第十九話

 地獄と言うものは、例えばこんなものだろうかとその女は不意に思った。


 ――嗚呼、なるほど、地獄。


 そうか、地獄が自らにはお似合いなのだと泣きもせず、笑いもせず。

 誰に言われた訳でもなく、おのが脳裏に浮かび上がっただけの思いでありながら、女はただそう納得したのだ。




 あかに塗れた女は曼珠沙華の咲く黒い着物に包まれて、壊れることも出来ずにただ呼吸をし、そしてただ心臓を動かしていた。

 身体も心も決して壊れず、ひたすらにでいることしか、今のこの女には許されない。

 何せ、女は――識安は、壊さないと、壊れないようにと詛われたのだ。

 種違いの弟が自らの命と、その他に二人の生け贄の命を使って、強く、強く、詛ったのだ。


 それ故に、再びまみえることとなった詛い屋がまるで寝所の内でふたり、共に布にくるまりながら睦言を囁くようにして、腰に響く熱を孕んだ声でもって三人の死を知らせて来たときにも、自分ではどうにも御しきれない感情で恐れおののくことは出来たにしろ、例えばそのまま正気を失い廃人になってしまうだとか衝撃に心臓を止めてしまうだとか、そんなことは出来ようがなかった。


 突きつけられた純然たる事実が識安の内臓を包み込んで、蛆虫が這う速さより遥かにゆっくりと締め付ける。

 無理矢理飲まされた赤が食道と気管を逆流して腥い鉄のにおいが口の中へ上がってきたけれども、それを吐き出すことすら出来ない。

 喘ぐようにしてひゅうひゅうと喉を鳴らした識安は、はっきりしない眼で詛い屋を見上げ、しかしそれが全く意味のないことだったと気付くまでにはさして時間はかからなかった。


「どうですか、気分は」


 ――どうですか、だなんて。


 有り体に言うならば、気分は最悪だ。

 そんなことはわざわざ言わずとも誰の目にも火を見るよりも明らかだろう。

 けれども詛い屋は訊くのだ。

 いつまでも閉じられる事なく膿んだ傷口を、それ以上切り開く事はないように決して鋭利さを持たないよう、しかし、執念深くかき混ぜるかのように。

 まるで、絶え間ない責め苦を与える獄卒のように。


「些か予定とは違いましたが、貴女の願いは叶ったのですよ」


 詛い屋の吐息が、耳にかかる。

 識安を埋め尽くす赤の隙間に染み込んでくる。

 理解したようでいて出来ていないのか、詛い屋の存在が夢現の儚き泡沫うたかたに思えてくる――いっそ夢現であれば良かったのにと、そう思う。


「苦しんで苦しんで苦しんで、そうしてから血反吐を吐いて死んでしまうよう……ええ、その通りになったのですよ」


 かけられる言葉のせいで反射的に脳裏へ浮かび上がろうとしたヴィジョンは、はっきりとした形を成すよりもずっと早く、どこかへ霧散していった。

 そうしてから再び寄り集まると赤い濃密な雫となって識安の脳味噌へ波紋を作り、今度こそ行方が分からなくなる。


「嗚呼、しかし、そうです。これも言わねばなりませんね。この度はどうも……御愁傷様でございました」


 抱き上げられ、思ったより力強い詛い屋の腕に包まれた。

 そして再び耳元で響くのは、低く甘い声――識安にとってそれは、あまりにも痛烈な皮肉だった。



 死んでしまえと詛った。


 死んでしまっても構わないと詛った。


 命も惜しくないと詛った。


 けれども、自らの種違いの弟は、詛わなかった。


 否、本当はのだ。


 そして



「どうですか、気分は」


 再びかけられた問いに、識安は声にならない悲鳴を上げて、頬を赤い雫が滑り落ちていった。




「お前は本当に」


 自らの部下と救急車の出動を要請した頼劾が戻ってきたのは、それから少し経ってからの事だった。

 そして脱衣場に入るなり目にした光景に、厳めしい表情のままで呆れ返ったような溜め息を吐く。


 自らの黒い着物に包んだ、鎖で手を繋がれた女を抱き上げた書生にも似た姿の亘乎。

 それが赤黒く染まりながら、口元をうっすらとした笑みに象り浴室の前へ佇んでいる。


 亘乎と言う男の気性をよくよく理解していなければ何とも気味が悪く、恐怖映画のワン・シーンにも見えただろう。

 否、尤もそれは、そうなっている事が事前に予想出来ると言うだけであって、抱く感慨をその光景を目にしたことだけに限定して言えば、気性を知ろうが知るまいが変わりはないのだけれども。


 亘乎は頼劾の呆れに答えるでもなく緩く頭を傾けると、腕の中の女を見下ろす。

 そうして、つい、と目を細めてからまた顔を上げた。

 元々血色の良くない亘乎は、赤の中、余計に青く見える。


「ライコウ殿、彼女が今回の依頼人――識安嬢ですよ」


 頼劾が、短く息を吐く。


「そりゃあ御丁寧に」


 ドウモゴキゲンヨウ、などとわざとらしく上品ぶった言葉を、相変わらず眉間に皺を寄せたままに完全なる棒読みで頼劾は呟いた。

 そうしてからまた、むっつりと口角を下げる。


 識安は壊れることも出来ずに、そのやり取りを聞いていた。

 むしろ言えば、聞きたくて聞いた訳ではなく、勝手にふたりの声が鼓膜を震わせて染み込んで来る。

 真っ黒い赤の中、ひたすらに夢現を繰り返していたせいか、それとも久々に目にする明かりのせいなのか。

 否、そんな物理的な根拠よりももっと、内に迫るもののせいで意識を飛ばす事など出来ずにいるのだ。


 そんな識安を、男達はじっと見つめた。

 けれども彼女にとって残念な事に、それはただ見つめただけであって識安の心を慮るだとか優しい理由などは存在していない。


「識安嬢をお願いします、ライコウ殿」


 そんな声と共に、識安は亘乎の腕からもっと逞しい腕へと移された。

 勿論、彼女に抵抗する心積もり――もしくは、そうする程に働く思考――などなかったし、そも、そんな力も体力もない。

 ただ、手首から風呂場の蛇口へ繋がったままの鎖が張られたせいで爛れた皮膚が削れ、意思とは関係なく身体が跳ねた。


「おい」


 頼劾の声へ亘乎がどんな反応を示したのか、痛みに身体を震わせる識安には分からない。

 けれども、水が跳ねる音の後に重い金属同士がぶつかり擦れる音がして、手首が少し軽くなった事には気が付いた。

 自分の手ではどうにもならなかったのに、どうしてそうも簡単に外れてしまうのかなどと考える余裕も、今の識安にはない。


「ライコウ殿ならだけで問題ないでしょう。上の……ソファにでも寝かせてやって、そうして貴方の部下達がやって来たなら、札を持たせてやって下さい」


「時間がかかるのか」


「そうですね」


 亘乎は穏やかな――先程までの熱を感じさせない至って平坦な声で告げた。

 頼劾にはそれに反対する理由などはないし、ひとつ頷いて了承を示すと鎖を引きずらないように纏めて持ち、亘乎と赤く染まった浴室から離れる。

 ライコウ殿はがさつなのだからくれぐれも優しく丁寧に扱ってやって下さいよ、と、その背中を亘乎の声だけが追い掛けた。




 蛇口から溢れ続けていた湯は、今はもう排水口から流れ切っていて、未だ籠もっている湯気と浴室の床を濡らしている以外には存在を感じさせない。

 その場で色濃く主張しているものと言えば、やはり、噎せ返るほどの腥さに満たされた湯船と、赤く染められた壁や天井ばかりだろうか。


 ゆったりと目を瞬く。

 濃密な赤をたっぷりと含んだ手袋を、洗い場へと脱ぎ捨てた。

 詛いではなく、希安と孝重のに染まっているのだ。

 この手袋も、シャツも、袴も、あの着物も、もう使い物にはならないだろう。


 亘乎は、手袋の下から現れた手のひらの引き攣れた痕を強く握り込んでから、袖を捲って浴槽へと沈めた。

 とぷんと、水よりももっと濃厚でとろみのある音を立てたそれの、絡みつくような抵抗を感じながらゆっくりと底から浚っていく。

 そうして、不意にぶつかったものに手を止めた。


 ――これは、どれだろうな。


 それを引き上げながら、安置所での会話を、左椋の言葉を亘乎は思い返していく。

 遺跡や化石の発掘に熟練の技を持つ学者だって、世界一むつかしいジグソー・パズルを世界一速く解いてしまうパズル・ジャンキーだって、無理に違いない――つまり、それなのだ。

 生々しい赤を滴らせる何か肉塊のようなものが、引き上げられた亘乎の手のひらに載っている。


 それを端に放ってから、もう一度生温い浴槽へ手を浸す。

 また指先に当たったものを持ち上げて、けれども今回は亘乎の目にもそれが何なのか、むしろ目にするより前にすぐ分かった。

 赤く染まってはいるけれども、これは、骨だ。

 それは恐らく、潔生のなくなっていた胸椎のひとつだった。

 もしかすると、


「全く、残酷な事をする」


 立ち上がりながら呟いた亘乎の、歪められた口元を見咎める人は今、誰ひとりいない。

 そして亘乎本人も、自らを咎める事はなかった。

 何故ならば本人は歪な笑みを浮かべた唇にその瞬間、気付いていなかったからだ。


 細く細く、息を吐く。


 自らの内から私を全て追い出して、そうしてから、深く深く、息を吸う。


 あまりに強過ぎる、暴力的なさついと、希安と孝重とほんの少しの潔生をすり潰し抽出したエッセンスが、気管を這いずり、亘乎の肺胞を膨らませ、その場へと縛り付ける。


 ――これの始まりは、一体どれなのか。全ての始まりは、一体何だったのか。


 亘乎はゆったりと目を瞬いて、そうしてから浴室内へ視線を巡らせた。

 亘乎の目に映っているのはその場を満たす赤ではなく、溢れ出す思いと、そして言葉達だ。


 声が聞こえる。


 愛であるなどと美しく語れはしないじわりじわりと呼吸を奪う執着と、指先から冷えて腐り落ちていくような虚しさと、突如として弾け燃え上がる妬みと。

 亘乎の周囲を取り囲み騒ぎ立てる、語り尽くせないほど複雑に絡み合う激しい感情達――そして、不釣り合いな程に澄んだ鳥の声。


「教えておくれ」


 優しく囁いて、そうして、右腕を持ち上げる。

 差し出した指先へ、赤い鳥が下りてきた。


 ――交喙、赤い、小鳥、希安の詛い。


 チョッ、チョッ、と交喙がさえずる。

 亘乎は自らの中へ流れ込む膨大で、暴力的な赤へ、忘我ぼうがきょうへと落ちていったのだった。

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