第二十二話

 亘乎が識安と再び相見あいまみえたのは、彼女をあの家の地下にある風呂場からい出してから四日ほど経った後のことだ。

 爛れた皮膚は治っていないけれども、水分を含んで破れそうになっていたところなどはどうにか乾いた、らしい。

 ともかくも、あの状況のわりに身体自体はさほど衰弱していない為あまり長時間でなければ面会が可能だと、医師からの許可があったのだ。


 スタンドカラーの白いシャツと、錆鼠色の袴、右目にはモノクルを、左手には白い手袋を。

 常からの装いの中でいつもと違う点を挙げるならば、羽織った黒留袖――相変わらず紋はない――の紋様が、曼珠沙華ではなく鳳凰であるところだろうか。

 あの日着ていた全ては血を鱈腹吸い込みもう着れたものではなく、馴染みの呉服屋を通じて新しい着物を頼んでいる最中だった。


 その男の一歩下がった斜め後ろを歩いているシューニャは、相も変わらず白い。

 あの薄暗い店であれば燐光を放つが如く存在を主張するその色も、病院と言う場所ではいっそ溶けてしまうのではないかと思えるほどにその建物へ馴染んでいた。

 特に何を言う訳でもなく、そして、特に何かに興味を持つでもなく。

 羽搏はばたくように揺らぐ鳳凰をその目に映しながら、白い少女は自らの養い親である亘乎の後を追った。


 その棟に入院しているのは外科的な治療が必要な患者達だけれども、その区画に入院しているのは詛呪絡みの事情を抱える者達だ。

 とは言えそれを承知しているのは本人達と病院関係者のみであって、他の一般患者達が知る事はない。




 五〇五――それが、識安にあてがわれた部屋だった。


「どうですか、気分は」


 日の差し込む明るい病室でそんな詛い屋の第一声を聞いた識安は、これは既視感デジャ・ビュか、それとも皮肉だろうかと一瞬だけ口角を歪めた。

 男の能面のような無表情を見ると、どう取れば良いのか分からない。

 ただ、本当に調子を尋ねに来た訳ではないのだろうと言う事だけは分かっていたから、起こしたベッドに背中を預けたまま、黒と白の二人へ椅子を勧めた。


 消毒液のにおいを感じながら、息を吐き出す。

 そこには最早腥さも、いつも共にあった花の香りもない。


「良いワケないわ」


「でしょうね」


 初めに挨拶代わりにかけられた言葉などは実際に、その返事だけで済んでしまった。

 さて一体何と言うべきか。

 一瞬の静寂がその場に揺蕩たゆたい、遠くから人々の生きる気配が漂って来るのを識安は感じていた。

 どうしようもなく、自らは生きている。

 そんな感傷が、爛れたままの皮膚の下で渦巻いた。



「詛いで」


 数秒の後に、そう切り出したのは識安だった。

 躊躇うように唇を戦慄かせる彼女は化粧をしておらず、あの日店へやってきた女とは随分と印象が違って見える。

 一言で表すならば、思ったよりもずっと幼かったらしいと、亘乎は感じていた。


「詛いで……死んだり、すると……遺体はと同じ扱いを受けると、そう聞いたわ」


「ええ」


「孝重さんは、お母様が引き取られるって。それで、じゃあ、あとの二人は……姉さんとあの子は、どうなるの……詛い屋さん、私はどうしたら……良いんですか」


 私は、と言う声を聞きながら、亘乎はゆったりと目を瞬く。

 その横で白を揺らして首を傾げる少女へ、識安は何とも言えない視線を向けた。

 けれどもシューニャは眠たげに見つめ返すだけで、特に何か反応を返す訳ではない。


「墓荒らしに遭わないよう気を付ける必要はありますが、特別手順を増やさねばならない事は、まぁ、ありませんので。きちんと供養してやって下さい」


「……そう、ですか」


 低く穏やかな声は、識安に届くなり違和感を持たせる事なく彼女の中へ溶けていく。

 知らず知らず強張っていた肩から力が抜け、糊の利いたシーツに背中を預けた識安はそっと瞑目した。

 昼下がりの日差しが、目蓋の上からその眼へ熱を持たせる。


「彼等よりも、問題は他にある。理解しわかっていますね」


 体温に温まっていたはずのベッドが急に氷か何かで出来たものに変わってしまったかのように、識安には思えた。

 出来る事ならば未だ考えたくはない――けれども、逃れる術はない。


 目蓋を持ち上げたところから脳味噌へ差し込む日に、いっそのこと焼き尽くしてくれれば良いのにと思う。

 叶わなくとも、思うだけならば識安にも出来た。


「私も、諸物なのだと……聞きました。これからは色々と……色々と、やらなくちゃいけない事があるって」


 亘乎は識安のその声に、頷きだけを返す。

 嫌だなぁ、などと呟いた識安は、亘乎の目に思春期の少女のように映っていた。

 これが恐らく、識安本来の姿なのだろう。

 抑圧された、それだ。


 亘乎は一度目を伏せて、そうしてからまた、顔だけを自分に向けている識安を見た。


「識安嬢、単刀直入に言いましょう。今日私が貴女を訪ねたのは、今回のあらましをお話する為であり、同時に、詛いへ至った経緯を知りたいからだ。貴女には多大な精神的負担を掛ける事になるが、詛いを、現し世から解いてやるにも必要な事であると理解して欲しい……識安嬢、聞かせて、くれますか」


「詛い屋さん、貴方、人に気を遣った言い方も出来るのね」


 何を切っ掛けにしたのか、どことなく力を抜いた識安はそんな言葉と共に目を細めて、ふふ、と無邪気に笑った。

 何とも言えず口を噤む亘乎と、そんな様子を見ていたシューニャが首を傾げた姿にも、識安は笑みを零す。

 けれどもそうしてから、細く息を吐き出して何かを耐えるようにして目を伏せた。


「何から、話したら良いのかな」


 無意識に口元まで持ち上げられた手は指先までしっかりと包帯に包まれていて、彼女が自らの爪を噛み締める事は出来なかった。




 母親が家を出たのも仕方がない事だった――識安は、今でもそう思っている。何も父親を責めたい訳ではない。

 父親あのひとは気が弱くて、その癖怒りっぽい人だったけれども、決して根っからの悪人ではないのだ。

 ただ、自分より随分と若い妻を満足させられるだけの諸々と、自信が随分足りない人だった。


「まぁ、両親の人となりは、今は良いわよね」


 識安は少しだけ笑みを作って、亘乎を見る。

 その能面のような表情をじっと見つめている内に、モノクル越しの目がもう片方よりも少しだけ色が薄い事に気が付いた。

 店の中が随分薄暗かったとは言え、全く気に止めていなかった自分を苦く思い返す。


「父親が思いをぶつけられるのは、きっと私しかいなかった。だから、仕方なかったの」


 決して手は出さなかった。

 けれども言葉は確実に識安を傷付けて、癒えない傷を刻み込んだ。

 幼い子供でしかなかった識安は逃げる術もなく、何より、幼いながらに父親を憐れんでいた。

 その目は何だと怒鳴られた事もあったけれども、今更になってその意味を理解する。


「そんな頃に姉さんが……潔生が、隣に越して来たのよ。最初っからで私を見ていたのかなんて、そんな事は、今も分からないけれど。すごく優しくしてくれて、いけない事は叱ってくれた。父親なんかとは比べられないくらい沢山一緒にいてくれたし、まだ小学生だった私からしたら、高校生の潔生は随分大きな存在だったの」


「姉であり、母でもあり、その当時、貴女の全てだった」


「そう……そうね、うん、そんな感じ」


 良く分かるのね、などと笑った識安に、亘乎は一度だけ首を振って応えた。

 随分、随分と皮肉な事だ――識安が潔生へ抱いた思いと、希安が識安へ抱いた思いは、酷く似通ったものだったなんて。


「でもね……私にとって全てだったけれど、成長していく内にこれはおかしいんじゃないかって、気付き始めた。でも……結局離れられなかったのよ。私にとっての支えとして、確立してしまっていたから」


 離れる努力はした。

 けれども、出来なかった。

 そしてそうする内に、五年以上も顔を合わせていなかった本当の母親と、初めて出会う希安と言う存在が少女の中へ放り込まれた。


「その時にね、思ったの。潔生は母親じゃなかった、自分の足で立たなくちゃ、って。当たり前の話だけどね」


 それと同時に生まれたのは、母性だった。

 希安が頼れるのは自分しかいないのだと悟って――決め付けたのだ。


 食事も服も何もかも用意した。

 けれども中学生になった識安だけではどうにも出来ず、父親の財布から金を盗んだ事も片手では数え切れない。

 今更、今更気付く――父親が何も言わず、それを許してくれていた事に。

 気が弱く、けれども怒りっぽく、何より悪い人間ではなかった。

 だからきっと、憎らしくても捨てる事が出来なかったのだ、父親も。

 当時は気付かず、ただ、恨んだだけだったけれども。


「もしかしたら、って、思うのよ。もしかしたら、自分を犠牲にする事に、自らの価値を見出していたのかも、って」


 少女である事を売り、それで種違いの弟を育てた。

 それが、どれだけ弟と、父親の心を傷付けたのかも知らずに。


 因果は巡り、巻き起こった嵐。

 どうしようもなくなって識安は、抱いた罪悪感から離れていた潔生へと助けを求めた。


 そして潔生は――希安を愛した。


 包帯へ包まれた自らの手を握り締め瞑目し、そうしてから、深くゆっくりと息を吐き出す。

 不意に立ち上がったシューニャがベッドへ腰掛けると、その手に自分の手を重ねた。

 もしか、女同士で通ずるものがあったのかも分からない。

 識安は、弱々しく微笑んだ。


「そのくらいの時にね、孝重さんと出会ったの。一目惚れ、って言うか……お互いに、似通ったにおいを感じたんだと思う」


 識安と、孝重は、色々と抱えていた。

 片方は母親に愛されず父親を憐れんで、片方は父親に虐げられ母親を憐れんで。

 識安は理想の父親のように守ってくれる存在を求めていて、孝重は自らの母親のように庇護されるべき存在を求めていた。

 ある意味、似合いの二人だったのだろう。


「そうやって、孝重さんに救いを求めてあの場から逃げて……父が、死んだ」


 識安が見たのは、一言で言うなら惨劇だった。

 父親が自分でしたとは思えないくらいに、酷いものだった。

 そして何よりも、恨んでいた頃に思い描いた惨状と、そっくりだったのだ。


「私の妄想が現実になったんだと思って、怖かった。私が殺したんだって思って、国へ届ける事も出来なくて……孝重さんが、埋めてしまおうって、言ったのよ」


「それから貴女達は、誰にも言えない秘密を抱える共犯者となった……」


 識安が頷く。

 シューニャは無表情なままで、けれども労るように彼女の頭を撫でた。

 婚約と言うのも、ただ愛情のみがさせた事ではないのかも分からない。

 亘乎は意味もなく手袋を直しながら、先を促す。


「孝重さんは、後悔していたのかもね。それか、夢から覚めた気分だったのかも。何となく私から距離を取りたがったのよ。それで……それで」


「浮気を」


「酷いわ、詛い屋さん。はっきり言うのね」


 疲れたように苦く笑う識安に、亘乎は何も言わなかった。

 誤魔化したところで事実は変えられない。

 ただ、じっと見つめてくるシューニャの目が、何となく痛い。


 ゆったりと目を瞬く。

 ベッドの上で女と少女が手を繋いでいる。

 潔生と識安もこうしたのだろうかと、ふと思った。



「私は、ずっと疑問に思っていたのですよ、識安嬢」


「はい」


「貴女があの日聞かせてくれた話に、私はどうも、違和感がある」


 不思議そうに目を瞬く識安は、全て吐き出したとばかりにすっきりとした顔をしている。

 けれども、足りない。

 亘乎はずっと思っていた。



「あまりに孝重氏へ対する思いがとね。貴女……本当は、孝重氏ではなくて、潔生に裏切られたと思っていたのではありませんか。本当に詛いたかったのは、誰です」



 ひゅ、と、識安の喉が鳴った。

 目を丸く見開いて、唇を戦慄かせる。

 その様はどう見ても、的外れな言葉への困惑ではなかった。


「奪われたのは誰です。許せなかったのは誰です。識安嬢、教えてくれ」


「あ、嗚呼ぁ」


 力無い慟哭が、部屋の空気を震わせる。

 シューニャは相変わらず、そうっと女の髪を撫でていた。

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