第十話
和ろうそくが部屋の四隅で揺らめく。
部屋のただ中の置き畳の上では、白い少女――シューニャがじっと黙して座している。
そのシューニャと向かい合うように置き畳の外に立つ亘乎の手には、いつもとは違い潔生の部屋から失敬した日記帳が持たれていた。
「これを」
日記帳をシューニャへと差し出せば、彼女は頷くでも何か言うでもなくそれを受け取る。
表紙を開く事はしない。
膝の上に載せて指先で表面をなぞると、静かに手のひらを置いて、そして瞑目してみせるのだ。
こうしろと教えた訳でもないのにシューニャが自らと同じ行動を取った事に気付いた亘乎はつい、微かに唇を歪めた。
――年年似てきているな、と、皮肉るように言う頼劾の声がどこからか聞こえた気がする。
そんな事はない――瞑目してその声を彼方に追いやった。
幸いと言うべきか、亘乎が再び目蓋を持ち上げた時には相変わらずシューニャの銀色は閉ざされていて、自嘲するような笑みもそれを忘れようとする瞬きも気付かれた様子はなかった。
仮令見られていたとして、彼女が亘乎の感情をこと細かく理解出来るかと言えばそれは分からないのだけれども。
指先でモノクルのチェーンをなぞる。
それへ和ろうそくの火が反射して鈍く光るのを見たのは、タイミングを見計らったかの如く目を開け亘乎を見上げるシューニャだけだった。
「日記帳の持ち主が、一体何を考えながらそれを書き連ねたのか……それを知りたい」
「はい、マスター」
亘乎の静かな声に、シューニャの澄んだ声が応える。
例えば小川のせせらぎや、初夏の草原を駆ける風だとか人々の癒やしとなるような清さではなくて、例えば冬の寒い夜、瞬きで睫毛が触れ合うほどの幽かな音すら飲み込んでしまう白の中で、目的もなく独りきりじっと立ち竦むような――そんな静謐さを湛えた声だった。
ちりちりと和ろうそくが燃えている。
高く揺らぐ火がシューニャの頬を染め、青が透ける白に血が通う。
シューニャはまるで宝物であるかのように、日記帳を胸に抱いた。
その途端この店独特の甘く苦いにおいに花の香りが混じって、そして、不意に掻き消える。
「始めよう」
「はい、マスター」
黒の中の曼珠沙華と、白が纏う赤い蝶が揺らめいた。
白い少女が白いのは、白くあらねばなかったからだ。
白であると言うそれに価値があり、それ故に生きる事が出来た。
そしてそれ故に、死ぬように生きる事しか出来なかった。
白い少女が一点の黒を得たのは、そう言う定めであったのかも分からないし、その頃そう言う概念があるとも知らなかった神と言うものの気紛れであるのかも分からない。
どちらにせよ真実など――神と言うものすら――白い少女にとっては近頃生まれ始めた興味の
故に、白い少女は黒を得た事実に罪悪感のようなものを抱いた事は一度たりともないし、世間で言う養い親と言う立場にいるらしい亘乎と言う名の詛い屋で絵師となった男が時折浮かべる自嘲を理解出来ていない。
自らも亘乎もこれで良かったのだと思っているし、そしてそれがいつか伝われば良いとは思っていた。
だからこそ白い少女は目を閉じる。
シューニャとして、詞葉として、自分が出来る事をして、そしてそれが自らにとっての生であるのだと、死ぬように生きた頃を忘れたように生きるように生きれば、きっと分かって貰えるだろうと考えたからだ。
それが少女なりの、亘乎への思いだった。
和ろうそくの火が揺らめいて、燭台とシューニャの影を畳へと落としている。
その四つの火は灯りであって、結界でもあった。亘乎がその結界の中へ詛い屋として立ち入る事はもう、ない。
日記帳を胸に抱いたシューニャは、そのままゆっくりと深呼吸をした。
その肺胞ひとつひとつをい草が混じる甘く苦いにおいが満たしていって、そして、後から降り注いだ花の香気がゆっくりと沈んでいく。
底まで辿り着いたそれは、集まり、互いに混じり合い、濃度を増して澱となる。
亘乎はその様子を黙って眺めていた。
シューニャの内へ溜まっていく潔生に自らを混ぜてしまわないように、自らと言う存在すらも薄め、闇へ溶かしていく。
そうして燭台が作る結界の周囲を取り囲んで、シューニャと潔生だけの世界を作り上げていくのだ。
桜色に染まる唇がわずかに開いて、吐息が洩れる。
国の最北端に位置するゼロイチとは言えもう春は近いのだし、身体を震わせるほどの室温でもないと言うのに、その呼気は白く煙った。
和ろうそくの火に照らされて、小さな欠片達がちかちかと煌めいている。
「嗚呼」
シューニャの声帯から発せられたのは、しかし、シューニャの声ではなかった。
少女よりも幾分か低く、そして腹の底へ時間をかけて沈んでいくような粘着性と重苦しさを備えた、女の声だ。
――これは、潔生だ。潔生だけれども潔生の全てではなく恐らくは、少年を愛した潔生だけを集め、時間を掛けて煮詰めたそれだ。
「愛しているわ」
もう一度開かれた唇は、そう告げるなりまた閉じられる。
柔らかな桜色は頑なな二枚貝のように隙間なく閉じて、そうしている内にもシューニャの中にまた潔生が溜まっていく。
それがまたいつしか溢れ出すのだ。
「愛していたわ」
声がまた愛を告げた。
けれどもそれは先の言葉とは一音違っていて、声色は全てが違っている。
まるで諦めのような、失望のようなものが色濃く滲んでいた。
一体何に対しての感情なのか、それはまだ分からない。
「そう、そうだわ、いっそのこと」
空気中へ白く溶け残った欠片達が、煌めいていたはずの欠片達が、途端に鈍色に染まり光を失っていく。
潔生を突き動かしていた正の感情が負に澱んで、彼女を違う方向へと突き動かし始めたのだと、そう気付いた。
「終わらせましょう……私と、あの子達と」
終わらせる――それが潔生と少年の関係性をと言う意味なのか、それとも、生命をと言う意味なのか。
――否、何よりも。と、亘乎は思う。
あの子達とは一体誰の事を示しているのか。
ひとりが少年として、少なくとも後ひとりは誰の事なのか。
潔生の部屋を思い浮かべる。
花や動物、レースにフリルと言う二十七にしては些か子供染みた、良く言えば可愛らしい部屋を。
潔生の世界の中に巣くう少年と言う存在とそれへの執着、そこに混じる他の存在――あの、写真立て。
「時間と言うものは、あまりに残酷なもの」
亘乎の意識が
時の流れを嘆く潔生の声は静かな絶望に彩られて、モノクロームに変わっていく。
「あなたはとても可愛らしかった……今は美しく花開いたけれど、それは散る時が刻一刻と近付いている事なのだとあなた、分かっているのかしら」
恋に焦がれる切なさを孕んだ声で呟いたかと思えば一転、強い憤りで空気を震わせる。
これは恐らく少年の事ではない。
少なくとももう後ひとりはいると考えた存在の事なのだろう。
口振りからするにひとりきり、そしてその存在はもう、大人になってしまったのだ。
潔生は憤る。
蕾ではなくなってしまったその存在に、花開いた先にあるものを理解しないその存在に。
「出会ったばかりの頃は懐いてくれなかったけれど、暫く経ってお姉ちゃんお姉ちゃんって後を着いて来るようになって……とても可愛かった。口付けもしたわね。小さなあなたはきょとんとして、でも、私が秘密よって言えば誰にも言わなかった。あの頃のあなたは純粋で、他の子達といる事より私といたがって、沢山いる男の子達より私の事を好いてくれていた」
亘乎はゆったりと瞬きをする。
「ねぇ、愛していたわ、あなたが女になる前の、少女だった頃」
――女か。やはり。
そんな言葉が脳みその中にぽかりと浮かんで、そうして弾けた。
破裂したまま沈みきれずにいる言葉の残骸を切り開いたところから姿を現したのは、あの依頼人の女だ。
閉じられたままのシューニャの目蓋が震える。
薄いそれの下でぐるぐると目玉が走っている。
目紛しく溢れ出す潔生の感情から、亘乎が求める答えを探しているのだ。
やがて、見付かったのだろう。
桜色が戦慄いて、シューニャの内に溢れる潔生が幽かな笑みを浮かべさせた。
「
亘乎は静かに瞑目して、細く息を吐いた。
何故こうも、愛を囁くように熱を帯びた声で告げられるのだろうか。
亘乎には理解出来ない。
否、理解は出来ても自らはそうはなれないと言うべきなのだろう。
そも、そんな自らの方が恐らくずっとまともなのだと亘乎は思ったけれども。
「ねぇ、識安。あなたは一体どういうつもりで、私の前に連れて来たのかしらね。あの子を……希安と言う男の子を、あなたの、種違いの弟を。あなたは色々と……そう、色々と話してくれていたから、言葉を濁してもすぐにそうだと分かったわ。それにね、あなた達似ているのよ。笑う時に片目を細めるところとか、満たされない時には爪を噛む仕草とか、その他にも色々、ね」
目を開ける。そして、ナルホド、と思う。
姉弟だったのかと。
チェストの上に伏せられていたあの写真立てを思い返して、亘乎はゆったりと目を瞬いた。
潔生と少年――希安と、依頼人の女。
少年と依頼人の女はどことなく似ていたような気がする。
そして、蓑虫の中から現れた少年の親指の爪は、ささくれ立っていた。
「私はこの子を愛そうと決めたわ。愛して、愛して、愛して……そうして漸く私の後をお姉ちゃんお姉ちゃんって着いて来るようになって。あなたにしたように、口付けもしたわ。きょとんとするあの子に秘密よって言って、そうしたら素直に頷いて。幸せだったわ、私。でもね、あの日、見たのよ……眠ってるあなたに、あの子が口付けるのを。希安が男になろうとしている。種は違えど自らの姉であるあなたに、性愛を抱き始めたのだと、そう気付いた私の気持ちが、識安、あなた、分かるかしら」
亘乎は、潔生の心情は到底理解し得ないと思った。
けれども、そこに血を吐くほどの妬みと執着が存在している事は分かる。
潔生の中では、いつまでもただ純粋な少年少女であり続ける事こそが最重要であったのだ。
「だから……だから……穢らわしい大人になる事が一体どんな事なのか、識安、希安、教えてあげるわ」
――もう充分だ。
うふふ、と潔生の声が笑って、亘乎は一本の和ろうそくの火を吹き消した。
破られた結界の中、シューニャは日記帳を抱えたままその場へと崩れ落ちた。
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