第二十三話

 それは、精神的支柱。

 姉であり、母であり、自らの全てであった存在。

 もし何かあれば、自分が頼れるのは父親ではなく潔生だと思っていた。

 何せ潔生がそうなるようにと囁き続けていたから、疑う余地などない。

 だからこそ、自分ではどうにもならない希安と言う少年の暴走が起きたとき識安は潔生に縋ったのだ。

 潔生ならその窮地から救ってくれると思った――他ならぬ、自分を。


「しかし、潔生が取ったのは識安嬢、貴女の手でなく、希安の手だった。それに、貴女は酷く傷付いていたのではありませんか」


 白い手袋を填めた手に顎を載せて、識安がはっ、はっ、と短く息を跳ねさせる様をじっと見つめる。

 戦慄く唇が半ばまで開き、そこから嫌に赤い舌先が覗いていた。

 それだけを視界に映すならば、なんと生々しく淫らな光景か。

 けれども、血の気を失っていく唇と強く見開かれた目を見れば、彼女の中にある奔流がそう生易しい物ではないと心底理解する。

 そしてそんな識安を表情を変えないままのシューニャの手が撫でて――これは中々におかしな光景だと、亘乎は思った。


 それらの感情達を表に出す事はなく、亘乎は言葉を重ねた。

 識安を追い詰めている事に気付きつつ、それでも攻め手は緩めない。

 むしろ、平坦な声になるよう、口角をわずかでも上げてしまわないようにと、自らを律するのが如何に難しい事かと頭の片隅で考えた。


「孝重氏と誰にも言えない秘密を抱える共犯者となったとき、否、妄想通りの御父君の惨状が眼前に現れ出たとき、何よりも潔生に知られたくないと、貴女は思ったのではありませんか。潔生の理想像から離れていくことが恐ろしかったのではありませんか」


 識安は自分でも理解出来ない内に、いやいやと首を振る。

 衰弱した身体はそれだけで強い目眩を引き起こし、斜め前へ腰掛けているシューニャへと倒れ込むようにして縋った。

 シューニャはと言えばそれを抱き止めて、けれども相変わらず無表情のままにじっと見下ろしている。


「教えてくれ、識安嬢。壊れられないままに抱えるには、重すぎるそれを……私にせてくれ」


 熱の籠もった亘乎に被せるように、どこからか子供の泣き声が響いた。

 それが本当に現し世のどこかで子供が泣いているのか、それとも識安の心の奥底で眠っていた小さい頃の彼女が泣いているのか、誰にも分からなかった。

 ただ、識安の中の何かがそれによって堪えきれず崩壊した音を、亘乎は確かに聞いたのだ。



 葉を這う芋虫が羽化するように、ぶるりと識安の背中が震える。

 その背から、赤が湧き出してくる――そんな様が脳裏に浮かぶのは、妄想か、それとも未来視か。



「……し……った……」


 俯いているその旋毛を眺めて、ゆったりと目を瞬く。

 どんな感情が溢れ出すのかと亘乎の眼差しが期待を込めたものになっていることを、誰も気が付かなかった。

 他ならぬ、亘乎本人ですら。


 嫌にじっくりと吐き出された息が、生温くベットを這う。

 縋られているシューニャが、ひくりと太腿を震わせた。


「妬まし、かった」


 識安の奥底に溜まった澱が、溢れ出す。

 本当に微かに、亘乎の唇が歪んだ。

 そうしてついと目を細めて識安を見つめる――その表情の意味を知るのはシューニャだけで、けれども白い少女の中には指摘してやる程の感傷が未だ育っていなかった。


「誰のことが妬ましかったんだ。識安、貴女は、誰を妬んだ」


「希安よッ、希安が、希安が、妬ましかったッ」


 食い気味で跳ね返る言葉と同時に、白い部屋の中へ毒々しい赤が立ち上った。

 詛いを買いに来た時とは違い、勿論、希安が生み出したものとも違い、その赤はもっと――血のように粘度を持った濃密な赤だ。


「妬ましい、妬ましい、妬ましいッ、あの子がいなければ母さんは出て行かなかったかも知れないのにッ、私の、私の母さんをあの子が奪ったッ」


 顔を上げ、亘乎を――否、そこに妬ましい顔があるとでも言うように睨め付ける。

 吊り上げられる目と紅潮していく肌が、識安を、般若へ変えていく。


「あの子が、あの子がいなければ、私は身体を売らずに済んだしッ、虐げられることもなく、父さんは死ななかったッ、孝重さんと、ただの恋人同士でいられたッ」


 ちろちろと、識安の口から赤い煙が吐き出されているような気がする。

 シューニャに支えられながら布団を握り締める指先に、その包帯に、生生しい赤が滲む。

 それは、内側から皮膚を破ったのだろうか、それとも吐き出された赤に染まったのか。


「姉さんを、姉さんを奪って、私を、私が、大切な、奪って、声、を、上げる事も、私、出来なかった、のに……ッ」


 白い布団へ赤が移った。

 苦しんで、苦しんで、苦しんで、そうしてから血反吐を吐いて――そんな識安自身の詛いを体現しているかのような、そんな姿。


 荒く、深く、呼吸する。


 そうして、言葉になりきらないものを吐き出す。

 まるで、女の中で絶えず業火が盛るように。


「あの子は、助けて、くれる、無傷で、私だけ、いつも、いつも、誰も、ぼろぼろで、最後に、奪われて……ッ」


 支離滅裂な叫びは、震えて、識安の唇の先で霧散した。

 糸が切れたようにベッドの上へくずおれる。


「あの子さえ、あの子さえいなければッ、もっと、もっと……ッ」



 識安が吐き出すのは、彼女の血肉なのだ。


 自らで自らを切り刻み、擦り潰し、そしてぶちまける。



「どうしてよッ、どうして……愛してよ、ねぇ、私を愛してよぉ……ッ」



 布団に縋って慟哭する識安を、亘乎とシューニャはただじっと見つめていた。




 髪を撫でる手。

 それが慈しみだとか、無償の愛によるものとは違うのだと気付いたのはいつだっただろう。

 姉のように、母のように思っていた。

 けれどもそれは、少し違うものだった。


 髪を撫でてやる手。

 それが慈しみだとか、無償の愛によるものではなかったのだと気付いたのはいつだっただろう。

 姉のつもりで、母のつもりでいた。

 けれどもそれは、全く違うものだった。




「褒めて欲しかった。……ただ、愛して、欲しかった。私は愛されてると……思いたく、て……無償の愛をいつも欲してた」


 ベッドに横になり、天井を焦点の合わない目で見上げて識安はそう呟いた。

 腫れ上がった目蓋と、血の滲む指先が痛々しい。


 ベッドへ腰掛けたシューニャは、識安の腹の辺りへ手を置いてその言葉を聞いていた。

 亘乎はと言えば、口を噤んでゆったりと目を瞬く。


「それに、あの子を……希安を、利用してたのよ、私は。最ッ低だ、最低だわ、姉なんて、名ばかりで、希安だって、希安だって……愛されていた訳ではないと、分かってた、のに」


 噛み締められた唇は白くなり、溜め息と共に赤く腫れた。

 徐々に高度を下げる日が識安にかかり、頬を照らしている。


 斜陽――まさにそれだと亘乎は妙に納得していた。


「私、私、妬ましかった。それと同時に、虚しくて。愛してやらなきゃ、って……思っている自分が何より、疎ましかった」


 指先に赤を滲ませながら、目元を覆う。

 しかしそこから涙が溢れることはなかった。

 もうとっくに、枯れてしまったのかも分からない。



「ねぇ、詛い屋さん、見たかしら、貴方」


 引き潮の如く遠く離れた激情に、不気味な程の穏やかさでもって識安は問い掛けた。

 のろのろと向けられたのは、酷く打ちひしがれたような眼差しだ。


「何をです」


「交喙を」


 いすか、と呟いたのは、亘乎ではなくシューニャだった。

 桜色の唇が、いすか、いすか、と呟いている。

 恐らく、潔生の日記帳から得たヴィジョンを思い返しているのだろう。

 亘乎の脳裏に浮かぶのは、あの浴室で小首を傾げたあれよりも、希安の腹の中で息絶えていた小鳥達だ。


 目を瞬き、それと同時に頷いてみせる。


「交喙のはし、って言う言葉が、あるんですって」


 あの子が教えてくれたのよ、と、識安は目頭へきゅっと力を込めて不器用に微笑んだ。

 本ばかり読んでいたからと、唇が切なげに戦慄く。


「物事が食い違って、上手くいかないことを言うんだそうよ。私も……私達も……」


 言葉を詰まらせた識安は、強く、強く、瞑目する。

 心を落ち着けるように深く息を吐くと、強く、強く、目を開いた。

 ききった焦げ茶色の虹彩に日が映り込み、識安の生を際立たせる。


「どこから、食い違っていたのかしら……なんて、随分と月並みな言葉だけど」


 腹に載るシューニャの手に、識安の包帯に包まれた手が重なった。

 滲む赤が白を侵食する――そんな幻が亘乎の脳味噌に焦げ付く。

 ゆったりと目を瞬いてそれを振り払えば、そこにあるのは間違いなく何物にも染まらない白だった。


 衣擦れだけが、そこにはあった。

 消毒液のにおいを、女の吐息が混ぜる。


「ひとつ、お願いがあるのよ、詛い屋さん。聞いて貰えないかしら」


「事によりますが」


 間髪入れずそう返した亘乎へ、識安は思わずと言った風に吹き出した。

 何もメリットがないのに聞く理由などはない。

 そうね当たり前だわ、と口の中で呟いて、やんわりとした笑みと共にまた亘乎を見た。

 そして開かれた唇と告げられた言葉に、亘乎はゆったりと目を瞬く。


「それで、良いんですね」


「ええ、良いわ」


 頷いた識安へ、亘乎もまた頷いた。

 短く吐き出した息は、腥さも、花の香気も、最早感じられないのだった。




 和ろうそくが揺れている。

 甘く苦いにおいの中で広げられているのは、一枚の女の絵だ。

 ヨゴト画房の主の手で描き上がった女の絵は、毒々しい程の赤で彩られている。

 そして、強い、強い眼をしていた。


「これで一件落着と言う訳か」


「そうなりますね」


 ゆったりと目を瞬いて頼劾の言葉へ同意してみせた亘乎は、相変わらず鳳凰を身に纏っている。

 あの事件があって、未だそれ程経っていなかった。


「こいつは何だ」


 頑丈な骨が存在を主張する指が、その絵の一点を指す。

 そこにいるのは一羽の小鳥だ。


「交喙と言う鳥ですよ」


 頼劾は特に何を言うでもなく、ただなるほどと頷いた。

 話は聞いているだろうけれども、実際にあの場で姿を見たり声が聞こえていた訳ではないのだろう。


「ところで、識安嬢の御父君は見付かりましたか」


「ああ、家から少し離れたところからな。ありゃあ確かに届け出も躊躇うだろうよ。ったくあの双子、嬉々としていやがった」


 頼劾は苦々しく口角を下げる。

 父親の遺骸それを見た訳ではないけれども、識安が言っていた通り随分と酷いものだったらしい。

 どんな状態なのか遺骸の想像は付かなくとも、それを前に目を輝かせる左椋と彼曰わくの愛しの愚妹――右楠ゆなんの姿ならば簡単に思い浮かんだ。


 煙草を吸おうとした頼劾がダスターコートのポケットへと手を伸ばす。

 店内は禁煙だと告げるより早く、シューニャが葡萄色えびいろの制服へ身を包んだ生真面目そうな邏卒の青年、矢途を伴ってやって来た為にシガレット・ケースがそこから取り出されることはなかった。


「おう、お前か」


「お久しぶり、矢途さん」


 二人の声に、店の雰囲気へ気圧され気味だった矢途が慌てて頭を下げた。

 落ちた帽子をシューニャの手から恐縮しきりな様子で受け取ると、カウンターへ近付いて来る。

 和ろうそくがそれに合わせて大きく揺らいだ。


「頼劾殿、疾くお戻りになるよう副長殿から言付けを預かっております」


「お前いつから詛兇班の人間になった」


 厳めしい顔をしながら茶化す――それが矢途に伝わっているかは別として――頼劾に、矢途は畏まって首を振った。

 そうして短い眉に力を入れて、報告をする。


「山中の民家が全焼しました。邏卒こちらなどの範疇にないものらしく詛兇班そちらへ要請が出ております。自分は連絡役で」


「ったく、お前あれに気に入られたな」


「あれとは」


 珍しく疲れたように溜め息を吐く頼劾に、事情を飲み込めない矢途が首を傾げる。

 あれと言うのが何なのか知っている亘乎は、面白そうに目を細めた。


「良い、気にするな。亘乎、邪魔をした」


 立ち上がり挨拶の途中で既に階段を上り始めた頼劾を、矢途が慌てて追う。

 振り返り、亘乎だけでなく置物の如くぼんやり佇んでいたシューニャにも頭を下げる辺り、やはり彼は生真面目な人間だと思わせた。




 和ろうそくが揺れている。

 再び静やかさを取り戻したヨゴト画房には、甘く苦いにおいだけが漂う。


 シューニャが二人の去っていった戸をじっと見つめて、そうしてから亘乎へと振り返った。

 ゆったりと目を瞬けば、その桜色が開かれる。


「いすか」


「嗚呼……そうだな」


 微かに残った赤が、詛い屋とその養い子には確かに見えていた。





 ――――――――燃ゆる女、了。



 アカハ、ドコカヘ、ツヅイテヰル。

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