第5話 N > ((10^6)!)^(10^3)+1 Kei
足が止まった。
理工学部棟の長い廊下、夜に吸い取られた蛍光灯の白が床に硬い影を落としている。
片手には缶コーヒー、もう一方には提出用のレポート。
どちらも手のひらにあるはずなのに、指先の感覚が遠い。
――来る。
理由はない。ただ、そうとしか思えなかった。
あの角の向こうから、誰かがこちらに向かって走ってくる。
まだ一度も会ったことがないはずなのに、何度もこの瞬間を繰り返した記憶が粒子のざわめきのように胸をかき回す。
心臓が早まる。
息を飲み込みながら、耳の奥に微かな“残響”が鳴った。
ガラスに指を走らせたような高い音。
思い出せない数式、解けない夢の切れ端が
まとめて押し寄せてくる。
――来る。
そう確信してしまった自分に、背筋が冷える。
誰だ? なぜ分かる?
角の先、かすかな足音。
コツ、コツ、と規則正しく近づいてくる。
その音が一歩ごとに、俺がまだ知らないはずの「再会」という言葉を強引に脳裏へと押しつけてくる。
次の瞬間――
金属音とともに缶コーヒーがわずかに震えた。
角の向こうから差し込む夕暮れ色の光が揺れ、誰かの影がゆっくりと廊下に伸びてきた。
――彼だ。
名前も、顔も、まだ知らないのに。
世界が息をひそめ、俺の視界がその一点に収束していく。
廊下の角から、あの彼が現れた。
――やっぱり、来た。
息を飲む間もなく腕をつかまれる。
強い指の温もり。
次の瞬間、視界がブレて廊下が後ろへ流れた。
「走って!」
低く鋭い声。
息が合わない。足音だけが先へ先へと急かしてくる。
「待っ――待て、ちょっと!」
停止しようとしたけど、腕を引く力はさらに強くなる。
「説明は後だ、
背中越しの声は必死で、
その必死さが逆に胸を締めつけた。
何も分からない。
ただ、知っている。
この手を離したらまた見失ってしまう――
そんな根拠のない確信だけが身体を動かしていた。
そして、口が勝手に動いた。
「……ビル!」
自分の声に自分が驚く。
呼ぶつもりなんてなかった。
彼の名前なんて、まだ聞いていないはずなのに。
ビルが一瞬だけ足を止め、振り返る。
青い瞳が揺れる。
その表情は――驚きと、何か痛みに似た影を宿していた。
「……君、どうして――」
言葉が途切れた瞬間、
視界の端から黒い影が飛びかかってきた。
凍った闇が牙を剥き、ビルに向かって――いや、俺へ。
反射的に手を伸ばす。
頭では何も考えていない。
ただ、胸の奥でざわめく粒子の記憶が世界を“定義”する方法を知っていた。
影が、音もなく崩れ落ちる。
黒い霧が消えて、廊下だけが残った。
息を呑む音。ビルだ。
その瞳が、俺をまっすぐ射抜いていた。
驚きでも、恐怖でもない。
もっと深く、痛みを帯びた色。
「……ケイ……君、記憶を――」
その声の震えが、すべてを告げていた。
俺は――覚えている。
数えきれない夜と、終わりのない死を。
そして今、彼と同じ罪を背負ったのだと。
視界が、幾億もの粒子に裂けていく。
キャンパスの廊下、神社の参道、夜の街、油の匂いのバーガーショップ――
あらゆる現実が幾重にも重なり、
音も色も境界を失って、ただ白いざわめきとして漂っていた。
ビルが僕の腕を掴んでいた。
その掌の熱だけが、崩れ続ける世界で唯一の“現在”を示している。
けれど、彼の指は震えていた。
その震えが、痛みではなく――
罪悪感から来るものだと、今の俺には分かる。
「……ケイ」
掠れた声が、世界のざわめきに溶けていく。
「僕は……君を守ろうとして、何度も世界を殺した。何度も君の死を取り消して、そのたびに
世界を壊して、神様を消して……もう、何回繰り返したのか分からない」
ビルの瞳が、深い海の底みたいに揺れている。
そこに映るのは、無数の死と取り消しを重ねた果てに自分だけが生き残り、世界を使い潰してきたという果てしない孤独と恐怖だった。
「僕が、世界を汚した。君を巻き込んで……君まで、同じ罪を背負わせた」
言葉が途切れ、彼の喉がひくりと震えた。
「ケイ……ごめん、ほんとうに……」
――その瞬間、胸の奥で何かが開いた。
幾億ものループの記憶が、一気に流れ込んでくる。
神社の灯籠の匂い、冷たい石畳、バーガーの温もり、ビルが何度も僕を抱きかかえ、そのたびに死を取り消し、世界を塗り替え、孤独に泣きながらただ僕を選び続けた時間のすべて。
理解した瞬間、涙が勝手に滲んだ。
彼が背負ってきたものの重さが、痛みとして僕の胸に刺さる。
――でも、違う。
これは一人で背負うべき罪じゃない。
僕はそっと、ビルの手を取った。
その指が一瞬、驚いたように震える。
それでも、僕は離さない。
「ビル」
声が自然にこぼれる。
「俺はもう知ってる。お前がどれだけ世界を壊して、どれだけ俺を守ろうとしてきたか。その全部を、俺は――覚えている」
ビルが息を呑む。
世界のざわめきが一瞬だけ凪ぎ、粒子の嵐が僕たちの周囲で螺旋を描く。
「だから、これからは俺が選ぶ」
言葉が震えながらも、確かな熱を帯びる。
「罪でも、終わりでも構わない。お前が一人で背負ってきたものを、俺も一緒に抱える。二人で観測して、二人で世界を続ける」
ビルの瞳が大きく見開かれ、
そして――ゆっくりと、痛みを解かすように涙が溢れた。
「……ケイ」
彼が、俺の名を呼ぶ。
その声は、無限に繰り返された無数の“はじめて”の中で最も美しい響きだった。
世界は崩れ続ける。
それでも俺たちが手を取り、互いを観測し続けるかぎり、世界は消えない。
罪も、救いも、終わりさえも――
俺らが選び、定義する。
そのすべてを、今この掌の中に抱えながら。
終わらない一瞬の中で、君と 未人(みと) @mitoneko13
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