第十八話

 閉め切られた玄関を破ったその瞬間、均衡を乱され崩れ落ちるが如くに溢れ出した空気は、男達の気管を生温く下っていった。

 反射的な躊躇いに呼吸を止めてみても、無理矢理に喉を開かされ、流し込まれるような不快感が込み上げる。


 嫌に湿度が高い。

 そのせいなのか、亘乎が日頃嗅ぎ馴れている墨にも似たにおいが、建物の中へ微かに、そしてまだらに漂っているようだ。

 これは恐らくかびだろうと、そう当たりをつける。


 建物の中へ入っても、相変わらず明かりになるものは頼劾の持つ懐中電灯だけだった。

 それを手早く巡らせて見付けた電灯のスイッチを切り替えるけれども、中から金属同士がぶつかり合う音がしただけで一向に明るくなる気配がない。

 ドア脇の壁、高い位置へ振り仰いだブレーカーを見るにどうやら、元から電気が落とされて――もしくは落ちて――いるらしかった。

 そうであるならば、不用意に触れない方が良いだろうと、言葉を交わさずとも意見が揃ったのをお互いが感じていた。


 ブレーカーから意識を外して、視線と明かりを足元へと落とす。

 その先の、玄関土間に出ているのはヒールのみだった。

 あの赤いヒール――依頼人の女が、亘乎の店へやって来た時に履いていたそれだ。

 それが一足出ているきりで、希安のものと思われるものはない。

 けれども作り付けの下足箱を開け覗いてみれば、幾つかそれらしい男児用の靴が入っていた。


「ここにお前の店に来た依頼人の女……識安だったか。それと、希安と言うあの子供が住まっていたのは、間違いないようだな」


 低く、周囲のほんのわずかな距離だけに届くよう落とされた頼劾の声に、亘乎は何も言わずに頷いてみせた。

 靴なぞ見なくとも、そも、亘乎はそれに間違いはないと思っていた。

 シューニャが詛いの声を――希安の詛いを聞き、そして自らは今、あの時確かに識安から得た詛いの断末魔を聞いているのだから。


 口を噤んで、静かに瞑目し、闇の中へ自らを溶かし込んでいくようにして現し世の音を聞く。

 識安の詛いでもなく、希安の詛いでもなく、今ここで起きている事象の音を。


 呼吸音がふたつ。

 自らと、頼劾のものだ。

 浅くはなく、かと言って深くもなく、そして特別速い訳でも遅い訳でもなく、ふたり共が至って平静を保っている。


 届いたわずかな衣擦れは、ネズミ一匹たりとも逃すまいと注意深く辺りを照らしていた頼劾がかまちを上がった音で、それと同時に耳へ届いたぱきりと高く弾けるような音、これは頼劾の癖のせいだ。

 手のひらの中へ何か硬いものがあるかのように圧を掛けて握り込み、親指の関節を鳴らすと言う癖が、昔から頼劾にあることを亘乎は承知している。


 耳の横で鳴ったのは、音を拾う為に微かに首を傾げたせいで自らの髪とモノクルのチェーンが触れ合った時のもの。

 普段からよく耳にする音だ。


 頼劾が踏み出したことで、板張りの床が軋む。

 けれどもそれは物理的な事象として捉えるよりも、建物が自分達の存在に気付いて囁き合っている、そんな心持ちにさせた。


 その合間から極めてささやかに届いたのは、水の音らしかった。

 絶え間なく、細く、流れ続ける水。

 流し台か洗面台か――否、どうにもそれらの音とは違うと亘乎は思う。

 ふむ、と息を吐いて、静寂を破る。


「……風呂場はどこだ」


 もし万一ここに左椋が、あのやかましい男がいたらば、真っ先に茶化しそうな言葉だと思いながらも亘乎は目を開けた。

 けれども左椋は彼の城から離れることなど滅多にないし、同じくらいに喧しい彼の妹などは今の居場所は更に遠く、そして彼等の他に亘乎を気軽に茶化してみせるような人間はいなかった。

 そも茶化すなどと言う言葉が彼の内へほぼ存在しないだろう、一足早く上がり込んでいた頼劾は、振り返る気配すらなくしゃくるようにして頭を一瞬、傾ける。


「知らんな。順に行くぞ」


「嗚呼」


 特に何の感慨がある訳でもなく、ゆったりと瞬きをして、亘乎は頼劾の後を追った。




 玄関を上がってすぐのところ、左側には二階へ向かう階段が、階段脇の奥まった位置には収納らしき扉があり、右手には玄関ドアとは垂直に位置するドアがある。

 ドアを潜り抜けた先は居間かもしくは応接間らしく、ソファ・セットが置かれており、その部屋の奥はダイニング・テーブルが、それに面する固定された間仕切り壁の向こう側には台所があるらしかった。


 室内は、潔生の部屋などとは違って随分と落ち着いた印象を受ける。

 余計なものどころかあまりにも整然とし、こざっぱりと纏まった室内は孝重宅よりももっと男性らしい雰囲気だった。


 そこへ足を踏み入れたことで、水音がわずかに近付く。

 けれども台所の水道から水が流れている様子もなく、亘乎の耳が拾うそれには未だ間近とは言えない。

 ただ、頼劾も漸く気付いた様子で、探るように目を眇めている。


「これか」


 少ししてから頼劾の持つ懐中電灯が照らし出したのは、キッチン部分にあるドアだった。

 階段脇にあった収納らしいそこの、裏側に繋がるだろう位置だ。

 そこへ近付けば、なるほど、わずかながらに水音が大きくなる。

 食品などを貯蔵しておく部屋かと思えなくもないのだけれども、そうであればそこから水音が聞こえる道理はない。


 頼劾の武骨で繊細なところなどひとつもない手がそのドアへかかり、ひと息に開かれた。

 途端漂うのは先程から男達へまとわりつく墨のような――黴のにおい、そして、腥さ。


御賢察ごけんさつ


「茶化すな、亘乎。御立派になりやがって」


 能面のようなその相貌にわずかながらの笑みを浮かべた亘乎に、頼劾は鼻白はなじろんだように片方だけ眉をしかめた。

 けれども次の瞬間にはそのドアの先へ意識を戻して、また指の関節を鳴らす。



 足を踏み入れたドアの先は、どうやら階段室らしかった。

 二階へ上がる階段と平行線を描くように下へと階段が伸びているらしく、手摺りの奥へ闇がぽかりと口を開けている。


 な雰囲気だ。

 けれどもまさかそれに怯えるような二人ではなく、また、楽しむ訳もない。

 地下へ繋がる四角く黒い空白をじっと見て、そしてただ口を開く。


「鬼が出るか、蛇が出るか」


「おや、鬼退治などはライコウ殿の得意分野だろう」


 頼劾が、ふ、と短く息を吐く。

 それだけを返事として、階段を慎重な足取りでもってふたりは下っていった。




 下りきったその先はまた、階段室らしかった。

 右手と正面は壁で、左手へ空間を置いてからドアがある。

 電灯は勿論ついているけれどもブレーカーが落ちている今、一階部分よりもっと純粋な黒がそこへは満ちていた。


 静かに息を吸う。


 懐中電灯の光すら縁から食らってしまうのではないかと思えるほどに、黴と腥さが濃密に漂っている。

 そうして、水が――流しっぱなしにされた水の音が、男達の耳へ届いていた。


 この先へあるのが風呂場だとして、そして、そこにもし識安と言う女がいたとして、ふたりに躊躇いなどはない。

 何せ、こんな黒の中で風呂に入っているなど、普通考えられることではないからだ。


 ドアを開け、脱衣場であろうそこへ足を踏み入れる。

 変わった様子はない。

 懐中電灯の明かりを巡らせて初めに目に止まったのは、ドアの正面にある洗面台のコンセントへ差された何かの線だった。

 それを辿っていけば、赤とかち合う。

 脱衣場のドアと横並びにある浴室のドア、内側から赤く染まったそのドアの、隙間を通っていた。


 軽く目を伏せる。


 しかし、――そう心の中で呟きながら、亘乎は浴室のドアを折り畳むようにして開いた。




 いっそのこと、狂ってしまえるのなら、何より一番、楽だった事だろう。

 夢現を繰り返し、そして鳥の声を聞いている。




 噎せ返るほどの鉄のにおいが亘乎に絡みつき、気管を下り、そして肺胞のひとつひとつへと染み込んでいった。

 息苦しさは、湯船から外れたところへ溢れているらしい湯が立ち上っているせいだ。

 否、湯と言えば聞こえが良いかも分からない。

 正確に言うなら、それよりももっと熱く、火傷を免れないほどのそれだ。


 元より明かりなどなく黒いその場所は、しかし、明かりがあったとしても恐らく湯気のせいで視界は利かないだろう。

 けれども、見えなくとも、亘乎も頼劾も、に気付いている。


「栓を」


 背後から頼劾が照らす懐中電灯でどうにか水栓を締めて、浴室の外から引き込まれた線を辿り、

 感電の可能性を取り去った事を確認すると、頼劾は引き返して玄関付近へあったブレーカーを上げに行った。



 ただただ純粋な黒の中、全身へ絡みつく鉄のにおいの中で、静かに響く呼吸音。

 ひゅうひゅうと鳴るそれを聞きながら、亘乎は熱い――熱すぎる湯の中から、それを抱き上げ、洗い場へと下ろした。


 着物を脱ぎ、ふやけた、もしくは爛れているかも分からない皮膚を破いてしまわないように、柔らかく包み込む。

 その拍子に、重い金属同士が触れ合う音がしたけれども、亘乎は何も言わずにそれの髪を撫でつけた。


 右手へ伝わる微かな震え。


 ひゅうひゅうと鳴るそれが、荒くなる。


 否、荒くなりはしても酷く弱々しく、抵抗を示すことは出来ていない。


 それからほんの少し経って、じ、と言う音と共に浴室と、脱衣場も、明るさを取り戻した。

 急激な光量の変化について行けず眩んだ目を閉じて、わずかずつ馴らしていく。

 細く開いた亘乎の視界に映るのは――曼珠沙華が咲く黒に包まれた、赤だ。


「依頼人殿、貴方は、識安嬢で間違いありませんね」


 亘乎の場違いに穏やかな声に、血走った目がぐるりと動く。

 恐らく幾日も黒の中で過ごしていたのだろうから、よく見えていないだろう。

 それでも、赤に塗れた唇が微かに戦慄いた。


 くすんだ茶色に染められた髪も、濃密な赤を含んでいる。

 絡み合い、束になり、のようになっている。


 湯船に溜まったのは、識安を濡らしているのは、赤。

 血と言うにはあまりにも、熱すぎるそれ。


 亘乎は決して微笑んでしまわないように、震える識安の耳元へそうっと唇を寄せた。

 堪えきれずに洩れた溜め息は、確実に、熱を孕んでいる。


 頭の中で『死と乙女』を流して、そして瞑目する。


「孝重と、潔生と、希安は」


 一拍、二拍。


「赤い詛いで死にました」


 声にならない悲鳴が、亘乎の鼓膜を突き破らんばかりに揺らした。

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