは彼を慮る事ではない。

 むしろその当惑も意図的に作り出したようなものだった。


 能面のような無表情が、青年をつぶさに観察している。

 矢途にしてみれば堪らなく居心地の悪い状況であるにも関わらず、それを生み出している亘乎はと言えば観察したい事柄とは関係なしに、彼はやはり犬に似ているなどと余計な事を考えた。


「あ、の」


 恐る恐る、まさにその言葉が似合う。

 垂れた目を余計に萎れさせ下から覗き込むよう――そうやって窺ってくる矢途に、亘乎はまたゆったりと目を瞬いた。

 犬の相手の仕方と言う項目は、現時点で亘乎の脳味噌に記されていない。


「そう固くならずに」


 これはただの常套句だ。

 恐らく、二人の男はそれぞれに思ったことだろう――指摘出来るほどの心理的距離でないだけで。


 モノクルのチェーンをなぞる。

 そうしてから、顎へ手を添え軽く首を傾げた。

 自分は今疑問に思っている事があると、矢途へ向けて示す為だ。


「実は貴方に二、三、お尋ねしたい事がありましてね」


「はぁ」


 当惑も怯えも隠せていない表情をじっと観察して、そうして、脳味噌の内側へ一枚の絵を描いていく。



 逃げ切れなかった様子で倒れ伏す男。


 口から血を流し、眠るように仰向けで倒れる女。


 そして力無くくずおれる少年。


 ――否、描き上がった途端、それはただの絵画ではなく燃え上がる炎のように大きく揺らいだ。



「私は左椋などと違って言葉を弄すのはあまり好きではありませんので、直入に問うこととしましょう」


 上がる口角を隠すように、染みひとつない白い手袋に包まれた手で覆う。

 瞑目してから再び向けられた三白眼は無機質なようでいて一瞬だけ激しく赤く燃えたように、矢途には見えた。

 指の合間から、血色の良くない唇が覗いている。


「矢途さん、貴方、嘘をつきましたね。否、嘘と言っては聞こえが悪い。あえて言わなかった事が、ありましたね」


「何の話を」


「あの日、貴方が発見した時点で現場に在ったのは、二人の遺骸と、死にかけの少年だったはずだ」


「は」


 その短い音だけだった――青年の口から洩れたのは。



 目をわずかに見張る。


 唇が強張り、頬の筋肉が引き攣れた。


 疑問ではない。


 かと言って嘲りなどでもない。


 焦燥と言うほど切羽詰まってはいないし、驚愕ほどの唐突さもない。



「同情したのか」


 微かに眉間が震える。


「否……


 首の筋が一際浮いたかと思えば、矢途は、感情を抑えきれない様子で微かに震えながら俯いた。




『申し申し、センセイご機嫌如何かな。変わらないのならば何より、この現し世へ存在を得たものは皆すべからく終わりへと進むものなのだからねぇ。さぁて、頼まれていたものだけれど、我が愛しの愚妹の協力もあって漸く保管庫から見付けて来たのだよ、ああ、ああ、そうさ、あれは確かに。先代の頃の話だろう、いやぁ先代が元来真面目で仕事に対しても実直な人で本当に助かったと思ったものだよ。ええ、僕らも見習えって、センセイ、それは無理な相談だとは思わないかい。先代は本当に実直だ、けれどもね、本人も言ったろう、彼はあくまでも秀才なのだよ。僕らとは根本から違うのだからねぇ』


 そう左椋から電話を受けたのは、つい先日の事だ。

 亘乎は、そうだな、とおざなりな返事しかしなかったのだけれども、左椋はやはり気にすることはなかった。


『今から十三年前だからが、えぇと、そう、八歳だ。母親が無理心中を図って両親を亡くしたそうだよ。詛いのようだねぇ。原因は父親がからだと詛い屋の証言がある。まぁ実際は捜査の一貫で、勘違いであったらしいのだけれどもねぇ。いやぁ何とも居た堪れない。それでだよ、ねぇセンセイ、これは驚きと言ったら良いのか何なのか、僕にもイマイチ分からないのだけれども。ちょいと詛兇班の女史何某なにがしに記録を浚って貰ったらば、どうやらそこにねぇ、当時十四の潔生と言う女子中学生の名前があったそうだよ。これは何て因果なのだろうねぇ』


 受話器の向こうで左椋が吐いた溜め息に亘乎は瞑目して、また、そうだな、と呟いた。




「御両親のを発見したのは矢途さん、貴方だったと窺いました」


 青年の葡萄色に包まれた肩が震えている。

 込められているのは怒りだ何だと、一言では表せられない感情だ。


 母親の思い違いが生んだ事件とは言え、こんな事を暴かれたくはなかっただろう。

 恐らくこれまで、誰にも告げずに生きてきたはずだ。

 人間の触れられたくないところを今、自分は、無遠慮に、握り潰さんばかりに触れている――なんと残酷な所業だろうか。


「うつ伏せに倒れる父親きょうえと、満足げに眠るような母親ゆきみ……二人の遺骸を前に座り込む希安が、その日の自分に見えましたか」


 がん、と。

 矢途の拳がカウンターを殴った。

 俯いたまま、全身を震わせて、生真面目で、大型犬のようにどこか人好きのする矢途が、感情を露わにした――嗚呼、もうこれ以上、尋ねる必要はない。


 亘乎は矢途の脳天を眺めて、細く息を吐く。

 否定が返らないのなら、それが正確であるとの肯定はなくて構わないのだ。



「時に矢途さん。貴方、鳥の声を聞くことは」


「は」


 再び聞いたその声は、否、それだけでなく同時に上げられた顔も、今度こそ確かに困惑を示していた。

 元々怒りが長く続かない性格なのか、それとも問い掛けの内容に落差がありすぎたのかは分からないけれども、すっかり全身から力が抜けている。

 矢途からしてみれば、肩透かしを食らった気分なのかも分からない。


「日中だけでなく、夜が更けてから、もしくは建物内で」


「春、ですから……気にして、いませんでしたが」


「思い出しなさい。夢の中でも良い。孝重宅で聞いたものと同じ鳥の声を」


 カウンターの上にあった手が、どことなく不安げに木目をなぞった。

 視線が横に流れ、強く顔がしかめられる。


「羽搏きを、良く、聞くような気がします。鳥の声も……いやにと思うことが、たまに」


 恐る恐る、矢途はまた犬のように亘乎を窺った。

 どうにもこの青年は自分を恐れている節があると亘乎は今更ながらに思ったけれども、それこそ今更だった。


「希安は自らと孝重を、自らの種違いの姉、識安に譲り渡しました」


「譲り渡す……とは、一体」


「自らと孝重の命をもって、本来であれば詛いの贄となるはずだった識安の命を長らえさせたのですよ。代償は必ず要る。故に丸ごとではありませんが」


 青年が微かに首を傾げる。

 何故その話をされているのか理解出来ていないと言ったところか。


「希安の詛いは、与えるもの。潔生を丸ごとと、自らと孝重の一部を贄に、自らと孝重を識安が決して壊れないようにと与えた。しかしその時、ひとつの問題が生じた」


 矢途の喉仏が上下したのが視界に映った。

 何と分かりやすい男だろうかと思うと同時に、これはラジオから流れるドラマではないのだと少しの呆れが生まれる。


「矢途さん、知っていますか。詛いの力は、生まれつきの才能がなくても持てると言うことを」


 垂れた目が瞬かれる。

 いえ、と、本当に予想外であったのか、そうと返すだけで精一杯とばかりの声が洩らされた。


「識安に自らを譲り渡せば、与える力もそちらへ行ってしまう可能性に希安は気付いた。識安が与える力を持ってしまえば、


「はぁ」


「故に、希安は。のですよ」


「は」


 さてこれで何度目だったかと、亘乎はふと思った。

 矢途の顔には、理解不能であると大きく書かれているようだった。

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