第10話 対峙

 士季はようやく顔を上げた。

 人間の意識の99%は無意識が占めているというが、あれは本当なのかもしれない。

 日常にける行動のほとんどは潜在意識せんざいいしきによって構成されていると聞いたことがある。

 我々は考え事をしながらも、呼吸や歩行を同時進行で無意識に行っている。

 もし、それらの行動を意識的にやるならば脳はいちじるしく疲弊し日常に支障ししょうきたすであろう。

 歩行という当然のことも、わざわざ『右足を出して、次に左足』といちいち意識していては、家事も仕事も出来ないはずだ。

 それは長きに渡る習慣と蓄積ちくせきによって可能になった“無意識の恩恵おんけい”と呼べるものだ。

 現に士季は、それをまざまざと感じさせられていた。

 考え事をしながら歩行という動作を継続させる。


 そして気付かない内に目的地に到達したのだ。


 『レンガ道の道路と鬱蒼うっそうと生い茂った木々。かたわらには石造りのベンチ』


 間違いない。

 そこは綺羅と共に確認した犯行現場の写真と同じ場所だった。

 長いこと手入れされてこなかったことを物語らせるような無造作むぞうさに生い茂った木々。

 あれだけ、右往左往うおうさおうしたのが徒労とろうと思えるほど呆気なく到着してしまったようである。


 (いや、ちょっとまてよ…)


 士季は今一度、周囲を確認した。

 大袈裟おおげさに身体を水平方向に一回転させて目視もくしする。

 そして、あらためて実感した。


 (ここまで歩いてきた記憶がない)


 確かに、考え事をしながら歩くことは誰にだってあるはずだ。

 心ここにあらずといった心理状態であったとしても、間違いなく視覚には周囲の物が映っているはずである。

 似たような景観で自分の現在位置を把握するのが難しいと思えるほどの地形であるが、ここに至ってはことに異質である。

 さすがの士季でも、歩いている最中にその異変には気付く。

 ここまでの道のりも、周囲の環境の変化さえも、朧気おぼろげなのだ。

 そんな状況下で、この場所は唐突に出現したような錯覚さっかくおちいる。

 過去の感傷かんしょうはそれほどまでに意識を錯乱さくらんさせたのか。

 そもそも、あの幼少期のトラウマも、なぜここに来て発症したのか不明である。

 あれも意図して思い出そうとしたり、何か外部的なきっかけがあって思い出したという訳でもない。

 まるで、何者かが脳内の情報を強引に引き出したような感覚があった。

 もしそうだったならば、果たしてそれは何者なのだろう。

 士季はもう一度、ここに至った記憶を振り返ろうとした、そのとき—


 “私はね、運命は既に決められたものだと思っているの”


 どこからともなく響き渡った冷淡れいたんな声に、士季は目を見張みはる。

 凝然ぎょうぜんと辺りを見渡すが、それらしい人影はない。

 声は不自然な方から反響し、士季の聴覚へと伝わる。

 いな、そもそもどこから話しかけているのかさえも判然はんぜんとしないのだ。

 唯一、分かることは声の主が女性であること。


 「誰だ!?」


 士季は身構みがまえる。

 はたから見れば滑稽こっけいに見えたことであろう。

 人気ひとけのない場所で、孤独に焦燥しょうそうするサマは可笑おかしく見えたはずだ。

 その様子を嘲笑ちょうしょうするかのように正体の見えない声は続けた。


 “考えても見てちょうだいよ。生まれつき足の速い人、遅い人。頭のいい人、悪い人。裕福な家庭に生まれた人、貧しい家庭に生まれた人。それは最初から決めれたものであって、私達はそんな台本の中でしか生きられないようにプログラムされていると思うの”


 士季の答えを無視して、話を継続する。

 こうしている今も、士季は冷静さを保持しながら警戒している。


 「なんだそれは? 哲学を語りたいのなら間に合っているぞ!」


 未だ姿を現さない陰気いんきな声の主とは相反あいはんして、士季は毅然きぜんとした態度で大声を張り上げた。

 生憎あいにく、この手の話は綺羅から何度も聞かされている。

 頭を使うのは、苦手なのだ。

 つい先刻せんこく、綺羅の長話を傾聴したばかりで辟易へきえきしている。何者かは分からないが、これ以上聞き手側には徹したくはない。

 士季の応答に対して、少し残念そうな声で女は言った。


 “別にこれは哲学じゃない。一般論だと思う”


 ようやくここで会話が成立し、ほんの一瞬ではあったものの場内の空気がわずかに弛緩しかんする。


 「どうやら、受け答えはちゃんと出来るようだな。なら話が早い」


 それに乗じて士季は間髪かんぱつを入れずに虚空こくうに向けて指をさした。


 「単刀直入たんとうちょくにゅうにいう。お前が元凶だな? 今すぐ被害者を開放しろ」


 “被害者? なんのことかしら?”


 「とぼけるな! ちまたを騒がせている行方不明事件の犯人は、てめえだろうが!」


 “キャハハ!”


 きぬく女の声…、そう勘違いしてしまうほどの異質さ。

 その笑いは恐懼きょうくに固まるほどおぞましく、士季を黙らせた。

 悲鳴なのか笑い声なのか判別が難しいほど気味が悪い。

 周囲に反響して聞こえることもあり余計に恐怖心に拍車はくしゃをかけた。

 女の声は侮蔑ぶべつを含んだような笑い声で士季に告げる。


 “あなたは私が誘拐したと断定しているけれど、この子たちは望んでここへやってきたのよ”


 「これは末期だな…。思い込みにもほどがあるだろう」


 “ねえ、類は友を呼ぶということを知っている? 人間は自分と似た性質の人しか引き寄せられてこないのだって?”


 「その手の話は暗唱あんしょうできるくらいに嫌というほど綺羅から聞かされている」


 “じゃあ、私たちはお友達ね!”


 「冗談じゃねぇな! 誰が、お前みたいな奴と友達なんかになるか!」


 “友達、いらないの? あなたも随分ずいぶんとすさんだ境遇に身を置いていたみたいだけれど”


 やはり先ほどのトラウマは意図的に誘発させられたものであったか。

 違和感を感じた理由が分かった。あの出来事は一部の人間にしか共有していない。

 どこぞの人間に知られたことは士季にとって悔しさを増長させるものであった。


 「人の事情にズガズガ介入してくんなや! どんな手品を使ったか知らないが、勝手に人の脳みそをのぞいてきやがって。いったいどういう了見りょうけんだ!」


 “友達に秘密はなしでしょ?”


 「生憎だがな、確かに俺は同情の念を禁じ得ないような境遇にいたのかもしれない。だからと言ってお前と傷の舐め合いをするつもりは一切ないぞ。そもそも、ここへ来て一言も、俺は自分を不遇な目にったと明言めいげんしていない」


 “では、どうして私はこんなに不遇な運命を辿ったの? あなたなら分かってくれるものだと思っていたのに…”


 「そんなこと知るかよ! 自分に与えられた運命は人それぞれだろ。お前になにがあったかは知らないがな、拉致ったことでバチが当たった運命を辿ったことは分かるぜ」


 “あなたには分からないことよ。でもここにいる皆は分かってくれるからいいや”


 「バカな! まだそんなことを言っているのか!? 世の中はお前の主観しゅかんのもとで動いている訳ではないんだぞ!」


 “だからこそ、私は自分にとって理想という名の世界を構築こうちくした。あなたは否定をしたけれど、この空間は私の主観で構築された世界”


 「自分の人生が思い通りにならないからって、こんな閉鎖空間を創ってまで運命にあらがいたいのか!?」


 “人生なんて自分の思い通りにいかないものだもの。興味がないわ。定型ていけいされたものを今さら改変かいへんしようだなんて思っていない。だから不遇な運命が私の道。ある種それは宿命染みたものなのよ。宿命というのは自分の道にしっかり固縛こばくされているものであって、自分の意志ではどうにもならないもの。でも、ここは違う。自分の意図した通りの世界。定められた運命の軌道に乗る必要もない。すべては私のユートピアよ”


 「嘘をつけ! じゃあどうして自分が想像した通りの展開になることを望んだ!? 人生に興味がないというのなら、なぜ被害者を巻き込んでまで自分の理想をつくり出したんだ!? それは人生にがあったからなんじゃないのか!?」


 “……”


 「何も望んでいないなら、なぜお前は空間を創り出した? 物事の善悪は置いておいて、お前は空間を創り出すことに成功している。人生が思い通りにならないと言っておきながら、思い通りになっていると自分で証明しているも同然どうぜんじゃないか!?」


 ““うるさいわね!””


 その瞬間、周囲が揺らめく。

 女の声は、ある種、殺意めいたものを含んでいる。

 今までの鬱憤うっぷんを晴らすかのように八つ当たりされたような気分だ。何かいわくがあるとしか思えない憎悪ぞうおを秘めた声をき出しにして士季にぶつけてくる。

 その怨嗟えんさまたたく間に周囲を侵食しんしょくし、どす黒いモヤを形成けいせいしながら歩道や緑地帯、樹木をおおいつくしていく。

 彼女の慟哭どうこく呼応こおうするかのごとく、それらは物質の硬さを無くしていくかのようにゼリーじょうに変動していった。

 その滅裂めつれつさに、士季は目をこすり、もう一度周囲を確認した。だが、残念ながら紛れもなく現実であった。

 周囲が怒涛どとうの如く、モヤに侵食されていく。

 そこではじめて士季は自身が置かれた状況のまずさに気付いた。

 事件現場の写真に写っていた奇々怪々ききかいかいな空間が姿を現す。もっとも、今は断片ではなく空間の全体がしっかりと形態けいたいを維持しながら、劇場のステージカーテンのように垂直方向に上がっていく。


 “どうして私はこんなにも自由ではないの? 円満な家庭が普通だというのなら、なぜ私は孤独で身動きが取れないの? なぜ両親は私を捨てたの?”


 悲嘆ひたんに満ちた声が響き渡る。

 幻覚で攪乱かくらんされているのか、未だに声の出所は判然としない。


 「クソ!!!」


 策を練る前に、空間に閉じ込められてしまった。

 四方八方、見渡しても壁面で覆われている。

 漆黒のモヤは写真で見た通りの朱色へと変色していき、瞬く間に士季を飲み込んだ。


 “理由はどうであれ、ここへ来たということは少なからず私たち・・と同じ境遇に居たということ。あなたは、この場所に踏み込んだ時点で空間に閉じ込められたも同然だったのよ”


 敵の所在は分からぬも、侮蔑ぶべつ憐憫れんびんの入り混じった両眼が士季を見下ろしているのが伝わる。


 (なるほど…。こうやって被害者は空間に飲み込まれたって訳か)


 存外にも士季は冷静だった。

 もともと、空間に入る予定ではあったので覚悟は出来ているが、こうもあっさりと飲み込まれるのは想定外だ。

 被害者がどういった形で迷い込み、どういった形で幽閉されたのか、士季は身を持って体験したのである。

 やがて、周囲は完全に遊歩道の景色を無くす。

 全方位、閉鎖空間に変容していき、そして…、完全に士季を飲み込んだ。

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運命だと決めるなら -飛躍少女- 松井ぽてと(クロノフォビア) @Egg-of-Life

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