第十一話

『姉弟だと』


 電話口で低く唸った頼劾に亘乎は、そうだ、と肯定だけを返す。

 誰にも見せる予定などなかっただろう日記帳とそれを記す時に込めた思いから読み取ったのだ、偽りなどはないはずだ。


 頼劾と矢途が調べた限りではやはり、潔生の部屋には潔生とあの少年、そして写真立ての中で微笑む依頼人の女しか存在しなかったらしい。

 事件現場に残された鞄の中から出て来た手帳には数人の連絡先が記されていたのだけれども、全員に連絡を取ってもあくまで仕事上の付き合いだっただとかプライベートについて知る人間はいなかったと言う話だ。

 その括りに孝重の名前もあったと言うのだから、何とも言えない気持ちにさせる。


 ともかくも、そう言う事だ。


 潔生の世界に存在し得るのは、自身と少年と依頼人の女だけ。

 あれだけの執着があるのなら連絡先など書き記しておかなくても問題はなかったのだろう。

 電話番号とて長くて十桁程度なのだから、ひとつふたつ余分に覚えるくらい訳はない。


「安らぎをると書いて、識安、と言う名だ。希安の事を鑑みればもしかすると識安もゼロ番かも分からないが……潔生とは幼い頃からの付き合いがあったらしい。初めは懐かなかったと言っていたから、ある程度物の分かる歳になってから出会っているはずだ」


 調べさせる、と言う短い言葉と共に電話は切れた。

 これで恐らく少年の住処と依頼人の女の所在が分かる事だろうと、亘乎にはそんな確信がある。

 なるたけ早く見付けてやって欲しいとは思うけれども、そこは亘乎の力が及ぶ範疇ではないからこうなっては最早待つしかない。

 果たして依頼人の女が、今どこでいるやら――心の内で呟きながら、亘乎は手に持った試薬瓶を揺らした。



 赤、赤、赤、赤。


 嫉妬、愛情、執着、憤怒。


 そして絶望と憐憫、懺悔。


 少年の強過ぎる殺意によって飲み込まれた詛いは今、あまりにも鮮やかな赤をしている。



 少年がもし生きていたなら腕の良い詛い屋になれたかも分からない。

 亘乎は初めそう思ったけれども、徐々にこの事件が見えてくる内に自らその考えを否定した。

 少年は、命を賭したのだ。

 全てを捨てる覚悟があったからこそ、自分の思うように詛いを飲み込む事が出来た。

それは並大抵の事ではないけれども、言わばただの火事場の馬鹿力であって詛い屋がする事では、して良い事ではない。


「センヤ」


 凪いだ湖面に落とされた一滴の雫の如く、その声は静かに亘乎の耳へと届いた。

 ゆっくりと広がっていく波紋に促されるようにしてたんまりと赤が揺らぐ試薬瓶から顔を上げると、数メートル離れた場所へ白い少女が佇んでいた。

 その胸には花柄の表紙に包まれた日記帳が相変わらず大事そうに抱えられている。


「ああ……目が覚めたか、詞葉」


 さらさらと流れる白を揺らして、詞葉は頷いた。

 眠たげにも見える瞳は常と変わらず、真っ直ぐと見つめて来る眼差しは彼女が自分の意思でもってしっかりと立っている証拠だ。


 どうやら襖が開いた音にも気付かないほど思惟に沈んでいたらしいと気付いた亘乎は、モノクルを外してシャツの胸ポケットへと収めた。

 手のひらで両目を覆って赤を閉ざしながら、そっと息を吐く。


「つかれたの」


「否」


「そう」


 極々短い言葉だけを交わして、詞葉はそれで満足したらしかった。

 桜色に染まる唇を閉じると、衣擦れだけをさせ部屋の真中へ歩み出て座卓へと日記帳を置く。

 未だに潔生の思いが溢れるそれは亘乎の目に、あまりにも重苦しい質量を持って重力場すら歪めようとしているかに見えた。


 立ったまま壁に背をもたれる。

 詞葉は座卓へつくと、そこに至って漸く日記帳の表紙を捲った。

 とは言え、詞葉がその内容を読み解く事はない。

 もう文字の読み書きは出来るようになっているはずだけれども、思いが溢れすぎたそれを詞葉は正しく文字として認識出来ないからだ。

 否、正確に言えば、その銀色の目玉が文字として視認していても、その先に繋がっている脳味噌がそうとは受け取らないとでも言うべきだろうか。

 それはただ普通に生きていく為には随分と不便な事なのだけれども、詞葉は世界とはそう言う物なのだと納得してしまったから最早治しようもなかった。



「はりはり。とげとげ。ヤマアラシ」


 詞葉の白く細い指が不意にとんと開いたページを指す。

 絵は認識出来るのかと亘乎は思ったけれども、良く見れば指が押さえているのは潔生の落書きではなく文字の方だ。

 日記帳へ込められた思いの中の単語へ反応しているのだろう。


 次いで、ううん、と詞葉は呟いた。

 微かに首を傾げた事で、顎よりも少し高いところで真っ直ぐ切り揃えた白い髪がさらりと揺れる。

 一体何を悩んでいるのか。

 亘乎は特別促す訳でもなく、彼女自身が思いでただじっと黙して待った。

 詞葉が口を開いたのはすぐの事だ。

 彼女の銀色の瞳は一度真横へつい、とずれてから少し離れた位置に立つ亘乎を見上げる。


「はなのかおり。とり……ないてる……かご……あかい、とり、あかいはな」


「花と、鳥」


 亘乎はゆったりと目を瞬かせた。

 唐突に浮かび上がったその単語達には覚えがない。

 けれどもと、余計な感情は挟まずに記憶を浚っていく。

 頼劾がこの事件を持ってきてからを順に辿れば、それらは不意に姿を現した。



『あの、鳥』


『何という、鳥でしょう』



 矢途がそう呟いたのを思い出す。


 自らも一度だけ声を聞き、けれども絵にする為の外見ならばともかく鳥の声などには大して明るくもない亘乎は、それだけでは答えが判らず頼劾へとその問いを流した。

 頼劾はそんな矢途と亘乎へ向けて自分には鷹しか分からないと答えた、けれども、それは真実そうであると言う意味とは別に、唐突な問いをいぶかしむ意味も含まれていたのではないか。

 頼劾はさほど詛いに関する力を備えていないのだし、もしかあの声は矢途と自らだけが聞こえていたのではないだろうかと、亘乎は思う。

 それにゼロイチは北国だ。

 気密性の高い二重窓の向こうから、あの程度の些細な小鳥の囀りなぞがはっきり聞こえるとは思えない。


 そして、花だ。

 孝重宅にはそんなものはないけれども、潔生の部屋には花を模したものがあちらこちら溢れていた。

 作り物のそれらの中で玄関に置かれたドライフラワーだけは唯一本物の花で出来たもので、乾いた香気を漂わせていた事を思い出す。


 ――それらが、一体何の意味を持つのか。


 亘乎は詞葉が次に何を言うのかと注視した。

 白い指先はページの表面をくるくると踊って、次々に紙を捲っていく。

 小さな鼻歌さえ届く軽やかさでもってなされるその行為は、ピアノの弾き語りをしているようにも、無邪気な子供がままごとをしているようにも見えた。


 ととととん、と、指先が紙を叩く。

 曲が終わったのかと納得した亘乎を再び見上げる詞葉は、銀色の瞳を一度瞬かせた。


「コトハしってる。そとの、ふるいしゅうきょうで、くぎをぬこうとしたとり」


「釘を」


「そう。だから、くちばしこうなってる」


 こう、と言う言葉と共に、詞葉は自分の親指と人差し指の先を合わせてから交差させた。

 亘乎はその様子を眺めながら、自らの知識をさらっていく。

 否、いわれなどは脇に置いてしまえば、浚うほど難しい問題でもない。

 亘乎の持ち得る知識の中で、赤い体色に交差したくちばしを持つ鳥など一種類しかいないからだ。


「……なるほど、交喙イスカか」


「いすか」


 銀色を眠たげに瞬いて詞葉が繰り返す。

 そうだと頷いて見せれば、ふうん、と淡々とした声で答えた。

 興味がない訳ではない。単に詞葉の情緒がそこまで育っていないだけなのだ。


 もたれていた壁から背を離して、手に持ったままだった試薬瓶を揺らす。

 とぷんと濃密な音を立てたそれは、かばねとなり果てた三人へ絡みついていた詛いだ。


 詞葉がすくい上げた幾つかのヴィジョンとこの赤は、三人を――否、四人を結び付けるのだろうか。


 袴をさばく衣擦れだけをさせて、亘乎は詞葉と座卓を挟んだ位置に腰を下ろした。

 そんな短い間にも彼女は再び興味の矛先を日記帳に向けていて、白い旋毛ばかりが亘乎の目に映る。


「詞葉」


 名前を呼ぶと同時に、その前へ置いたのは試薬瓶だ。

 小さな波紋を浮かべる赤に彼女の興味が移った事が目に見えて分かる。

 硝子製のそれを両手で包み込んで見つめたかと思えば、斜めの低いところから射し込んでくる日の光へと翳した。


 混沌としたそれに、詞葉は何を見るのか。


 そして、何をすくい上げるのか。


「センヤのじゃない」


 淡々としたそれは、端から見れば全くの無感動な言葉に思えただろう。

 けれども亘乎には良く分かる――詞葉は困惑しているのだと。


「だいじょうぶなの」


「何て事はない」


「そう」


 ――嗚呼、これも、一丁前にひとを心配する事を覚えたのか。


 そんな感慨を抱きながら、亘乎はゆったりと目を瞬く。

 思考を切り替えて、青白い蛍光灯の下ではあまり良くない血色が目立つその薄い唇を開いた。


「それに、交喙はいるか」


「いすか」


 確認を取るように繰り返された単語は、詞葉の唇の先で小さく霧散した。

 その一端を拾い上げて亘乎は頷いてみせる。


 半透明な赤。


 分離を始めた血液のような、けれども鮮やかすぎるそれ。


 詞葉の白く細い指先が、通常ならラベルが貼られるだろう位置を撫でた。

 その繊細な手付きはその試薬瓶こそが交喙と言う小鳥ではないのかと思わせる。けれども硝子は無機物でしかなく、わずかな温もりすら持ちはしないのだ。


 試薬瓶を胸に抱いて、暫し――白がさらさらと揺らされる。

 やはりそうかと、確認したまでにすぎないと亘乎は思ったけれども、顔を上げた詞葉の表情にそれらの思考を脇へやった。

 桜色の唇が一度だけ開かれて、またぴたりと閉じる。

 何か上手い表現を探しながらも、何と言えば良いのか分からないのだろう。


「思うまま、言っておいで」


 亘乎の声に、詞葉はわずかだけ頷いた。



「いすか、たくさん。たくさんたべて、たべすぎてしんじゃったのと、たべすぎてよろよろぱたぱた、とんでいったの。しんじゃったの、いっぱいいる。とんでいったのも、ちょっといる。それで、しんじゃったのたべて、しんじゃったのと、とんでいったの。しんじゃったのちょっといて、とんでいったのもちょっといる」



 ――この白い少女の目には今、何て残酷な世界が映っているのだろうか。



 瞑目して、亘乎はそんな事を考えた。

 自分が見てきたものよりもずっと、もっと鮮明に、克明に、鮮烈に世界を写し取るその瞳は、銀色と黒の強いコントラストを鈍らせる事なくそこへある。


 ――残酷だ。そしてその残酷な世界を強いる自らは卑劣で、傲慢だ。


 亘乎は心の内で自らを低く嘲笑った。

 けれどもだからと言って改める事はしない。

 選び取ったのだ、数ある内の一つの道を、自らの手で。

 故に亘乎は、自らへ悔恨かいこんの念を持つ事を許さない。

 揺らがない。

 嘲笑おうとも、なみする事はしないと決めたのだ。

 そしてそれが、自らの責務であるのだと思っている。


 木と硝子の触れ合う音で、思考の海から浮き上がった。

 座卓のただ中へ置かれた試薬瓶は、交喙の遺骸の塊を揺らしている。


 それから視線を外した亘乎の目は、壁際に据えた階段箪笥の一番上に置かれた時計へと向けられた。

 未だ午後四時を少し過ぎたところだ。


 ――この時間帯ならまだ良いか。


 亘乎は胸ポケットからモノクルを取り出す。

 改めてそれを装着する姿を見た詞葉は、日記帳を閉じて何も言わずに立ち上がった。

 隣の部屋へ消えたかと思えば、その手に黒い着物と白い角袖コートを持って戻ってくる。

 ゆったりと目を瞬いた。

 立ち上がり袴をさばいて詞葉に背を向ければ、袖を通し易いところへ着物をあてがわれる。

 着物を羽織り、仕事道具を収めて、座卓をちらと振り返った。

 試薬瓶と日記帳がただ静かにそこにある。

 詞葉が自らのコートを羽織る衣擦れを聞きながら、亘乎はそれらを持ち上げてまた、ゆったりと目を瞬いた。


「仕事だ、シューニャ」


「はい、マスター」


 淡々とした声に、淡々とした声が返る。

 最早そこにいるのは養い親である男とその養い子の少女ではなく、黒い詛い屋と白い助手だ。


 黒の後ろへ白が続く。

 二人は言葉を交わすでもなく、住居兼仕事場であるその家屋を後にした。

 向かう先は、亘乎だけが知っている。

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