第十七話

 電話から数分の後、昼過ぎ振りに顔を合わせた頼劾の横には既に矢途の姿はなかった。

 訊けば、一応用心の為に札を持たせて今日のところはと邏卒へ返したらしい。

 色々と訊きたい事もあったけれども、矢途のが意識的なもので、もし万一やましい事があったとしても、彼がどこかへ逃げることなど出来やしないのだから今は良いとしよう――そう考えながら、亘乎はなるほどと頷いた。


 運転席へ頼劾が、助手席には亘乎が座り、後部座席ではシューニャが上体を倒して三人分のシートを独り占めしている。

 この三人が揃うと大抵はこうなった。


 シューニャは亘乎の他に、左椋とその妹、そして頼劾の三人へ特に心を開いている。

 否、正確に言うと亘乎とあとの三人に向けてならば、そのほとんど成長していない心も多少は動く――そんな程度の話ではあるのだけれども。

 左椋とその妹は良いとして、頼劾が自らへ、まだ年端の行かない子供へ対する慈悲のようなものと、子供故に、そして子供である事には関わりなく、苦手とする心持ちなどを抱いていることをシューニャは悟っていた。

 頼劾本人がそう口にした訳ではなくシューニャだからこそ知るに至り、また、だからこその苦手意識であることも知っている。

 けれどもそれを改善しようと思うまでには、未だシューニャの情緒は育っていなかった。

 それをそうとして、ただただ受け入れているのだ――頼劾と自らの間にあるのは、そう言うものなのだと。

 決定的に歩み寄る事が出来ないのだろうだとか、その程度なのだ、とすら思わない。

 座席シートへ染み付いた煙草のにおいを感じながら、白い少女は何も言わず静かに目を閉じた。



 黒っぽいシートの上に散らばる白をルームミラー越しに眺めてから、亘乎はまっすぐと進行方向へ視線をやる。

 頼劾はと言えば教習所で教えられただろう事を守る心積もりなどさらさらなく、片手をハンドルの上部へと載せて操作をし、車を走らせていた。

 この時点で頼劾に褒められる箇所があるとすれば、シガレット・ケースをポケットの中へ押し込んだまま取り出さずにいることくらいだ。

 残念ながらそれは気遣いからではなく、単に飲む気にならなかっただけなのだけれども。


「嫌に早かったな」


 そう口に出すと同時に、モノクルのチェーンをなぞる。

 未だ落ちきらない低い日の光を反射したそれを、頼劾は視界の端に捉えた。

 相変わらずむっつりと唇を引き結び、鼻から短く息を吐く。


「調べがついた訳じゃない。より邏卒の方が調べるには良いんでな。矢途を返すついでに顔を出したところで偶然、店の従業員が無断欠勤していて連絡も取れないと届けを出しに来たその店のマネージャーってのと出会でくわした、それだけに過ぎん」


「では、識安はゼロ番ではないと」


「ああ、らしいな。姉は通常の手続きを踏んでいて、しかし弟はゼロ番……そこにどんな事情があるのかなんぞ調べる時間はなかったが、どう贔屓目に見ても何かあるのは確かだ」


 不愉快だと言わんばかりの頼劾は、熟練のタクシー・ドライヴァーよりもトバリ中の道を知っているとばかりにハンドルを切った。

 車は緩い勾配を登っている。

 半ば眠りに落ちていながらもそのわずかな傾斜に気付いたらしいシューニャが、小さな子供がむずかるように身じろいだ。


「そっちは」


 ルームミラー越しに向けられた厳めしい眼差しに、亘乎はゆったりと目を瞬く。

 何から言うべきかと安置所での一連の出来事を思い返せば、途端、視界の端から腥い赤が沸き立つような心地がした。

 詛いか、詛いにすらなり得なかった情念の塊か。

 瞑目してそれを追いやると、車内に染み込んだ煙草のにおいで肺胞を膨らませて、現し世にしがみついた。


「希安が……恐らく識安の弟だと言う話は、したな」


「ああ」


「希安は、種違いの姉にそれ以上の感情を抱いていたらしい。識安は、希安にとっての全てだった」


 頼劾の眉間に刻まれた皺が、より一層深くなった。

 どう言う事なのかと言わんばかりの視線が刺さり、亘乎は息を吐く。

 意味もなく左手にはめた手袋を直して、そうしてまたまっすぐと前を向いた。


「ここからは推測だが、希安は詛いの才覚を見せていたに違いない」


 亘乎の言葉が途切れるや否や、頼劾は出掛かった笑いを自らの内へ押し込めた。

 それは亘乎の言葉を馬鹿にしている訳などではなく、その言葉から芋づる式に想像がついた事柄をあざける為のものだ。

 現に皮肉っぽく口角を歪めた頼劾は、それを告げる為に再び口を開く。


「希安は親に疎まれていたと」


「まぁ、恐らくな」


 けれどもこれはあくまでも憶測でしかないのだと、強調する事は忘れない。

 それに、疎まれたのは希安だけだとは限らないと、亘乎は心の内だけで呟いた。

 それこそ、憶測の域を出ない話であるのだけれども。


「孝重は読み取れる部分は少なかったから何とも言えないが、父親がその妻……孝重の母親に対して暴力を振るっていたようだ。女は男に比べて劣っていて、暴力でもって躾をしてやらねばならないと、幼い孝重へ説いていたらしい」


「はン。そりゃあ御立派なもんだ」


 世の中に相変わらずそんな考えを持つ者達が一定数存在することを、二人は知っていた。

 そしてその逆で、女性こそ優れているのであると訴える者達が存在することも、勿論承知している。

 頼劾も亘乎も、どちらを支持する事はない。

 男にしろ女にしろ、それの間にしろ枠の外側にしろ、詛いに性差などはないからだ。

 人間なんてものは少し知恵を持って、けれどもどこかへ何かを置き忘れてきた、ただの動物でしかない。


 否、むしろ知恵をつけたからこそ始末が悪い、と、そう思っていた。


 モノクルをしたままで、亘乎が目頭を押さえる。

 そうしてからまた顔を上げると、その血色のあまり良くない薄い唇を開いた。


「そして潔生だが……随分とであったようだな」


「子供好きだと」


 あれでか、と、頼劾は今度こそ嘲りを隠さずに鼻で笑ってみせた。

 それはそうだろう。

 潔生のあの執念深く絡みつくコレクションを見た後では、あまりに信憑性のない言葉だ。

 けれども、亘乎は一度だけゆったりと首を振る。


「あれは、確かに頭のおかしな女だが、小児性愛者とも違う。性愛と言うものは潔生にとっては酷くけがらわしく、憎むべきものだ。自意識としての性を持たない子供である事こそが潔生にとっては重要で、それを量る為の言わば儀式として彼等へ口付けていた……恐らく、な」


「さっきから、お前にしては曖昧な物言いだ」


 赤信号で停止した車の中、頼劾は嘲りの意味はなく、ただ事実としてそう言った。

 ところどころに白いものが混じる短い髪をぐしゃりと撫でつけて、再び車を走らせる。


「希安の詛いので、潔生の中身なんて読めるものではなかったのですよ。シューニャも、私もね」


 助手席のシートへ深く身を沈めて、亘乎は独り言のように呟く。

 酷く疲れた声色をしている癖にやんわりと口角が上向いていたその様を、頼劾だけが見ていた。




 それからどのくらいの時間、車を走らせたのだろうか。

 辿り着いたのは、こんなところに住んでいる人間がいたのかと思うほどに多く木々を越えたところだった。


 識安が勤めていたイタルヤの店からなら、車で二十分ほどかかるかも分からない。

 道路は建物前まで続いているけれども乗り合いの停車場も識安の家へ辿り着くより随分前に終わっているから、車を持っていなければ何倍もかかるだろう。


 行方不明者届を出しに来たマネージャーも、何度かもっと便利の良いところへ引っ越しをしてはどうかと声をかけていたらしい。

 けれども識安は、この家は死んだ父親から継いだものだからと譲らなかったと言う話だ。

 それが事実なのかは分からないが、ゼロ番である希安も一緒に住んでいたのならそう簡単に引っ越しは出来なかったのだろう。


 車を降りた三人は、小さな一軒家の前へ立っていた。


 白い壁に赤茶色のトタン屋根と言う外観を見た限りでは、至って普通な、建て売りで幾つも並んでいそうな一軒家だ。

 違和感があるとすればやはり、木々の中へぽつりと一軒だけ建っていること――否、他にあってもおかしくはないのだけれども――だろうか。


 もう日は暮れて、空が濃紺に染まっている。

 その建物を照らすのは頼劾が持った懐中電灯だけで、輪郭が霞がかり今にも空へ溶けていくようだ。


 どうやら全ての窓にカーテンが引かれているらしい、と亘乎は思った。

 赤いカーテンだ。

 依頼人の女しあが生み出したあの詛いのように、赤く、そして、どこか冴え、冷え冷えとしたその色。

 白い壁に時折現れる赤は、酷く目立つ。


 まるで、仄暗い木々の中でぽつりと佇むその建物が、亘乎の目には識安と言う女そのものにも見えた。


 ――静かだ。随分と、静かだ。


 否、勿論全くの無音と言う訳ではない。

 吹き渡る風は固い蕾をつけた枝を揺らし、絶えずざわめかせている。

 けれども、それだけだった。

 カラス一羽も鳴きやしない。

 ただ亘乎は自らの右目と、左の手のひらと、腹が――古傷が嫌に傷むのを感じていた。


「どこか開いているところはあるのか」


 手袋とモノクルを直しながら建物を見上げる。

 この中に識安がいるのかは五分五分ではあるけれども、ここまで来て外観を眺めただけで帰るなどと言う選択肢はない。

 隣へ立っている頼劾は、厳めしいその表情にどことなく獰猛さを滲ませて口角を上げた。


「さぁな。だが、開かなきゃあ、開けるだけだ」


「ライコウ殿らしい」


 軽口のような言葉を交わして、ぐるりを眺める。

 人が出入りする為の場所なのだから、玄関で良いだろう――そんな考えは、何も言わずとも頼劾と亘乎の間で一致していた。


「ないてる」


 二人が足を踏み出したその瞬間に、シューニャが呟いた。

 車の前でひとり立ち竦む白が、濃紺へ呑まれながら両耳を押さえている。

 嗚呼、――亘乎の唇が、弧を描く。


「行くぞ」


「嗚呼」


 白い少女を車へ残して、男達は宵闇の中赤く佇むその建物の玄関を破った。

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