第十二話

「おやおや、誰かと思ったら、センセイにコトハじゃあないか。ああいや、今ここにこうしてセンセイと一緒にやって来たからには、シューニャと呼ぶべきなのかな。いやぁそれにしても大きくなったねぇ、もしかすると僕より大きくなっていないかい。と、待っておくれよ、全く成人男性としてこれは由々しき事態だよ。君の成長は勿論手放しで喜ぶくらいには嬉しい事だけれども、我が愛しの愚妹共々、君の身長がこれ以上伸びない事を祈ってしまうくらいには危機感を持たざるを得ない事態じゃあないか、アハハ」


 亘乎にとってその日二回目の訪問となった安置所で、左椋はそうまくし立てて笑った。

 詰め寄られたシューニャはと言えば、眠たげな瞳を彼へ向け数拍置いてからかくんと首を傾げる。


「のびてない、くつ」


 その言葉と共に床に爪先をついて見せたのは、亘乎が前年、冬が始まる前に買い与えた赤いショートブーツだ。

 靴屋へ連れて行き好きなものをと言って彼女が選んで来たのがそれだった。

 横丁を歩いていた時に、そう言う靴を履いている女を見掛けたらしい。

 不自由をさせているつもりなどはないけれども、そればかり履いているのは恐らく気に入っているからなのだろう。


「なぁんだ、そうかそうか、年始頃に顔を合わせたばかりだと言うのにもうそんなに伸びたのだと驚いてしまったよ。子供の成長と言うのはそんなに早かったのかと動揺を隠しきれなかった僕だけれど、良く考えたらば、君がそんなハイ・ペースで伸びたらば成長期が終わった時にはライコウ殿くらいの身長になってしまいそうだよねぇ。嗚呼本当に、本当に良かった、今後も伸びないでおくれよ」


「むり」


 のべつまくなし言葉を連ねる左椋を、シューニャは表情を変えないまま一言で切り捨てる。

 噛み合っているのかいないのか、端から見ると判断が付かない二人を眺めていた亘乎は、そこで漸く口を開いた。


「左椋、改めて確認したい事がある」


「勿論だとも、センセイがただ会話を楽しむ為にわざわざこの冷たい死が揺蕩たゆたう僕と愚妹の城へやって来るだなんて、天地がひっくり返ったってない事なんて百も承知だからねぇ。遺体をシューニャと一緒に見たい、否、シューニャに見せたいのだろう、センセイ方がやって来た時からそうだろうと分かっていたとも」


 唐突とも言えるタイミングで切り換えられた話題に左椋はいたって明るい表情で頷き、シューニャは一歩下がって亘乎の斜め後ろへと控える。

 その様は亘乎がこの場を支配しているかの如く見えるけれども、その実左椋とシューニャからすれば単に挨拶を交わしただけにすぎず長々と続ける話題でもないからだった。


「さてさて、最初は誰が良いかな。少年はだし、特に希望はないと言うのなら大人二人になるのだけれども、そうなると、ええと、手前からにしようか。じゃあ、そう、女性の心をもてあそんだばっかりに寄りによって実力は折り紙付きと言われるセンセイの詛いにかけられてその結果もがき苦しみ悶え死ぬ事となった哀れな男性かな」


「名前を覚える方が早かろうに」


 左椋のあまりにあまりな説明に、しかし亘乎は能面のような表情のままでゆったりと目を瞬かせた。

 かと思えば、それと同じような速度でもって口を開く。

 否定もしなければ、肯定もない。

 この検死医である彼の言葉が過ぎるのはいつもの事であって、むしろ今回などは短い方だろう。

 けれどもそれはそれとして、彼が何故こうも言葉を尽くして人を表現しようとするのかはいつも不思議に思っていた。

 そんな言葉を掛けられた左椋はと言えば、全く気にした様子もなくにんまりと笑む。


「アハハ、そうだけれどもね、センセイ。僕や愚妹みたいな奴らからしたらば亡骸なきがら達の名前なんてものは残念ながらこの貯蔵庫の扉についた番号達と何も変わりはないのだよ。生きても死んでも色々様々番号ばっかり付けられて、嫌んなっちゃうじゃあないか。とするとやはり、知りうる限りの情報でもって語ってあげるのも悪くはないと思う訳だよ。ねぇ、そうは思わないかい」


 亘乎は何も言わなかったし、シューニャもじっと黙している。

 けれども左椋はやはり、特に気にした様子もなく机からバインダーを持ち上げると、そこに挟んだ紙を捲って軽く頷いた。


 白衣を翻し、左椋が貯蔵庫に歩を進める。

 金属の鈍い輝きの中なびいた緑は、夏の森よりも鮮やかに残像を焼き付けるようだ。


君はねぇ、いやぁ、驚いたねぇ。彼の御母堂と連絡が取れたもんだから許可を貰って腹を掻っ捌いてみたのだけれど、中身がすっかり空っぽなんだ、伽藍堂がらんどうだよ。代わりにでも入っているって言うなら悟りでも開いたかと崇めたくもなるけれども、そうではないからねぇ。ともかくも、内臓がブラック・ホールか何かに呑まれたみたいにいっぺんに無くなってしまうなんて、センセイ、どんな恨まれ方をしていたんだい、この男性は」


「さあ。一等恨まれていたのは、潔生のはずだが」


 亘乎はゆったりと目を瞬いて、左椋はそんな亘乎を見るでもなく貯蔵庫の扉を開けながら、そうかいそうかいと呟いた。

 多少の興味はあったけれども、だからと言ってどうしても知りたい訳ではないのだろうと亘乎は心の内で頷く。

 左椋にとって目の前に横たわるそれがどう死んだのかは仕事で、何によって死んだのかは仕事よりも興味が強く、何故なにゆえ死んだのかは亡骸の存在を呼ぶ為に必要な情報だ。

 もし詛呪によって殺されていたとしてその死人しびとがどうやって、どれほど恨まれていたのかは、左椋の好奇心の範疇はんちゅうにはない。


 金属の鈍い色が囲む穴蔵から、孝重の遺骸が引き出された。

 両方の鎖骨の下から中心へ逆ハの字に、それらの線を伸ばして交わったところからは一本真っ直ぐと腹を下るように切り開かれた痕がある。

 今はしっかりと縫われていて、勿論中身が見える訳ではない。


「いわゆる五臓六腑だよ、それらがすっかり無くなっていてねぇ。そら、そうすると、肋骨に守られている部分は別として、その下の辺りなんかは骨と皮だけになるだろう。彼は手足なんかから見ても中肉中背って言うやつなのだけれど、皮膚なんかもしわしわとしおれっちゃって、空気の抜けた風船みたいだったよ」


 可哀想にねぇ、と全く他人事でしかない左椋の声が耳へ届いて、すぐに霧散していった。

 亘乎は斜め後ろに立って何を言う訳でもなくじっと孝重だった遺骸を見つめているシューニャを、肩越しに振り返る。


 ――その一点の黒には今、残酷な世界が映っているのだろうか。


 心の中で疑問符を付けながら、けれども亘乎はそんな考えに確信を持っていた。

 むしろ、考えるべくもないと思う。


「シューニャ」


「はい、マスター」


 亘乎の呼び掛けに、シューニャがいつもの返事をして前へ進み出た。

 遺骸が貯蔵庫から引き出されてからそこに至るまでずっと、彼女の視線は孝重から剥がされる事はない。


 風が流れるところがないはずのこの部屋にありながら、不意になまぐささが頬を撫でたような気がした。


仮令本当に部屋の中の空気が流れていたとして、この部屋にいる人間はそんな物とうに慣れてしまって恐ろしさなぞは今更感じないけれども、それでも一瞬、呼吸を躊躇う。

 孝重を挟んだ位置に立つ左椋は二人を眺めて口を噤むと、邪魔にならないよう数歩下がった。


 ――さぁさぁ、始まるぞ。


 まるで恋に落ちた時のように胸が高鳴る。

 そんな凡庸な表現しか出来なかった自らを皮肉るように、左椋は口角を歪めたのだった。



 白い白い指が、浅黒いような濁った色の上に載せられる様はどこか背徳感を漂わせる。

 開胸されたが故に鎖骨の下へ作られた新たなラインは上手く縫合されていて、左椋が検死医ばかりでなく生きた人間の相手も精力的にしていたらば、随分奇麗な傷痕になっただろう。

 残念ながらこの辺りに彼と彼曰わくの愚妹しか検死医がいない現状からして、それは叶わない事ではあるのだけれども。

 むしろそんな事が万一起きたとして、彼等の見た目のみならず何よりもその性格から、患者が余計に体調を崩す事にもなりかねないと本人達も周囲もよくよく分かっていた。


 シューニャの白い指が、本来ならば心臓がある辺りを押さえる。

 封じられていた事を鑑みても丸一日以上経ったそれは既に、ひんやりとした物体だった。

 つめたい、とただその事実だけを、彼女は呟く。

 亘乎はと言えば、そうだな、としか返せる言葉を持ち得ていない。


 そうして数拍の後に、さらりと白が揺れた。

 頬にかかったそれを払う事もせず、シューニャの目は中空を見つめている。

 その一点の黒へは何が映っているのか、左椋には、そして亘乎にすらも分からなかった。


 ととん、とん、と、鍵盤を叩くように指が跳ねる。


 高音域を探して踊る指は、もう二度と繋がる事がない皮膚の切れ目を越えて、首筋を伝って頬を滑っていく。

 そうして最後、親指以外の四本の指が額のただ中を押さえて止まった。

 シューニャは小首を傾げて、目蓋に閉ざされた瞳をじっと見つめている。

 二人の男はそんなシューニャを見つめて、言葉を待った。


「おんなは、おとってる」


 桜色からこぼれ落ちたそれは少女の白さとあまりにかけ離れて、男達の耳から脳内へ染み込んでからかいするまでにタイム・ラグを生じさせた。

 孝重の遺骸から感情を読み取って、それをそのまま口へ出しているシューニャ自身は、見た限りでは何かを感じた様子もなくじっと次の言葉を探している。


「なぐられる。それを、みてる……きものの、おんなのひと」


 シューニャの銀色の中に存在する一点の黒が微かに揺らいだ。

 それを見たのは対面に立っている左椋だけで、シューニャ本人にも、その隣に立つ亘乎にも告げられる事はない。

 指先は、遺骸の土気色が染み込んで来るかのように青くなっている。

 体内を駆け巡るはずの血潮が冷たさを厭うかのように、手前で引き返しているのだ。


「め。め。みてる。みられてる。じぃって。うごけない」


 白い手が、遺骸の目元を覆う。

 親指で額を撫でると、その短く揃った前髪が揺らいだ。


「とても、いや。なのに、みてる。みられてる。め。め。め。め」


 ぽつりぽつりと落とされる声は、淡々としながら孝重の真実を紐解いていく。

 開いている方の手で、シューニャは自らの目元を覆った。

 その手のひらの裏に、孝重の世界が映っているのだろうか、それとも、孝重の世界から目を背けたくて黒く閉ざしたのだろうか。


「……わらってる」


 遺骸の額を撫でていた指が止まった。

 小さな桜色をぴたりと閉じて、強く噤んで、そうしてからやっと再び開かれる。



「良いか、女は、こうしてシツケてやらねばならんのだ。女は、私達男より劣っている存在なのだからな」



 シューニャの唇から低くどことなくしわがれた男の声がして、そうしたかと思えばにたりと口角を上げた。


「あ」


 弾かれるように、白が飛び退く。


 身体のバランスが崩れ、勢い良く視界が跳ね上がった。


 シューニャの目に手を伸ばした左椋が映ったけれども、それは一秒も経たない内に流れ去る。


 緑、鈍い金属の輝き、青白い蛍光灯。


 シューニャの脳内へ響く嗄れた男の声を、カツンと高い音が切り裂く。


「あ」


 その白い手に触れたのは布だった。指先に縮緬ちりめんれた感触がして、それを認識した途端、急激に引き戻される。



「嫌だよ、父さん」



 白い少女は幼い声でもって最後にそれだけを呟くと、亘乎の腕の中で意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る