第十四話

 潔生の遺骸も孝重と同じようにY字に切開され、そして左椋の手によって奇麗に縫合されている。

 身体の脇へたゆむ豊かな乳房と引き締まったウエストを持つ肉感的な身体つきの潔生は、あの少女趣味な部屋の持ち主である事にはどこか違和感があった。


 否、だからこそ、とも亘乎は思う。


 だからこそ、幼気な少年少女を愛したのかも分からないと。

 いずれにせよ、今はもう真実がどうであったのかを知る事は出来ない。

にシューニャを使つもりはないのだ。


 遺骸の脇に立ち、それを見下ろす。

 黒点を中心に据えた銀色が眠たげに瞬かれ、そして静かに閉じた。

 日記帳と言う媒体を介してではあるけれども潔生の思いには既に触れているのだ、先程のような事にはならないだろう――そう信じるしかない。

 男達に出来る事はなく、それぞれ一歩下がった位置で彼女達を見守る事となった。



 酷く濁って淀んだ白の上に、澄んだ白で出来た細い指が載る。

 心臓の辺りにあったそれがリズムを取るように潔生の上を跳ねて、喉を通り、唇を飛び越えて額へと辿り着く。

 そうしたかと思えば今度は輪郭をなぞるように頬を撫でて首筋を下り、身体の正中を通ってへその下の辺りで止まった。


 はらだ――その皮膚と肉の下に子宮があるの場所。


 左椋はミンチだと言っていたけれども、検死を終えた今はもう既に空になっているのだろう。

 ととととん、と鍵盤を叩くように指先でそこに触れ、そうしてから手のひらで覆う。

 温もりを失った胎を温めるかのようにじっと動きを止めて、そうしてからシューニャは短く息を吐いた。

 小さく丸く開く桜色から洩れたそれは、どことなく潔生の腥い執着のにおいを漂わせる。


「あ、こ、い、ろ、しし、て」


 もたらされたのは、途切れ途切れの音だった。

 言葉になっていないそれにシューニャは戸惑い――常と変わらず無表情ではあるけれども事に長けた亘乎にも左椋にもその戸惑いはよく伝わった――首を傾げる。

 そうして目を瞬いて、また桜色に染まる唇を開いた。


「い、お、あ、わ、っしょ、ら、い、し、せま、て、しょ、に、う、る」


 開いている方の手で口元を押さえたのは反射的な事だったのだろう。

 何故そうなっているのか分からないとばかりに、シューニャは先ほどとは反対側へ首を傾げてみせる。


「ふ、だ、あ、た、れに、り、い、も、は、わた、わ、し、さ、た、な、しの、い、も、て、わ、る、の」


 亘乎は、嗚呼これは混ざっているのだ――と、そう思った。

少年の詛いで、内臓ごと、潔生の中身がぐちゃぐちゃに混ぜられてしまったから言葉を拾う事が出来ないのだと。


 例えば心臓に思いが込められていたとして。

 そして、心臓と言うものの形を成したとき初めて読み取れる言葉があるとして。

 そも、ミンチの中のどれが心臓なのか判別がつかないし、もしついたとしてもどれが右心房でどれが左心室なのか、どれが三尖弁さんせんべんでどれが僧帽弁そうぼうべんなのかなど分からない。

 分かりようもない。

 肉塊を手のひらに載せじっと観察してみても、血の滴る内臓以上の何かには最早なり得ないのだ。


 こうなってはシューニャの力ではどうにもならない。

 左椋が内臓をその形へ戻す事を諦めるほどのそれなのだ、正直な話、亘乎は自分でも無理であろうと思う。


 それでも。

 それでもシューニャは潔生を覗き込み、選び出すのだ。

 それが自らの存在意義であるとでも言うかのように。


 音のひとつひとつが雨粒のように降り注ぐ。

 詛いに混じったそれが、白い少女へぽつり、ぽつり、えぐるように、赤い染みを作っていく。

 掲げた手のひらへと落ちたそれらは混じり合い、溢れ、そして再び掬う事も出来ないままに零れていった。


 淀んだ白に澄んだ白が食い込む様を、二人の男達は留める術もなくただじっと黙して見つめている事しか出来ない。

 生きた人間の腹とは違い、嫌に弾力があるそこが指の形へ

 自分が触れている訳でもないのに、指先から体温を奪われていくような気さえさせた。


 部屋の中に漂うのは、静かな三つの呼吸音。

 そして低く響いているのは、貯蔵庫内の低温を保つ為に機械が動いている音だ。


 ゆったりと瞬きをする。

 遺骸が傷まないようにと低めの室温に設定されている部屋の空気の中、不意に、花のにおいが背後からねっとりと覆い被さってくるような心地がした。


「あ、あ」


 微かに開いた唇から、掠れた声が洩れる。

 口元を押さえていたその手をもう一方の手に添えて、潔生の深く深くから言葉を、思いを引きずり出す。

 シューニャの眠たげな銀色が丸く開かれて、そして唇が戦慄いた。


「し、ね」


 シューニャへと降り注いだ潔生の言葉は、それが最後だった。




「しね、って、って事なのかい。この寝取り心中女ちゃんは一体何を思っていたんだろうねぇ」


 そう言った左椋にゆったりと目を瞬いた亘乎の横で、シューニャが首を横へと振った。

 その拍子にさらさらとした白が頬にかかり、そして動きが止まると同時に重力に従って素直に下りる。

 輪郭に合わせるように緩やかな曲線を描くシューニャの髪は、絡まる事なくそこにあった。

 左椋は否定の意味を求めてシューニャを見たけれども、当の本人はその桜色に染まる唇をぴたりと閉じている。

 これはどうやら、特に何を言う心積もりなどがないらしいと気付くと、わずかだけ肩を竦めてみせた。

 そうしてから、ふむん、と息を吐くと仕方ないとばかりの笑み混じりに口を開く。


「じゃあ、ええと、この寝取り心中女ちゃんはもう終わりと言う事で良いのかな。次は少年になるのだけれども、未だ少年の検死はしていないからねぇ。まぁ先に覗いて引っ張り出してくれると言うなら僕もその方が楽って話なのだけれど、それで良いのかな。ああ、そうだ、ついでと言っては何だけれども、何ならその後の検死作業を見学でもして行くかい。センセイ、特別にシューニャの、ほら、あれだよ、社会科見学と言うのはどうだろう」


「いや」


「……だそうだ」


「アハハ、吃驚びっくりしてしまうほどアッサリとバッサリと切り捨てられたねぇ。いや全く、そんなところもセンセイにそっくりだよ、シューニャ。無愛想すぎて将来が心配だ」


 左椋は心配だと言いながらもそうは思っていなそうな楽しげな表情で笑うと、潔生の遺骸を暗い穴蔵へと押し戻した。

 そうしてから、こっちだよ、と二人を手招きして壁へずらりと並ぶ貯蔵庫の端へと導く。

 未だ検死をしていない少年は、二人と少し離れた場所で眠らされているらしい。



 鈍色にびいろの扉が開き、その中から少年が引き出された。

 シューニャよりもっと幼いその柔らかそうな輪郭を描く肌はなまちろく、よもやこの少年に血液などは存在していないのではないかと思えてしまうほどだった。

 否、流れていたとしても、ヘモグロビンの赤さなどは持っていないのではと。

 大人二人は正にだったのだけれども、少年に限って言うならば、前史の頃外つ国でよく描かれた、いわゆる吸血鬼ヴァンパイヤと言うもののようだと、亘乎は思った。

 今にもその目を開いて喉元へ喰らい付いてくるのではないかと、そんな妄想が脳味噌の端へとちらつく。


「この少年はねぇ、どうにも、いささか気になる点があるんだよねぇ。とは言え、まだ腹を開いた訳ではないから正確な事は言えないのだけれども」


 勿体ぶるかのようにそこで言葉を切った左椋に視線を向けた亘乎はしかし、その表情にどうやらそうではなかったようだと思い直した。

 左椋は珍しく思い悩んだ様子で眉間に皺を寄せている。

 言葉を探していると言うよりは、真実そうであろうと、言い切ってしまって良いのか迷っているようだ。

 まるで、言ってしまう事による不都合があるとでも。


「何を言いたい」


「ううん」


 左椋はわずかに俯けていた顔を上げて亘乎へ向けると、そう唸ってみせた。

 そうして、舌先でちろりと唇を舐めて湿らせる。


「この少年ねぇ、恐らく、あの邏卒の彼……ヤズ君が発見した時はまだ、生きていたんじゃあないかと思うんだよ」


 静かに息を吐き出した亘乎の隣で、シューニャが首を傾げていた。

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