第十三話

 いやぁなモンだねぇ、だなどと呟いたのは左椋で、亘乎はと言えば、腕の中でぐったりと気を失ったシューニャを抱き上げながら短く、そうだな、と呟いただけだった。


 結界を作って本格的に読んだ訳ではなかったけれども、読み取る事が出来る部分が少なかっただけに思ったより強く流れ込んで来たのかも分からないと亘乎は推測する。

 それこそ、本格的に、ではなかったから数分もしたらば目を覚ますだろう。

 左椋はと言えば、珍しく遣る瀬ないような神妙な面持ちでもって自らの顎を撫でた。


「あれはこの君の、子供の頃だろう。と言う事はだよセンセイ、手続きなんか僕の仕事じゃあないけれども、彼のご母堂がねぇ、ちょいと話をさせて欲しいなんて、どうしてもだなんて言うから僕はねぇ、この僕がだよ、手ずから電話口に出て許可を取ったんだ。つまりはそのご母堂の過去でもあるって事じゃあないのかい、ねぇ、センセイ」


「その可能性も、低くはないのだろうな」


 暴かれなくて良いものを暴いてしまったのかも分からない――その場で目を開き自らの足で立つ男二人は、声にせずともそんな事を思っていた。

 けれども、だからと言って、暴かなければ良かっただとかそんな感傷を持っている訳でもない。

 暴かなければ、孝重と言う存在をつまびらかにして行かなければ孝重の奥深く、細胞ひとつひとつに染み込んでいるこの詛いを完全に払い去る事が出来ないのだ。

 詛いを遺骸へわずかにも残す訳にはいかない。


 いやぁなモンだねぇ、と、もう一度左椋が呟いた。

 今はこの場にいない頼劾のように腕を組んで、そしてむっつりと口角を下げる。

 そうしてから訳知り顔で、ふむんと息を吐いた。


「ご母堂もねぇ、言うんだよ。うちの子は殺されたのですか、女に殺されたのですか、なんて。そんなものねぇ、まともじゃあないと僕は思ったものだよ。否、真実まるっきりまともな人間なんてそういるものじゃあないけれども、だからと言って電話の向こうにいるって言うのに躙り寄って来るようなものを感じるなんて、気味が悪いなんて言っちゃあ悪いけれども、子供を失った親の反応とは到底思えなかったものだよ」


 緩やかに首を傾げたせいで、モノクルのチェーンが揺れた。

 それの微かな振動を感じながら、胸に溜まる重苦しさを少しずつ吐き出すようにして口を開く。


「いつかはそうなると思っていたのかも分からないな。もしくは、か」


「アナタは父親似ねぇ、なんて、この哀れな男性君とそのご母堂には、随分と笑えない言葉だったって訳か」


 亘乎はゆったりとした瞬きと共に首肯しゅこうした。

 子供は親を映す鏡とは良く言うけれども、それが真実そうで、孝重が実際に女性を蔑視べっししていたとは限らない。

 限らないとは言え、影響が全くなかったと言う事もないだろう。


「父親は」


「随分前に亡くなっているそうだよ。まぁ死因は心筋梗塞で、殺しでも詛いでもないようだけれどもねぇ」


 そうか、と亘乎は一度瞑目する。

 脳味噌の中で、父親と言うある意味絶対的な支柱を失いぐらぐらと揺れる孝重とその母親を見た。


 倒れる寸前の独楽こまのようだ。


 徐々に勢いを無くしながら左右に揺れて、けれどもどんなに揺れたとしても、その独楽の端と端に立つ二人の距離は変わらない。

 揺らいで、揺らいで、倒れても、二人はただ父親が作り上げた独楽の上に張り付いたまま近付きも離れもしないのだ。


「これでご母堂も、解放されると言う事なのかねぇ」


 さあどうだろうな、と。

 亘乎は呟いた。

 こう言うものは正直な話、詛いなどよりもよっぽどたちが悪いと亘乎は思っている。


 詛いは言わば虫だ。

 心を、身体を端からじわりじわりと少しずつ噛んで、削り取り食い尽くそうとするもの。

 けれども虫であれば対処の方法は簡単だ。

 根元である虫を取り除いてしまえば良い。

 食われた場所は元には戻らないかも分からないけれども、癒える事もあるかも分からない。


 しかし虐待だとか暴力だとかそう言うものは、ただただ毒なのだ。

 心と身体に染み込んで、じわりじわりと蝕んでいく、殺していく。

 残念ながらそれへの対処法はない。

 解毒剤はどこかにあるかも分からないけれども、壊死して腐り落ちた場所は決して元には戻らないのだ。


「私達に出来る事と言えば、ただ安らかにと、祈る事だけだろうな」


 そんな亘乎の声に、左椋はしんみりと頷いてみせる。

 私が言えた義理でもないが、と微かに口元を歪めた姿には、気付かないふりをした。



 二人が口を閉じてから、ほんの数分経った頃にシューニャは目を覚ました。

 眠たげな瞳をもっと眠たげに開いて自らを抱き上げる亘乎をじっと見つめたかと思えば、くい、と袖を引く。


「ああ、起きたか、シューニャ」


「うん」


 亘乎の腕から下ろして貰いながらひとつ頷いて、ワンピースの裾を整える。

 彼女が、なおして、と呟けば亘乎は軽く息を吐いて兵児帯を締め直した。


 そんな二人の姿を左椋は見ている。

 親子とも違い――否、戸籍上は義理とは言え正しく親子なのだけれども――勿論、恋人同士とも違う空気を眺めているのは何とも愉快な気分だ。


「やあやあ、おはようシューニャ、気分はどうだい」


「おはよ、サリョー、ふつう」


 顔の横に掛かる髪を指でく姿は年頃の少女らしく見えるのにも関わらず、彼女には決定的に、表情がない。

 左椋とその曰くの愚妹はよく、センセイに似ちゃって可哀想になどとからかってはいたけれども、それがただ亘乎だけのせいでない事は百も承知だった。

 あえて言うのだ。


「それで、次は女性の方かな。顔見知りの婚約者を奪ったせいで、ええと、その奪った婚約者と何故だか現れた身元不明の少年と心中する羽目になった女性」


「名前を覚えた方が早かろうに」


「さっきも聞いたよセンセイ、その言葉は」


 アハハ、と笑う左椋は暗い穴蔵へ孝重の遺骸を戻すと、今度は違う扉へと手をかける。

 亘乎はと言えば軽く肩を竦めながらそれを眺め、シューニャは黙してただぼんやりと佇んでいた。



「いやぁ、こっちはこっちで、まぁ大変だったんだよ」


 そう言ってわざとらしく身体を震わせた左椋の緑色が重たげに揺らいだ。

 度重なる脱色と染色に随分と傷んでいるせいで、さらさらと流れる事はない。


 新たな穴蔵から引き出されたのは、あの写真立ての中、少年の向かって右側へ立っていた女に間違いはない。

 けれども写真とは違い血の気はなく、何とも言い難い土気色と言うか、それににかわをたっぷりと垂らし白い絵の具を少し足したような色をしている。


「ええと、センセイは何と言っていたかな。『苦しんで苦しんで苦しんで、それから血反吐を吐きながら死んでしまえ』だったかな。正にね、それだよ。どうしてこんなに穏やかな死に顔をしていられるのか僕にはとんと分からないねぇ。随分と苦しくて痛くて、もうそんな言葉では言い表せられないくらい名状し難い苦痛だったと思うのだけれど、いやぁ、このちゃんは感覚と言う感覚がなかったのじゃあないかと思うよ。これもさっきの哀れな男性君とは違う理由で正確な事は言えないのだけれども、即死は出来なかったようだからねぇ」


 左椋の指が潔生の口元をなぞる。

 亘乎が何をしているのかとばかりに左椋を見れば返ってきたのは、溢れた血で真っ赤だったんだよねぇ、と言う呟きだった。


「検死は終わったのか」


「うんうん、潔生には家族がいなかったらしくってねぇ、まぁ別に司法解剖って扱いだし家族の承諾はなくったって腹を掻っ捌く事は出来るし、勿論だよ。聞くかい、聞きたいかい、センセイ、シューニャ。これはなかなかにグロテスクなのだけども」


 聞くかいなどとは言っているけれども、結局は話すのだ。

 否、聞きに来たのでもあるのだから話して貰わなければ困るのだけれども、わざわざ尋ねると言う事はそれ相応の理由があるに違いない。

 普段生きた人間よりも死んだ人間とばかり、しかも異状死した人間ばかりと向き合っている左椋が言うグロテスクなら、やはりそれ相応のものなのだろう。


 シューニャは特に反応する事なく佇んでいる。

 自分には選択権がない、むしろ選択する心積もりなどを端っから持ち合わせていないからだ。

 亘乎はゆったりと目を瞬いて、そして左椋へ頷いてみせた。


 潔生の口元をなぞった指を、自分の顎にあてがう。

 随分と可愛い子ぶった仕草ではあったけれども、それを指摘するような人間はいない。

 左椋もそれを分かっていてやっているから、特に気にした様子もなかった。



「ミンチだよ」



 にんまりと左椋の唇が弧を描く。

 顎にあてがっていた指を空中に投げ出すと、それでくるくると円を描いてみせる。


「内臓がね、腹の中でミンチになっていたんだ」


 円を描いていた指を遺骸の腹に載せ、そしてまた円を描く。

 ミンチと言う単語を強調する動きに亘乎は微かに眉を動かした。

 やはり少年は暴力的な、強い殺意を持っていたのだと思う。


「五臓六腑がぐちゃぐちゃのめちゃめちゃで、これはさすがに僕でも元には戻せないと、一目で思ったものだよ。遺跡や化石の発掘に熟練の技を持つ学者だって、世界一むつかしいジグソー・パズルを世界一速く解いてしまうパズル・ジャンキーだって、無理に違いないねぇ。それにね、脊椎がねじれて、胸椎が幾つか無くなっているんだ」


 話を聞いただけでも、左椋の言う通り随分とグロテスクだ。

 依頼人の女は確かに苦しみを願ってはいたのだけれども、そこまでではなかったと亘乎は思う。

 つまりこれは少年がそう願った――否、詛ったのだ。

 何がそこまで少年を駆り立てるのか、亘乎には分からない。



「寝取り心中女ちゃんの腹の中はねぇ、そら、カンダタが浸かっていた血の池のようだったよ。つまりだよ、僕は差し詰め、御釈迦様って事になるのかな」



 腹の上で左椋の指が跳ねる。

 俯いたその表情は窺えず、けれども最早笑みは浮かべていないだろう事は分かった。



 潔生が地獄に落ちる事を少年は望んだのだろうか――亘乎はそんな事を考えながらゆったりと目を瞬いた。

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