第二十話

 人間の男女の間に子供と言うものが出来るのは、動物的本能の結果だろうか。

 それとも性愛の副産物なのだろうか。

 はたまた愛情なるものの結晶だろうか。


 亘乎は、それについて論ずる心積もりなど毛頭なかった。

 結果であろうが副産物であろうが結晶であろうが、子供と言う、自らともうひとりの遺伝子情報を半分ずつ持ち合わせたそれが生まれたらば、巣立ちまでをじっと慈しむのは生物としての――取り分けて成長するまでに時間の掛かる生物であるならば殊更――道理であろうと理解しているからだ。

 そうであらねばならない、そうであるべきだ。

 そんな言葉でもって、改めて強調するような事でもない。


 けれども稀にそうならない者がいるのは、動物でも、変に知恵をつけた動物でしかない人間でも間々ある事であると言うのも考えの及ぶ範囲だった。

 ただ、理解を示すにはやはり限度と言うものがある。


 例えば、無理やりに手籠めにされたと言うならば、仮令その存在へ慈しみを持てなくとも仕方がないだろうと亘乎は思う。

 子供に罪はなくとも、恐らく、それは酷く苦しいことだ。

 男である自分が考えるよりも、もっと遥かに、筆舌に尽くしがたい思いを抱くだろう。


 では、そうでないときはどうだろうか。


 そう、例えば。


 旦那の他に好い男が出来たからと旦那と子供を捨てて出て行き、新しい男との間に子供を作るだとか。

 その子供が育っていく内にどうやら何かしらとは違っていると思い始め見ていられない、もしくは見ていたくないと、初めの旦那との間の子供へ無理に押し付けるなどと、そんなことがあるのなら。


 嗚呼、到底理解出来ることではない。


 自らの内で何かが燻ぶるような、そんな心地がする。

 細く息を吐いて、亘乎は静かに目蓋を持ち上げた。


 自らの中で、希安が、叫んでいる。


 泣きそうな声で、決して泣かずに、叫んでいる。



 あの姉弟が、まさにそれだった。



 亘乎の網膜へ直接映し出される希安視点の映像が、ころころと切り替わる。



 普段は、ほとんど放って置かれていた。

 表情を変えない女に機械的に世話をされ、身形だけは最低限整えられている。

 子供向けの国営ラジオが流され続けているだけで、会話はない。


 それとは別、極稀に現れる女は初めは機嫌良く希安を構うのだけれども、少しでも気に食わない事があると何かまくし立て部屋を荒らして出て行った。

 そこを片付けるのはあの機械的な女で、その時だけは酷く煩わしいものを見るような、皮肉にも、感情豊かな目をする。


 それの来訪より稀に、本が届く事があった。

 子供向けのものからそうでないものもあり、物語や辞書の時もある。

 他に何かが添えられている訳でもなく、誰から与えられているものなのかなど希安は知らない。

 ただ、部屋を出られない希安にはそれを読むしか出来る事などはなかったから、いつだって黙ってページを捲っていた。


 そんな日々が一転したのは、相変わらず流れるラジオが自らを通り抜けていくのを感じながら、読めない本を捲っていたときの事だ。


 否、しかし希安はその時の事を良く覚えてはいないらしかった。

 靄がかかり、雑音ばかりが強調されるその映像は、ぶつぶつと途切れて亘乎の眼前へ跳ね回る。

 分かった事と言えば、何かが流れ込むような感覚と――鳥の声。

 それからだった、希安が詛いの才覚を見せ始めたのは。


 初めに異変へ気付いたのは機械的な女で、けれども大してそう言う才能へ恵まれていなかったらしいその女は首を傾げるばかりだった。

 極稀に現れる女もやはり同様だ。

 けれども、日が経つにつれ、どうにも何かがおかしいと気付く。


 違和感を探った先、辿り着いたのが希安であった。


 ただ、それだけの事だ。


 ある春の日のことだ。

 極稀に現れる女が母親と言うものであるのだと、希安はその時に初めて知った。

 辞書で引いただけの言葉は理解出来ず、ただ、する権利があるのだと言われてしまえば納得する事しか出来ない。


 その時の母親が何を思っていたのか、希安には最早知る由もない。

 あくまでも希安の目から見た全てであり、希安は今はもう遺骸と、それから抜け出した詛いと言う塊に過ぎず、知ろうとする感情もないからだ。

 ともかくも母親は希安を部屋から連れ出すとタクシーを走らせ、住宅街の一角へと連れてきた。

 かつて住んだ家へ、希安を連れ立って向かったのだ。

 けれども昔の旦那であった男に追い返され、打ちひしがれ、憎しみ――丁度その時外から帰ってきた識安に、これ幸いと希安を押し付けた。




 すっかり物の分かる歳になっていた制服姿の識安が、目を丸くしている。


 帰ってきてくれたのだとそんな期待に打ち震えて駆け寄った識安の前に差し出されたのは、しかし、母親の手ではなく、一度たりとも顔を合わせた事のない希安こどもだった。


 戸惑う識安へ、母親は猫撫で声で呼び掛ける。


『この子はアナタの弟の希安よ。識安、希安の面倒を見てやって頂戴。ちゃんと見てくれたら、ご褒美をあげるから。きっとね』


『お母さん、待って』


『じゃあ宜しくね識安』


 伸ばされた識安の手を掴んでくれる人は、いなかった。

 識安は、ぼんやりと立っている希安の手を取るしかなかったのだ。




 まっすぐ目を見て、ぎこちなくも笑ってくれたのは、識安が初めてだった。


 その瞬間に識安は、希安の唯一になった。




 父親に烈火の如く怒鳴りつけられている識安を、希安が見ている。

 どうする事も出来ず、どうにかしなければいけないと言う知恵もなく。

 ただその男ちちおやが識安にとって、自らにとってのあの女ははおやと同じような存在なのだと、希安は思った。


 どんな話し合いが為されたのかは分からないのだけれども、ともかく、希安はその家へ置かれる事になったらしかった。

 男に、部屋を出るなと強く言い付けられる。

 部屋を出ると言う事をその日初めて知った希安は、何を考えるまでもなく頷いてみせた。

 むしろ何とも言えない表情で二人を見る識安ばかりが、希安の幼い脳裏へと焼け付いているのだ。




「嗚呼」


 亘乎は吐息混じりにそう声を洩らした。

 あんなにも醜い世界で生き、そして死んでいった希安を思う。

 希安が見たものが全てではない。

 けれども、希安が見てきたものは希安にとっての全てだった。


 例えば、識安の他に手を差し伸べてくれるものがいたなら。

 例えば、希安が自ら手を伸ばす術を知っていたなら。

 例えば、例えば、希安を取り巻く人々がもっと優しく、そして、希安を取り巻く世界がもっと優しいものだったなら。


 考えても仕方がないそれらは全て、希安に足りないものだった。

 本来ならば、生まれ来た命へ平等に与えられるべきものであるにも関わらず。


 ――けれども。与えられなかったからこそ、己はこの詛いへ出会う事が出来たのだ。


 腹の底から込み上げた熱に、亘乎は思わず自らの口元を左の手のひらで覆った。

 濡れていた手からモノクルへ赤が散って、棘にも似た線を描く。


 ――腥い。


 指の隙間から生温い空気を吸う。

 それに乗って入り込む腥さが、亘乎の背筋を言い知れぬ感情でもって震わせた。


 熱暴走しかけた脳味噌が氷の海へ沈められたが如く一気に冷え切った事に、亘乎は気付いた。

 深い吐息と共に脱力し、腕を下ろす。

 浴室の壁へ据えられた鏡に映った己――口元を赤く染めて気怠くそこへ佇む己は、何と化け物じみているのだろうか。

 自嘲するように唇を歪めれば、むしろそれに拍車がかかる。

 まともではないな、と亘乎は口の中だけで呟いた。




 希安は、識安の庇護の元で生きた――そして、二人が初めて出会った日から既に四年程が経っていた。

 識安の父親はそんな義理などないと少年の存在にまるきり無視を決め込んでいて、家にあるものを使う事も飲食する事も、殆どの事を許されていない。


 しかし、それは確かに希安へは特別に厳しい対応だったのだけれども、識安に対しての慈しみと反比例する訳ではなかった。

 むしろ、識安へのさいなみと比例しているように、希安には見えていた。




 亘乎がゆったりと目を瞬く。

 濡れたままの口元を袖で拭えば、赤が頬へ伸びた。




 識安の帰りが急に遅くなり、そしてまた、夜に出て早朝に帰ってくる日が時たま出来たのは、いつからだったのか。

 眠れないまま、眠ったふりをして、ベッドの中でただ息を潜めていた希安は、生気を失った人形のような、けれども涙に濡れた瞳をして帰ってきた自らの姉の、を感じていた。


 幼い少年にはそれが何か分からなかった。

 仮令自体を見たとしても何が起きているのかは分からなかっただろう。

 けれども、嫌だと思った。

 姉が、識安が、違うにおいをさせて帰ってくるのは、嫌だった。


 もしかすると、それが希安にとって初めての意志と呼べるものだったのかも分からない。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ――そればかりが頭を占めて、耳元で忙しなく小鳥が羽ばたいている。


 けれども、希安にはどうする力も、知恵もない。

 ただ部屋の中へ隠されて、生かされているだけの幼い子供が駄々をこねたところで、何が出来る訳でもない。

 それを、不幸なことに、希安は知らなかった。


 がむしゃらにただ足掻いて、起こる事と言えば小鳥が暴れ回るくらい。

 責められる識安はどうにか弟を宥めすかそうとするけれども一向にどうにもならず、追い詰められ、助けを求めたのだ――潔生へと。




 亘乎は短く息を吐く。

 希安の感傷がほとばしり、亘乎の中をぐちゃぐちゃに掻き乱している。

 赤をたっぷりと含んで今にも破れてしまいそうな皮膚を、それよりも先に何度も抉った。




 潔生は、愛した。

 かつて愛した少女が何も言わずに連れてきた、少女にどことなく似ている子供を、愛した。

 何よりも強く愛すると言う手段を取った。

 愛して、愛して、愛して――そして教えてはいけない感情を、教えてしまったのだ。


 執着と言う、それを。


 口付けられ幼い少年の中へと流れ込んだ、愛と執着。

 それらは潔生ではなく、自らの姉へと向かってしまった。


 全てだったのだ、識安が――希安にとって。

 だからこそ、本能も感情も全て、識安へと向かったのだ。

 向かって、しまったのだ。



 ――口付けは、とても、苦かった。


 歓喜に震える心とは反対に、恐怖に身体が震えた。



 どうしたら良いのか分からない希安は、考えて、考えて、考えて。

 識安を幸せにする為に、身近なところから片付ける事にした。その頃になるとと噂が出てそこへ住みづらくなっていた時期で、識安の父親――決して希安の、とは言えない――が自分の親が住んでいた森の中の一軒家へと越すことになったのだ。


 もしかすると父親は、再起を図ったのかも分からない。

 自らと識安、二人だけでなく、希安も含めて、やり直そうとしたのかも分からない。



 けれども、遅かった。


 希安は、詛ってしまったのだ。




「全く、残酷なことだ」


 亘乎の声が赤い浴室内へと響く。

 掲げた右手に羽根を休める小鳥が、首を傾げた。




 詛ってしまったと言えど、希安に特別強い力はない。

 だからこそ父親は徐々に精神を病み、越して半年程経ったある日、森の中で冷たくなって見つかった――ただ、届け出ていれば、何か変わっていたかも分からない。

 けれども、その有り様に恐れ戦いた識安は届け出をするより早く、交際をしていた孝重へ相談をしてその場へ、埋めた。


 希安はその様を、じっと見つめていた。

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