第十五話

 とりあえず見てみようと、そう言う事になった。

 矢途が故意に嘘をついたのか、もしくは嘘ではなく死んでいると思い込んだのか、はたまた、それらはただの左椋の思い過ごしなのか。

 ともかくも、シューニャと左椋の二人共がそれぞれの視点から少年を見て真実を詳らかにしなければ判断する事は出来ないと、そう言う結論に至ったのだ。


 まずはシューニャだ。

 何せ左椋の方法では些かが過ぎてしまう。

 この事件のように事態が絡まってさえいなければ左椋のやり方で何ら問題はないのだけれども、今回に限ってはそれでは困る。

 繊細に紐解き、詛いを掬い上げる必要があった。


 横たわる少年の――希安の髪は、潔生の日記帳にあったように柔らかな曲線を描いている。

 亘乎の脳裏には、あの日店へやって来た依頼人の女の姿が浮かんでいた。

 二人の似たところを探しても、男女の違いのせいなのか年齢の違いからなのか、はたまた種が違うからか――否、嫉妬に駆られ燃え盛る生と殺意に狩られ燃え尽きた死と言う違いからなのか、大して似ていないようにも見える。

 あえて挙げるとするならば、潔生が記したようにふたりともが親指の爪をボロボロにしているところくらいだろう。


 希安の胸へ、白い指が載る。


 未だ切り開かれる事なく金属製の台の上へ横たわる希安の肌は、幼さ故の滑らかさでもってシューニャの指を押し返した。

 冷たくはあるのだけれども、孝重などと比べて筋肉が遥かに少ないせいか、それより幾らも柔らかいようにシューニャは感じていた。


 薄い胸板に指を埋める。


 そのへこんだ部分から、赤がじわりじわりと浮き出てくるような気がする。


 この少年にはよもや流れていないのではないだろうかと思えた血液は、希安と言う皮の中奥深くに溜まっていたのだろうか。

 それとも、魂へ刻まれた詛いが押し出されるようにして溢れたのだろうか。

 否、どちらかなどではなく、どちらともであるのかも分からないと思う。


 亘乎はゆったりと目を瞬いた。

 左椋はじっと白い手元を見つめていて、シューニャはと言えばどことなく焦点の合わない瞳で希安を見下ろしている。


 そのままじっと見つめながら静かに呼吸をすると、強く指を跳ねさせた。

 希安を奏でるように、指が高音域を求めて駆け抜ける。

 小波を立てて踊る指先はレガートだ。

 力強さを思うより、その滑らかな疾走感に囚われる。


 指先は、前の二人と同じように額まで到達するとそこで一旦動きが止まった。

 かと思えば、今までの激しさは何だったのかと思うほど柔らかな手付きで、少年の長い睫毛をなぞるように滑りまなじりからこめかみへと伝う。

 まるで涙を拭っているかのようにも見えた。

 勿論、実際に希安の眦へ涙が浮かんでいる訳ではないのだけれども、もしか、シューニャには見えているのかも分からない。


 緩やかな動きで頬の輪郭を下り、首筋を滑って、傷のない鎖骨を越え、腹へと辿り着く。


 孝重と潔生とは違い内臓が存在したままであるらしいそこは、筋肉が弛緩しているせいであばら骨が多少浮いて見えはするけれども、左椋から見てもこれと言って特に気になる点はなかった。

 これで肌の色さえであれば、可愛らしい顔をした少年が眠っているだけにしか見えないだろう。

 その前提が一番困難な事であることには気付かないふりをした。


 シューニャの桜色が、微かに戦慄く。


「しあ」


 亘乎と左椋の頭の中へ、はたりと赤が滴り落ちた。

 低く微かに、そして何よりも着実に、何重にもなった輪を広げていく。


「しあ、しあ、だいすき、しあ、ぼくの、ぼくだけの、おねえちゃん」


 亘乎は、静かな声が冷たい部屋の空気を侵食していくのを感じていた。

 さしておかしな事を言っている訳ではないはずなのに、何故こうも背筋に冷たさを覚えるのだろうか。

 さらりと白が揺れる。

 首を傾げたからだ。


「しあを、みてる。ねむってる。かみ、なでて、ほっぺにさわって」


 シューニャは開いている方の手で自らの唇を指し示すと、キス、と小さな声で呟いた。

 亘乎と左椋はその光景を脳裏に浮かべながら、軽く瞑目した。

 眠っている識安へ、希安が口付けた――潔生が見たのは今シューニャが口にしたそのさまだったのだろう。

 それこそがこの事件の一因ともなった出来事なのだ。

 果たして、希安にとって幸せなだけの瞬間となり得たのだろうか。

 二人の胸へそんな思いが込み上げて来る。


「おねえちゃん。おかあさん。はじめて、まっすぐみてくれた、ひと。ぜんぶ、ねあの、ぜんぶ。しんじない、しあだけ、しあしか、しんじない、こわい」


 少年の中から拾い上げた単語を連ねて唇から手を下ろし、腹へ両の手のひらをつく。

 赤い殺意と、ただ純粋な希安と言う少年である感情をより分けていく。


「しあ、しんじてるから、ゆきみ、しんじることにした。でも、ちがう、ちがう、目が、ちがう、こわい、いやだ、しあ、しあ識安しあ」


 途端、シューニャの声へ違う声質が混ざり込んだ事に、亘乎も左椋も気付いた。

 希安だ――希安が溢れ出して来る。

 そう悟りながら、男達に出来るのはシューニャを見守る事だけだ。



「ひとりにしないって、言ったのに」


 白い指へ、赤が上ってくる。


「ぼくがいてあげるのに」


 毛細管現象のように、爪の間に入り込む。


「うら切られたんだ」


 赤は生者せいしゃの熱に、水分を失っていく。


「一緒だね」


 どことなく笑みを混ぜた声が合わさって、もやの如く立ち上った。


「識安がキライなものは、ぼくが全部こわしてあげるからね。識安を見てないオジサンなんかいらないよね。識安をきず付けるオバサンなんかいらないよね。うん、わかってるよ、識安がまっすぐ見ていられなくなっちゃったぼくも、いらないよね」



 立ち上った靄は、少年の形を取って世界の真中で立ち尽くす。


 泣いているのだろうか。


 それとも笑っているのだろうか。


 揺らいでいるせいでどうなっているのか判断が付かない。


「でも、識安だけはこわしてあげない」


 これは本当に齢十を数えた程度の少年が出せる声なのだろうか。

 絡みつく熱い無邪気さが腹の底へ、それとは真逆の大きな氷の塊を投げ込んで来たよう――そんな心地がした。


「ぼくをあげるね。オジサンも、しかたないからあげる。オバサンは、やだな、ぼく、一緒はいやだな。気持ちワルいんだ」


 今度こそ、希安が笑う。

 崩れ落ちるシューニャを、亘乎は再び抱きかかえた。




 黙り込む男達は、希安を見下ろしてから細く息を吐いた。

 何とも言えず重苦しいのは、まともではないそれぞれの世界を立て続けに垣間見たせいなのだろうか。

 シューニャを抱え直す亘乎はゆったりと目を瞬く。

 そんな様子を視界の上部に映しては、左椋は自らの持ちうる情報とのすり合わせを行う事にした。


「つまりは、だ」


 もったいぶってみせるように言葉を口に出す。

 希安へ向かっていた亘乎の眼が自分へ向けられた事を確認して、それから漸く、左椋は再び口を開いた。


「哀れな男性君の腹が伽藍堂と化していたのと、寝取り心中女ちゃんの腹がミンチになっていたのは、この少年の詛いだった訳だ」


「そうだな。依頼人の女は確かに、潔生などが苦しみ抜くように詛いはしたが、これほどまでに暴力的ではなかった」


「少年はオジサンもあげると言ったと思うのだけれども、哀れな男性君はそれ故の伽藍堂で、そしてオバサンはイヤだと言ったから、寝取り心中女ちゃんのあのミンチと言う訳だよねぇ」


 だからそう言っているではないかとばかりに、亘乎は左椋を見た。

 勿論彼の表情は相も変わらず能面のようで、もしか、左椋の思い込みによる被害妄想とも言えなくもないのだけれども、その実大して変わりのないものだろうと左椋は思っている。

 何せ、表情筋ほど亘乎の中身は死んではいないのだから。


 シューニャの代わりに、今度は左椋が少年の腹へ指を置く。

 とっくに慣れてしまったその冷たさは、左椋の胸へ憐憫れんびんばかりを駆り立てた。


「そら、こうして少年の腹は人並みに膨れているけれども、少年の言う通りだったらば彼自身の中身も、伽藍堂であるはずじゃあないのかと。そうは思わないかい、センセイ」


 彼にしては嫌に静かな声だった。

 否定も肯定もする訳ではなく、亘乎はゆったりと目を瞬く。

 未だ目を覚ます様子のないシューニャを腕に抱きかかえたまま、顔を俯けるようにして少年へ視線を移した。


 すっかり血の気の引いたその肌。


 赤は全て殺意と化してしまったのだと思っていたけれども、そうではないのかも分からない。


 ――尤も、それを知る為に検死医がいるのだ。


「開けてみれば良い事だ」


「そうなるかい」


「そうなるとも」


 肩を竦めた左椋は間違いなく、検死医と言う職人の顔をしていた。

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