第十六話
「やぁやぁ過ぎた愛を詛った少年君、改めてこんばんは。昼前に顔を合わせた時は、きちんと挨拶をしないまま服を剥いたり撫で回したりと、色々様々じっくり観察してしまって悪かったねぇ。今更ながらに自己紹介させて貰うと、僕がこれから君の腹を掻っ捌いて弄くりまわす検死医の左椋だよ、宜しくねぇ」
もう二度とその薄い胸板を膨らませる事のない希安の冷え切った肩に手を置いた左椋は、少年の耳元へ顔を寄せてそう声を掛けた。
先ほどなどはあれだけ神妙な顔付きをしておきながら、今はその唇をにんまりと歪めている。
亘乎は自らが多少、世間一般の感性からずれたところを持ち合わせている事に自覚があったけれども、左椋や彼曰わくの愛しの愚妹などはそれの比ではないと思っていた。
否、むしろ左椋達からしたらば亘乎の方が世間から逸脱した部分が多いと思うかも分からない。
けれどともかくも、その光景が常人の感性からして恐らく異様な場面に見えるものだった事は否定出来ないだろう。
解剖台の脇に立つ手術着に身を包む左椋は恐らく、他にいる検死医よりもっと緑色が強い。
それだけ反対色と
そんな事を考えながらゆったりと目を瞬いた亘乎は、未だ目を覚まさないシューニャを抱え直した。
いつの間にか着物を掴んでいて離さなかった事もあるけれども、そもこの部屋で横になれる場所と言えば、解剖台と死体貯蔵庫しかないのだから仕方がない。
「それじゃあ早速失礼するよ、過ぎた愛を詛った少年君。もはや屍となり果てた君に痛覚などはないと思うのだけれども、あえて言わせて貰おうかな。ちょっとチクッとしますよぉ、なんて。まぁ刃物でその皮膚を切り開こうと言うのだから、チクッとどころではないけれどもねぇ」
アハハ、とマスクの下でくぐもった笑い声がした。
冗談のつもりなのだろうけれども、随分と笑えない。
そも、亘乎が
そうしている内に、不意に一切の声が途絶えた。
漸く取り掛かるらしい。
左椋の右手に持たれたメスが鋭く蛍光灯の青白さを反射して、亘乎の視界を一瞬だけ焼いた。
反対側も対称になるようメスを入れると、今度はその線が交わったところを起点として下腹部までをまっすぐ切り下ろしていく。
その時の、ほんのわずかな瞬間、左椋の手が止まった事を亘乎は見逃さなかった。
何を感じたのか――そう考えてみても、壁際の少し離れた位置から眺めている現状ではろくに探る事は出来ない。
ただ、自分は何も感じなかったからむしろ直接見たのだろうと、そう思った。
「さぁて」
亘乎を誤魔化したのか、はたまた自らを誤魔化したのか。
左椋は努めて明るい声でそう前置きして、メスを置いた。
赤くてらてらと光る刃の切っ先が、生っ白い顔で横たわる希安が真実、かつてこの
下向きの鈍角を作る皮膚を、その下の肉ごと持ち上げる。
遠目から見た限りでは、現れた
けれども、あとの二つの角をも左右へ開いた左椋は今度こそ、その手を止めた。
チョッ、チョッ、と、あの鳥の声が聞こえたような気がする。
ひんやりとした腥さがモノクルのチェーンを揺らし、目を覚まさないままにシューニャが身じろぐ。
そして、開ききっていなかった腹の辺りの皮膚が、風船の空気が抜けていくようにして萎れた。
「嗚呼」
そんな左椋の声は、嘆きであるのか、それとも得心がいったと言う意味なのか、彼の細かな感情は目元しか見えない今、さして量る事は出来ない。
けれども、何が原因でそう嘆息したのかはすぐに理解する事となった。
――ああ、あれは。
取るべき手順を変え肋骨の前部を取り去るより先に、左椋の手が希安の開いた腹部へ差し込まれる。
その行為に、メスだとかハサミだとか、そんな刺々しい器具など必要ではなかった。
「嗚呼」
再び洩らされたそれは恐らく、嘆きだったのだろう。
亘乎はゆったりと目を瞬いて、安置所と言う冷たい舞台の上で、スポットライトを浴びているかのように際立つふたりをじっと注視する。
「ねぇ、君は、君はこんなものを腹の中へ飼っていたのかい、過ぎた愛を詛った少年君よ」
薄いゴムの手袋に包まれた手が、赤に染まりながら、赤い何かを取り出す。
左椋の成人男性にしてはさして大きくない両の手のひらに、簡単に包まれてしまうほどの小さな何か。
チョッ、チョッ、と言う泣き声が、亘乎の脳味噌へ木霊している。
金属製のトレーへ、ひとつ、ふたつ。
途中動きを止めたかと思えば、
そうしてまた手を差し入れれば、ひとつ、ふたつ、掬い上げて、それにつれてトレーへ載る赤い塊が増えていった。
どのくらいの時間が経っただろう。
事実だけを述べるならば、シューニャは未だ眠りへ落ちたままだ。
「さぁ、うん、これで全てだねぇ」
そうくぐもった声で言った左椋は、悦楽へ浸るような眼差しを中空へと放り投げた。
その目には今や亘乎とシューニャの姿は見えておらず、更に言えば寸前まで弄っていた希安の姿すら映っていないようにも見える。
――これは、やはり、左椋の悪い癖だな。
口の中だけで呟いて、けれども亘乎はそれだけに留めた。
何せ、それが左椋と言う男を肉付ける為に、欠かす事の出来ない要素であるからだ。
そうであるが故に左椋であり、左椋であるが故にそうである。
そんな無茶な主張すら簡単に通ってしまうだろう。
ともかくも、この状態で無理やり引き戻そうと思っても無駄だと言う事は、亘乎は十二分に分かっていた。
眼前へ浮かび上がっていた左椋にだけ見えていた何かが不意に霧散したのだと、亘乎には分かる。
焦げ茶色の目玉がぐりぐりと
強く縫い付けられた黒い瞳孔は、亘乎のゆったりとした瞬きに合わせるように緩むと、脱力してトレーへと落ちる。
丁寧な手付きで鈍色へ載せられた、幾つもの赤い塊達。
左椋はそれをじっと見つめて、慈しみを込め赤に塗れた指先でそれの頭を撫でる。
「センセイ、センセイ、教えておくれよ。知っているんだろう、ねぇ、センセイ。これは……この鳥は、一体何という鳥なんだい」
亘乎はまた、ゆったりと目を瞬いた。
そうしてモノクルのチェーンを揺らしながら、わずかだけ首を傾げる。
「交喙だ」
「イスカ」
口の中でじっくりと味わうように、左椋は何度もその鳥の名を繰り返していた。
――希安の腹の中には、交喙が詰まっている。
文字にしただけであれば何やら哲学的にも聞こえるその言葉は、もっと即物的な腥さでもって亘乎達の目の前へ存在していた。
ぷっくりと膨れたその小鳥の腹と、食い荒らされたはらわた、千切れた羽根に、数の合わない足。
凄惨な殺鳥現場と化した希安の中は、赤く汚れている。
「センセイ、センセイ、
頭を切り開いて脳味噌を取り出しながら、左椋は嫌にのんびりとした口調でそう言った。
頭蓋の天辺を失った少年とそこへ手を突っ込む男と言う組み合わせは、そう言う職に就いていなければ普段目にする事はなく、まるでキネマトグラフの一場面でも見ているかのようだ。
そしてキネマトグラフならばのんびりと鳥の話などはしないはずで、どうにもミス・マッチな印象が拭えない。
問い掛けられた亘乎は、シューニャを抱え直しながら特に気にした様子もなく、さぁ、とだけ呟いた。
「哀れな男性君の腹を伽藍堂にして、寝取り心中女ちゃんの腹をミンチにしたのは、このイスカとだったと言うことなのかな。つまりは、少年がそうしたと言うのだから、少年の詛いがイスカと言う形を取った訳だ。センセイの詛いが色彩と言うもので訴えて来るのは最早この界隈での周知の事実と言うやつで、知らなきゃあモグリだなんて言われているけれども」
「待て、私はそれほど有名になったつもりなどないが」
「まぁまぁ、残念ながら、そこは事実なのだよセンセイ。詛兇班が把握しているのは当然の事として、そら、他の隊や邏卒もある程度の階級になれば嫌でも……否、嫌と言うのは語弊があるけれどもねぇ、とにかく、ヨゴト画房と言うのをやってる兼業詛い屋はお墨付きだって名が知れている訳だし、そもそもセンセイフリークな奴らが元より存在している事なんて、ねぇ、センセイ、よぉっく分かっているんだろう」
希安の遺骸へ向けられていた左椋の目が、亘乎へと向かう。
聞きようとひとによっては人望を集めたのだと誇ることもあるかも分からないが、亘乎は真実、それらが自らの人となりを見てだけの真っ当な思いだけでない事を良く知っていた。
だからこそ、その能面のような無表情はほぼそのままに、器用に片方の眉だけをしかめて
「アハハ、いいねぇセンセイ、たまにはそうやって色んな顔をしてみるべきだよ。ええと、そう、まぁセンセイフリークスの事は置いておくとしてねぇ。僕なんか詳しくないけれども、聞くところによるとセンセイの詛いはそうであると言う必然性の元に生まれた訳なんだろう。したらばこの過ぎた愛を詛った少年君はだよ、一体何をキッカケにイスカと言うかぁいらしい小鳥の形をした、残忍とも呼べる暴力的な詛いを生んだのだろうと、そう言う事が僕は言いたいんだよねぇ」
すぐにすっかり無表情に戻っていた亘乎は、左椋の言葉に、ふむ、と息を洩らした。
何故イスカであるのか、確かにそれは見えては来なかった。
考えていると不意に、脳裏へシューニャの声が蘇る。
「赤い鳥、赤い花」
「え、なんだって、センセイ聞こえないよ」
口の中だけで呟いたその言葉は、左椋の立つ場所までは形を保てなかったらしい。
答えようと亘乎は口を開いたけれども、それより早く、鳴り響いた電話のベルに立場を奪われた。
ああはいはいと、左椋は血に濡れた薄い手袋を捨てて壁へ据えられた内線の受話器を取り上げる。
ベルが
「申し申し、安置所の主ですよ、っと。ああライコウ殿、うん、はぁ、良く分かったねぇ、確かにセンセイとシューニャがここに……え、おやおや、分かったよ、伝えよう、じゃあ、失礼」
目が覚めたのだろう、シューニャが着物から手を離す。
下ろしてやったのと、左椋が電話を切ってふたりを振り向いたのは、ほぼ同時の事だった。
「センセイ、シューニャ、依頼人の家が分かったようだよ」
迎えに行くから待っているようにってさ、と言葉を遮られた事への不満を織り交ぜながら言う左椋に、亘乎は思ったより遥かに早かったと思いながら黙って頷いてみせた。
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