ふむふむ

『ふむふむ』


 1


 どれくらいの時が過ぎたのかは分からない。

 一週間かもしれないし、一か月かもしれない。一年はさすがに経っていないだろうと思う。不老不死の私はそういう時間の流れに酷く鈍感になってしまっているし、カレンダーにバツ印でも記しておけばよかったのだが、そんなことはしていないから確認のしようがない。

 なんにせよ、ヴァニアとの生活に日常を感じるくらいの時間が経った。

 久しく私は、不老不死が由来であることを除いて、鈍感で迅速な時の流れを過ごした。

 ベランダの柵に肘をつき、日の落ち切った街並みをぼんやりと眺めながら、紫煙を燻らせていると、けたたましくドアが開いた。

「おはよう! 海月!」

 ヴァニアは太陽のように、快活に笑った。

 吸血鬼相手に太陽のようにとは、ぞっとしない表現だし、今は夜なのだった。

 言わずもがな、吸血鬼というやつは夜行性で、日が昇ると眠り、日が落ちると同時に起きる。

 ちなみに私は眠らない。そもそも眠れない。

「おはよう、ヴァニア。よく眠れたかい?」

「それはもうご覧の通りだ」

 ふふんと、ヴァニアは薄い胸を張って、鼻を鳴らす。

 ヴァニアと出会った頃に比べ、ヴァニアは随分と精神的に幼くなっていた。起きぬけの今もそれなりなのだけれど、寝ぼけ始めると、それがより強く表れるようになる。

 元来ヴァニアはこんな感じらしい。仮にも三桁を超えた年齢のはずなんだが。

「海月は相変わらず眠らないんだな」

「そうだね。目を閉じていても夢の中には行けない」

「それは……どうなんだ? 悲しいことなのか?」

「どうだろう。別に眠りたいと思っているわけじゃない。ただ時間つぶしの方法に困るだけだ。眠ることそのものはどうでもいいかな」

「意識を失うとかは?」

「頭をつぶされれば、再生するまではしばらくね。その辺りは昔の実験で知ってる」

 ふうんと、ヴァニアは分かったような、分かっていないような相槌を打った。

「海月が煙草を吸ってるとこ見るの、久しぶりだ」

 私の隣、ベランダの柵に肘をついた私と違って、柵に座り込んで階下に足を投げ出し、ヴァニアは私の手から煙草を取り上げ、くわえた。

「——げふっ!」

 むせていた。

「な、なんでこんなもん吸ってるんだ……?」

「博士が昔よく吸っていたんだよ。街にいた頃もよく吸うやつがいたんだ。その頃のことを想いだすためにさ」

 言って、私はヴァニアの手から煙草を取る。

 慣れた動作で吸って、慣れた手つきで煙草を離して、夜の中に煙を吐く。

「ヴァニア」

 煙が喉に絡まっているのか、喉を獣のようにうならせているヴァニアに、私は腕を差し出す。ヴァニアは腕を掴んで、噛みつき、吸血を始める。

 私の日課であり、ヴァニアの夕食だ。

「吸血だけでは眷属とやらにはならないんだよな?」

「そういう吸い方をしないとならないよ。何度も言ってるだろ?」

 私の腕にかみついたままで、ヴァニアは言う。

 理屈は不明ながら、そういう理由で私は吸血鬼にはならないらしい。そしてヴァニアは、吸血する人間は等しく殺して食べていたから、眷属とやらは作ったことがないらしい。

「肉ごと喰わなくて平気なのか?」

「それも何度も言ってるだろ? 初めて会った頃に海月を腕ごと食べたのはそれだけ腹が減ってたんだ。こまめに血がもらえれば、本来はそれだけでいいんだよ」

 ヴァニアが言うに、ヴァニアは常に腹四分目くらいにしか胃を満たしていないらしい。お腹を一杯にしてしまうと、血が滾ってしまって落ち着かないんだとか。

 一度それを試してみて、滾った血のやり場に困ったヴァニアが、頬を紅潮させ、息を荒くして、涙目で私の胸に頭をぐりぐりと押し付けてきたときは、どうしてやろうかと思った。

 ちなみに全身を食べられても私は死ななかった。というか私の再生速度に、ヴァニアの食事の速度が追い付かなかった。

「ごちそうさま」

 ヴァニアは十分に吸血を終えたのか、私の腕から口を離して、そこに残った血液をなめとった。くすぐったいような、そんな気がした。

「ヴァニアの方が不老不死になったりしないのかな」

「血を吸ってる私が、海月に当てられるってことか? どうなんだろうな。今のところ、私の身体に変わった感じはしないけどな……」

 ヴァニアは、両の手を開いたり閉じたりを繰り返す。

「ヴァニアがゾンビに噛まれたらどうなるんだ? 感染してゾンビになるのか?」

「ならないよ。吸血鬼は名の知れた怪異だからな。ゾンビウイルスに当てられることはない」

「有名だと当てられないのか」

「怪異の存在性は人間の認識次第って話したろ? 例外はあるけど、認識されなくなったらそもそも消滅する」

「……ふむ」

 似たような話を博士から聞いた覚えがある。

 特に補足する情報もなく、ヴァニアの言った通りだ。

 幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉と同じで、基本的には勘違いが怪異の存在性を保証、立証する。吸血鬼は世界中で知られている一番有名な怪異と言っても過言ではないだろうから、人間が減った今の世でも、そう簡単に消滅はしないのだろう。

「海月は本当に朝ごはんとか食べないのか?」

 ヴァニアは寝起きの伸びをし、くぁと一つ、欠伸をした。

「今は夜だよ」

「細かいなあ、私が起きたときが朝だよ。アルバイトとか遅番でも「おはようございます」 って言うだろ」

「私はアルバイトなんかやったことはないな。ヴァニアはあるのか?」

「そりゃあ三、四百年も生きていたらアルバイトの一つくらいやっているさ」

 ヴァニアは自慢げに鼻を鳴らす。研究所生まれの私にアルバイトあるあるを言われても、残念ながらこれっぽっちも共感が出来なかった。

「なんのバイトをやっていたんだ?」

「バーガー屋だよ」

「上手くできたのか?」

「理不尽な客に腹立って殺したら、クビになって指名手配された」

 ヴァニアにアルバイトをする気はあったのだろうか。

 しかし、研究所生まれの私は、アルバイトの経験どころか人生経験に欠けているし、私が知らないだけで、こういうことはよくあるのだろうか。勢い余って殺してしまう、みたいな。

 いや、さすがに冗談だ。そんな理由で殺人を犯すことがこの世の常であるのなら、ゾンビ世界にならずとも人類なんて絶滅してしまっただろう。

 誇張なく世間知らずの私ですらそれくらいわかる。

「で、実際本当に働いていたのか?」

「いやいや、吸血鬼が働けるわけないだろ。それに、私見た目こんなんだから、夜働くとかも出来なかったし」

 ぶすくれた表情のヴァニア。

 相も変わらず愛らしい表情だった。

「それで海月は、朝は食べないのか?」

「必要ないしね。朝だけに限らず、食事はとらない。味もほとんどしないから」

 この辺りにある保存のきく食べ物を、一応はかき集めてある。生きている人がここに来たときにもてなしとして使ってやろうと思っていたのだ。しかし、そんな中でここに来たのは吸血鬼のヴァニアだった。ため込んだものが無意味だったということに、少し肩を落としているのはここだけの話だ。

 ヴァニアは月と星空を見上げる。

「いい夜空だ。こんな日は空を飛びたくなるな」

 軽く跳ねて、ベランダの柵の上に立ち、ヴァニアは私の方を向いて、十二階の高さから、逆さまに落ちて行った。

 ヴァニアのいなくなった夜空をしばらく眺めていると、ヴァニアは背中に蝙蝠の羽を生やして戻ってきた。吸血鬼には、そういう性質があるらしい。

「海月も、一緒に行こう?」

「もともとそのつもりだったんだ」

 煙草をベランダから放り投げて、私は傍らに置いてあったバックパックを拾い上げた。

「うん? 行くところでもあったのか?」

「ヴァニアが連れてこられた護送車のところを覚えているか? あそこだよ」

 私は両の手を差し出す。

 ヴァニアはそれを掴まず、私の背後に回って抱き着き、そのまま飛び上がった。

 身体がふわりと浮く感覚。これが結構楽しい。

「なんであんなところに行くんだ?」

 夜の空を羽ばたくヴァニア。白銀の髪は夜風になびき、真っ赤な瞳は夜空に浮かぶ月のように輝いていた。

 ただ、美しいと思った。

「思い返してみれば、私はあの時、私が保管していた武器だったり、火薬だったりをほとんど使ってしまっていてね。その分を回収しないととはずっと思っていたんだ。あとは車の燃料とかね。いつか使うかもしれない」

「私がいるしいらないだろ。海月を危険にさらす奴は全員殺してやる」

「ありがたい話だが、自衛の手段も持っておくに越したことはないんだよ」

「不老不死なのにか?」

「吸血鬼とは違って、私はただ不老で、ただ不死なだけだからね」

 私が持っている特別な力なんて言うものは、不老で不死、ただそれだけだ。

 ヴァニアのように空を飛ぶことは出来ないし、人を貫く力もないし、身体能力もそこまで高くない。再生力の高さで言えばヴァニアよりも私の方が上なのだろうが、生活を送る上でのスペックの高さで言えば、ヴァニアの方が上も上。住む世界が違うまである。

「海月はそうやって言うけどさ、私をたった一人で助け出しているんだから、ただ不老不死なだけっていうのは、あんまり納得しづらいぞ?」

「死ぬ心配が無いから戦略を立てるのに苦労しないだけだよ。加味するべき要素が少ないんだ」

 実際、ヴァニアを救えたのはそういう理由が大きい。

 あの時ヴァニアを救えなかったとしたら——それはつまり死ぬ場合なのだろうけど、不老不死の私は、それを考えなくていいのだ。あそこまで丁寧に戦うことなく、無策の強行を決め込んだところで、それすら策になりうるのだから。

「ヴァニアは、自分を捕らえていた街に復讐しようとは考えないのか?」

「復讐? うーん……いろいろ実験されたし、生きてるのか死んでるのか分からない状態でいろいろ試されたりはしたけど、今となっては別にな」

「実験? 初耳だが」

「弱っていても吸血鬼だからな。腕がもがれても治ったり、頭をつぶしても生き返るんだ。 ワクチンみたいなものが出来るんじゃないかっていう話になってたんだよ」

「そんなことをされても、気にしていないと言えるのか?」

「まあ昔の話だし、とくに。それに——」

 本当に気にしていない様子で、それでもヴァニアは続けた。

「今はもう、その気になればいつでも殺せるから」

 その言葉を羨ましいと思うのは、私が死ぬことのできない身体だからだろうか。

 羨んでいるのは、ヴァニアの力ではなく、ヴァニアに殺される人間たち。

 私は今のところ死ぬ方法を持っていないのだ。恨みを買うだけで死ぬことのできる彼らが、私にはひどく羨ましい。

「海月こそ、研究していたやつらを恨んだりしなかったのか?」

「恨んだ結果がこの世界だと、教えてくれたのはヴァニアだよ」

「海月は運がいいな。不老不死の海月に、ほぼ不老不死の私が来るなんて」

「来るというより、連れてこられた感じだろう」

「あっはっはー。違いないね」

 ヴァニアはそうして、人ごとのように笑った。

「そうだヴァニア、さっき言った場所につく前に、向かいたい場所がある」

「うん? どこだ?」

「服屋だよ。ヴァニア、いつまでも私の服を着ているわけにはいかないだろう。サイズもあっていない」

「私は気にしないし、私この服結構気に入ってるぞ? 海月の香りがする」

 ヴァニアと私は体格や身長に大きな差がある。

 だというのにヴァニアは私の服を着ているものだから、服がずり落ちて、片方の肩がかなりはだけてしまっている。私からすればただの上着も、ヴァニアにすればワンピースのようになってしまうのだ。

 目のやり場に困る。

 きゃー、だ。

「お、海月は私に欲情してるのか?」

「ヴァニアは美しい容姿をしているからね。そうなるのも仕方がない」

 そうは言うものの、私はその手の欲求にかなり疎い。

 不老不死だから、なんていう注釈は、いい加減必要ないだろうか。

「しかし、ヴァニアは欲情の先に何があるのか知らないだろう」

「欲情の先? ……そりゃあ、その……キ、キス、とか?」

「ヴァニアは何歳の頃に吸血鬼になったんだ?」

「昔すぎて怪しいけど……、十四とか、五とかだった、かな?」

 その歳ではまだ知識も乏しいのだろうかと、私は首をかしげたのだった。


 2


 しばらくの飛行の後、私たちは服屋に到着した。

 高層ビルに入っているような服屋ではなく、一階建ての、それでも大きな服屋。徘徊するゾンビこそいなかったものの、死体が二、三床に転がっている。しかし、血が飛び散っているわけでもないので、ほとんどの服は無傷の状態だった。

 夜だし、室内だということもあって、手にした懐中電灯を頼りにしなければ、私には周りが見えない。しかしヴァニアは、まるですべて見えているかのように動き回っていた。

 吸血鬼は夜目が効くらしい。

「海月! 見てくれ!」

 そんな風に無邪気な声を響かせ、試着室のカーテンを勢いよくまくったヴァニアは、セーラー服を身に纏っていた。

「こういうの一回着てみたかったんだ!」

 服のことは気にしていないと言った割に、ヴァニアはかなり上機嫌にくるくると回ってみせる。白銀の髪とスカートの裾をひらりと舞わせるその様は、よく似合っていた。

 このお店、どうやらこんな世界になる前は、近くの中学や高校の制服を取り扱っていたらしい。

「海月も着てみてくれよ!」

「セーラー服をか? 私にはコスプレみたいなものだろうに」

「でもどっちかって言うと、海月には学生服の方が似合いそうだな」

 そう言ってヴァニアは言葉通りに学生服を手に取って、私に当てては、床に放り投げる。楽しそうにはしゃぐヴァニアに、見ているこっちまで楽しくなる。

 子どもがいるというのは、こういう感覚なのだろうかと、そう思ってみた。

「私はあまりファッションに興味はないのだけどね」

 博士がそうだった。あんな研究所にいるくらいだからそうなのだろうけど、私からすれば親のようなあの人に、私は色々影響されているだろうと思う。

 博士も、私のことを子どものように思ったのだろうか。

「ファッションはレディーの嗜みだぞ? せっかく女に産まれたんなら、ファッションには気をつかおう」

「そう言われても、私はその手の物には疎いんだが」

「そうかそうか。じゃあ多分海月より長生きの私が、海月をコーディネートしてやろう」

 そこからはもう着せ替え人形みたいなものだった。

 ヴァニアが気に入った服や、私に着てみて欲しい服をひたすらに渡され、ただただそれに袖を通した。

 生憎ながら、疎いものに対して知識なんて持ち合わせていない。

 スカートだったり、ズボンだったり。

 なんか縞々のやつだったり、チェックのやつだったり。

 私の身体よりも何サイズか大きいものだったり、あるいは、かっちりした服だったり。

 街にいたころも、私にこういうことをしてきたやつがいたが、あいつは元気にしているだろうか。生存能力の高い奴だったから、多分生きていると思う。

 そんなこんなで二十着ほど着せられたところで、私の方からストップを出した。楽しそうなヴァニアを見ていて、私もなかなか楽しめたとはいえ、さしもの私も疲れてしまったのだ。

 楽しくて疲れるとは、一体いつぶりの感覚だろうか。

「私の服は海月が選んでくれよ」

「私相手にそれを言うのか。研究所暮らしで世間知らずの私に」

「研究所にいくらでも人はいただろ?」

「ヴァニアは研究所に行ったことはないのか? 白衣だらけで服装を気にする奴なんてほとんどいないよ」

 服装どころか、寝癖のついた髪型も気にしていない人ばかりだったように思う。

 私が一番関わったのは、私の作り手である博士なのだろうけど、博士もそういうことに一切頓着しない人だった。

 その癖、私にはあーだこーだの言ってくるのだから、そのことでよく喧嘩したものである。

「私が捕まってた場所にもそんなやつはいなかった——って言うか、そんなことを気にしていられる余裕がなかったって言う方が正しいかな」

 ヴァニアはハンガーから服を引っ張り出す。

 すこし眺めて、床に放り投げた。

「ヴァニアは捕まるまでは西洋の方で暮らしていたと言っていたろう。だったら、その時の服を思い出せばいいじゃないか。どんな服を着ていたんだ? やはりドレスのような服なのか?」

「やはりってなんだよ。ドレスを着てたこともあるけど、動きづらいし、空を飛び回る私からしたら、な、中が、見えて、大変だろ……」

 そう言ってヴァニアは赤面する。

 三桁生きていながら、やはりこういうことには慣れていないらしい。私のファッションに関する知識と似たようなものだ。

「そういえば、博士から昔、吸血鬼はある程度の創造能力を持っていると聞いた覚えがあるんだが、服は作れないのか?」

「作れるよ。でもやらない。せっかくの服屋なんだから選ぼうよ。海月だって、気に入った服はあったんだろ? 私がダメにしたやつとか、どうだったんだ?」

 ヴァニアは悪びれる風も見せずに言った。

「あれは長く着ていたから気に入っていたんだ。服は体を包む物だからね。着古すと、その分安心するんだよ」

「だったらまた別の服を着古せばいいってことか?」

「まあ、そうなる」

「なんだよ。ちょっと申し訳ないと思ってたのに損した」

 どうやら、申し訳ないとは思っていたらしい。

 私は代謝をしないから、服の持ちがいいタイプなのだ。ヴァニアにダメにされなければ、まだ着ていた——というか、一生着ていたと思う。

 そういうところを博士に怒られたのだったかな?

「海月に、お洒落したい欲はないのか?」

「さっきないと言った気がするんだが」

「もったいないなあ、海月は美人なのに」

「それは私への誉め言葉というより、博士への誉め言葉という感じだな。私は博士の容姿をそのまま受け継いでいるから」

「心根は違うんだろ? 心も含めて美人だって言ったんだよ」

「む、そうか」

 こうしてストレートに褒められてしまうと、少し照れる。

 街にいた頃もしばしば美人だとは言われていたけれど、それはやっぱり博士の見た目であるからして、私のことだとはどうにも思えなかったのだけれど……、ヴァニアはこういう部分に関しては照れることがないらしい。

 しかし心根が美人だと言われ、それに照れはしたものの、心当たりがない。心があるかも怪しいところだ。

 つまるところ、実は照れていないのかもしれない。

「それで、結局ヴァニアはどんな服を着ていたんだ?」

「そん時の雑誌に載ってた服を着てたよ。流行りもの」

 雑誌に載っている服をそのまま着るのは、あまり好ましい評価を得られなかったような、という話を思い出した。そんな雑誌すら読んだことのない私が言えたことではないが。

 結局ヴァニアが決めた私のコーデはフードのついたグレーのスウェットに、裾を絞ったパンツと、お洒落かどうかは知らないが、それなりに動きやすい服だった。

 対して、申し訳ないことに私は服選びがさっぱりだったので、ヴァニアには、ヴァニアが最初に着ていたセーラー服をチョイスさせてもらった。服を選ぶことは出来ないけれど、実際、可愛いなとは思ったのだ。

 紺色に赤色のスカーフ。スカートはひざ下。黒いタイツをはいて、割に制服らしい着こなし、というより、白銀の髪に真っ赤な瞳のわりに優等生っぽさのある着こなしで、やはり良く似合っていた。

 思えば、私がセーラー服を着るとコスプレのようなもの、と言ったものの、三桁を超えているヴァニアが着れば、それも似たようなものではないのだろうか。

 私たちは、服屋を後にした。


 3


 またしばらく飛んで、私たちは、私たちが初めて会った場所に着いた。

 壊れたバリケードも、あの時ばらまかれたトランプも、機銃のついた装甲車も、ヴァニアが捕えられていた護送車もそのままだった。

 その場所には、喰い荒らされた死体と、その犯人であろうゾンビが数体うろついていた。その中には、私が殺した覚えのあるものもいた。どうやらゾンビに転化したらしい。

「海月は好きに探索してるといいぞ。あれは私が処理しとくから」

 言いながら、ヴァニアは爪を立て、空を切るように軽く振る。その導線上にいたゾンビの身体は、切り裂かれたようにバラバラになった。

「死体があるとはいえ、思ったよりもたくさんいるな」

「吸血鬼の血は濃いんだ。私の血は蒸発して消えても、一瞬の香りがあいつらを引き寄せる。多分そっちの方が理由としては近いと思うぞ」

「処理が面倒そうだな。私も手伝おうか?」

「どうやってだよ。いつもの手斧持ってきてないだろ」

「おっと、忘れていたか、オーノー」

「海月って、ときどきわけわかんないこと言うよな」

 結局、ヴァニアのゾンビ処理を見ているだけになった。

 思えば、吸血鬼の力のこういう面を見るのは初めてのことだ。再生能力であったり、ここまで運んできたように羽が生えたりするさまは何度か見たけれど、初めて見た攻撃的なそれはなかなかに衝撃的な光景だった。

 腕を振るだけでゾンビがバラバラになるのだ。空腹で弱っていたとはいえ、たかが人間ごときに捕まっていたのが、にわかには信じられなかった。

「殺しの様を見せつけるのもなんか不思議な感じだ」

 ヴァニアはゆったりと歩き始める。そしてまた爪を立て、距離のあるゾンビの方へ向け、腕と爪を振る。そのゾンビは、さっきのゾンビと同じように、バラバラになった。

 少し力んだのか、ゾンビの向こうにある住居の壁にも爪の痕がつき、それはそこそこの爆発音を立てた。

「そう言えば海月さ、前に似たようなこと話したけど、ここを離れようとは思わないのか?」

 ゾンビの殲滅を終えたヴァニアは、護送車の上に座り込みながら言う。

 落ちた銃を拾いつつ(ハンドメイドのものもあるようだ)、私の上で不思議そうな顔をしているヴァニアに答える。

「離れる理由があまりないよ。それに、私は不老不死。ゾンビに襲われるよりも、人に見つかる方が危険なんだ」

「死に方探しもしてないのか?」

「出来ればいいのだけどね」

 死ぬ方法も、死に方探しも、出来ればいい。

 噛まれようが引っかかれようが感染しない。しかし代わりに、死ぬことが無い。その性質が人に割れれば、私が研究所で捕まっていたような扱いをされることは想像に難くない。私は不老で不死なだけだから、捕まれば抵抗は出来ないのだ。

 結局、この街から身動きは取れない。

「……」

「? どうした? ヴァニア」

 何も言わないで、護送車の上からじっと私の方を見るヴァニア。

 そんな様子のままで、ヴァニアはゆっくりと、ヴァニア自身のことを指さす。

「私 is 吸血鬼」

「? 知っているが?」

「ちょうつよい」

「馬鹿っぽいが……、まあ、今見た」

「察しが悪いなあ、海月は」

 呆れのような表情を見せるヴァニア。

 その表情の意味を思案してみたものの、私は誰かと話すことが久しい身なのだ。察する能力が欠けていたとして、それは大目に見てもらいたい。

「私は吸血鬼で、超強い。海月が死に方探しに出かけても、海月を守ることが出来るんだぞ?」

「……ああ、なるほど」

 落ちていたリボルバーの残弾数を確認して、胸ポケットにしまいながら、私は一人納得する。

 私の身動きが取れない原因は、単純に私に自己防衛能力が無いからだ。ヴァニアを護送車から救い出せたのは、それだけの準備が出来たからというのと、死ぬことがない前提からで、あれは自己防衛とは物が違う。

 つまり、自分で自分を守れないのなら、誰かに守ってもらえばいいだけだ。

「だが、ヴァニアにそこまでしてもらう義理はないだろう」

「いや、私は海月に命を救われてるんだが……」

「気にしないでいい。どうせ、失敗の可能性の無かった策だ」

 無策の強行すら策になる、あれ。

 再三言うが、死なないから策になるのだ。あの機銃が私の身体をハチの巣にしたところで、再生してまた戦い直せる。少しの陽動で大慌てになっていたあいつらごときが、再生する私に動揺することなく、捕まえる方へ舵を切る判断力があったとも思わない。

「じゃー、海月は私の食料になるから、なんてどうだ? 尽きない食糧は、私にとっては傍に置いておいて悪いものじゃない」

 護送車の上に寝転り、ヴァニアは顔だけを覗かせる。

 今度は私が何も言わないで、ヴァニアの方をじっと見つめてみる。

「な、なんだよ……」

「なぜ私にそこまで固執するのかと思ってさ」

 純粋な疑問を、私はヴァニアに投げかける。

「命を救われた。食料になる。美人。三すくみ揃って、むしろ傍にいない理由の方が無いだろ。海月だって、死ねる方法を探してもいる。協力する代わりに、自分を食料として差し出す。昼間は、私は動けないから海月も休むってことでどうだ? Win-winな関係だと思うけど?」

「……ふむ」

 軽く考えてから、私は相槌を打つ。

 今のヴァニアの理論に反論したとして、せいぜい、「ヴァニアにそんなことを付き合わせるわけには」と、私が気負ってしまっているだけ。不老不死であることが割れなければ複数人でいるのは嫌いじゃないし、ヴァニアと過ごすのも悪い気分じゃない。ヴァニアがそれでいいと言ってくれているし、私にも十分な利がある。

 多少無理があるような気がするし、どこか無理強いされているような気もするが、断る理由もない。実際、死ぬ方法を探しているわけだし。

 しかし。

「仮に私が死ねたとしたら、ヴァニアはどうするんだ?」

 さっきのものと同様、純粋な疑問だ。

 死ぬ方法を探し、それが見つかって私が死んだ場合のこと。

 私に十分な利のあるヴァニアの提案だけれど、これでは私の利が大きすぎるのだ。Win-winだとヴァニアは言ったが、どうにもそうは思えない。

 私が死ねば、ヴァニアは取り残される。

 不老不死なんて、ろくなものじゃない。

「あー」

 ヴァニアは軽く上を向いてから、答える。

「まあ、難しいことはいいじゃんか。海月と違って、吸血鬼には一応死ぬ方法もあるんだし。私的に当面の食糧問題が解決するってだけありがたいんだよ」

「しかし、そうは言ってもだな——」

「とりあえずのとこ、そこで理解を止めといてくれよ。これ以上言えることはないし、私がそれで良しとしてるんだから、良くないか?」

「……そうか」

 これに関しては、その通りなのかもしれない。

 死んだ後のことは、死んでから考える。

 なかなか愉快な理論だった。

「その気になったか?」

「そうだね。じゃあ、いつ出発に——おや?」

「あー、うん」

 会話の途中ながら、私たちは会話を止める。ヴァニアもその気配を察知していた。

 足音。

 ヴァニアを捕らえていたやつらを襲撃した際の爆発や、機銃の乱射によって砕けたコンクリートが散らばる地面だからか、じゃりじゃりとした足音は、会話に集中していてもよく聞こえる。

 しかしその足音はゾンビのものではないと、聞いただけで分かるものだった。足を引きずっているような音ではなく、明確に、一歩ずつ、丁寧に歩いている音だったのだ。

 音のする方へと、二人そろって顔を向ける。

「あ、あれ?」

 そこには一人の女がいた。

 赤茶けた髪を後ろで一つにくくり、困惑の瞳を私たちに向けている。その顔や長そでのシャツはところどころが砂や渇いた血液に汚れており、逞しい生き方をしてきたのだと物語っている。背には寝泊まりするためのもだと一目でわかるほどに大きなバックパックを背負い、その手には一本の猟銃を持っていた。

 特に表情を作らない私と、眼光を鋭くしたヴァニアの視線に戸惑いの様子をみせていた。

「まさか、こんなところで生きた人間に出会えるなんて……!」

 女は、猟銃を下げ、呟くように言った。

「あ、あたしは甘金あまかねかげ! 二人は?」

「昼神海月だ」

「………」

 ヴァニアは、ツンとしているのだった。


 4


「海月に、ヴァニアちゃんね。よし! 覚えた!」

 護送車の上に三人、屋根の端から脚を投げ出す。

 私を中央に据えて、左にヴァニア、右に影。

 ヴァニアは結局影に自己紹介をしようとしなかったので、私が紹介しておいた。

 今のヴァニアはセーラー服。見た目中学生のヴァニアだから「ちゃん」と呼ばれても仕方のないことだとはいえ、ヴァニアは不服そうにしていた。その不服そうな様子が、ヴァニアの子どもっぽい様子をさらに引き立たせていた。

「あたしは二十七になる。海月とヴァニアちゃんは?」

「私は覚えていない」

 事実。

「私は三百とか、四百いくつ」

 これも事実。

「はは! ヴァニアちゃんは冗談が上手いなあ!」

「違う! 私はほんとにそれくらいなんだ!」

「うんうん、そっかそっか。そりゃあ人生の大先輩だ」

 嬉しそうに笑って、影は私越しにヴァニアのことをあしらっていた。

 あしらわれたヴァニアはそっぽを向いて、不貞腐れた様子で護送車の上に寝転がった。

「それで、二人はこんなとこで何をやってるんだ?」

「二人暮らしをしているんだよ。街は好きじゃなくてね」

 当たり前ながら、一応注釈をしておくと、私が不老不死であること、ヴァニアが吸血鬼であることは隠している。私の容姿は一般的な人間のそれと変わらないとはいえ、ヴァニアの容姿は銀髪に、真っ赤な瞳だ。しかし、不思議なことに影はそれに触れてこない。

 触れられないならいいだろうと、とりあえずほっといている。

「影はなぜこんなところに?」

「私も似たようなもんだよ。街は好きじゃないから一人旅をしてる」

「危険じゃないのか?」

「危険? それを海月が言うのか? 女の二人暮らしなうえ、一人は中学生くらいの女の子。それでも二人暮らしをしてるのは、危険を承知してるからだろ? あたしも似たようなもん。自分の意思を大事にしてやるんだ」

「ならば、一人旅を初めて長いのか?」

「二十になる前からって思ってるけど、二人に訊いといて、あたしも自分の歳は覚えてないから、実のところはよく分からん。命の危険はあっても相対性が無いし、自分の歳なんか数えてられなければ、そもそも今が何日なのかも分からん。海月が自分の年齢を覚えてないのも、よく分かるよ」

 影は胡坐をかいて頬杖をつく。

 仕草は男らしく、変な話、なるほど逞しいと、そう感じた。

「しかしな海月。老婆心で忠告しとくが、あたしらみたいなはぐれ物の武器は銃じゃない方がいい」

 私が手に持っている、さっきここで拾ったリボルバーに視線を向けて、影は言う。

「弾が切れたらただの荷物だし、その音でゾンビどもが集まってくるかもしれない」

「影も持っているだろう。その猟銃」

「念のためだよ、メインの獲物は、ほれ」

 影は傍らに置いてある鞄にぶら下がった鉈を顎で指す。

 使い込まれてはいるけれど、よく手入れもされているようだった。

「私も、今は持っていないというだけで、普段は手斧を持っている」

「危機感が無さ過ぎやしないか? 肌身離さず持っておくべきだ」

「……ああ、そうだね。忠告に感謝するよ」

 不老不死の私と、超強い吸血鬼のヴァニア。

 ゾンビの大群に襲われようが、ヴァニアがいる以上、もう心配事もない。正味、死にやしないのだから、ゾンビに喰われようが構わないとも思っている。喰われるのが鬱陶しくなったら、ゾンビを押しのけてその場を離れるだけだ。

「しかしまあ、随分長いこと一人旅をしてきたが、こんなところでこんな美人と美少女に会えるとは思ってなかった。これは放浪してなきゃありえない運命だな」

 影はおもむろにポケットから煙草を取り出し、口にくわえる。

 しかし、マッチで火をつけようとしたところで、こちらを確認するような仕草の後、何か気付いたような様子で煙草を口から離した。

「吸っても構わないよ。私も喫煙者だ」

「いやいや、こんな小さな子の前で吸わないし、吸うなよ。煙草なんて害にしかならないんだから」

「ならば、なぜ影は煙草を吸っているんだ? 害になると思っているんだろう?」

「こんな世界じゃ早死にの方がいいだろ。長生きしてもゾンビどもに喰われるだけだ」

 へらへらと笑いながら、影は煙草をポケットにしまった。

「しっかし、ほんとに二人はこんなとこで何やってるんだ?」

「? さっき言っただろう。ここで二人暮らしを——」

「いやいや、それは分かったけどさ、今、夜だぞ? 月明かりしかないこんな状況じゃ、ゾンビが近づいてきても気づかないだろ」

「影には気づいた」

「それには驚いたけどよ……、にしたって、夜はどっかに立てこもった方がいいと思うぞ?」

「ならば、影はなぜここに?」

「爆発音がしたんだ。二人が出したんだろ? その銃で」

「……」

 爆発音。おそらくは、さっきヴァニアがやった、勢い余って建物にまで傷をつける攻撃によるものだろう。確かにあれはなかなかの轟音が鳴っていた。

「だとしたら、危険がって出てこない方がいいんじゃないのか?」

「誰かが襲われてるかもしれないと思ったんだよ。何やってたんだ?」

「……まあ、ちょっとした実験のようなことをしていたんだよ。手製の火薬類が機能するかどうかをね。ほら、そこらに転がっている瓦礫や、抉れたコンクリートはそれによるものだ」

「トランプは?」

「遊んでただけだ」

 我ながら上手い言い訳だ。

 家にあるのが邪魔で使っ——ヴァニア救出のためにばらまいたトランプは、いまだに道に広がっている。

 瓦礫に、トランプに、ゾンビどもの死体。そこそこ異質な光景だ。

「というか、影。一人旅が好きなら、爆発音くらい放っておいてもいいと思うが」

「ずっと一人でいるのは、それが最善だと分かっていてもちょっと堪えるんだ。実は少し前に近くの街に顔も出しててさ、時折人と話さないと鬱屈としてくるんだよ。だから、誰かと会えるかなって」

「………」

 一人。孤独。

 その苦しみ、危険を冒してでも誰かに会おうとするその矛盾。

 理解のできない話ではなかった。

「ま、なんにせよさ。ほら」

 影は護送車の下を顎で指す。そこには数体のゾンビが集まり、護送車の壁をバシバシと思い思いの様子で叩いていた。

 この辺りにいたやつはヴァニアが駆逐したとはいえ、建物に傷をつけた爆発音が近くにいたゾンビを引き寄せたのだろう。護送車はかなりの背丈があるから、ゾンビも昇ってはこれない。

 ただ私たちに向かって、うめき声を上げながら手を伸ばすだけだ。

「集まってくると厄介だろ、ゾンビも。その銃だけだと、ただ消耗するだけだぜ?」

「まあ、銃があるだけマシだよ。この程度なら数発も消費しない」

「がんあえーくぁげー」

 寝転がったまま、そっぽを向いて沈黙を保っていたヴァニアは、私たちの方を見ることもなく、雑に言う。

「……意外とふてぶてしいんだな、ヴァニアちゃんは」

「お前よりずっと長く生きてるからなー」

「はは、それが本当なんじゃないかとすら思えてきたよ」

 くぁと一つ、ヴァニアは欠伸をする。

 夜は活発なはずなのだけれど、退屈ゆえか眠そうだった。

「話は変わるんだけどさ、海月。この車——護送車、なんだか知らないか?」

 影はいぶかるような様子で、護送車の屋根を叩く。

 ヴァニアが捕まっていた物、なんて言ったところで、信じないだろうと思う。

「知らないよ。なにか運んでいたんだろう」

「だとしたら、ここに入ってたやつが逃げ出したんじゃないか? ほら、変異種とか」

「変異種? なんだそれは」

「お、おいおい……、冗談だよな?」

 苦笑いをする影。私は軽く首を傾げる。

 聞いたことのない単語だ。ひょっとしたら街にいた頃に誰かが言っていたのかもしれないが、憶えていない。自分の年齢も覚えていない私に、ゾンビの種類のことなんて無理だ。

 せいぜい、皆腐ってるくらいだ。

「怪異とか妖怪たちのなれの果て。それが変異種」

 答えたのは、影ではなくヴァニアだった。

「お、ヴァニアちゃんは変異種を知って——なれの果て? それはあたしも知らないけど……、なんだ、それ?」

「海月、前に人が減ったせいで、妖怪とか怪異も数を減らしたって話したよな?」

「ああ、覚えている」

 ゆらりと体を起こして、ヴァニアは影の疑問に答えるわけではなく、私に教えるように言う。

「それは単純に、人の認識が得られなくなったって意味でもあるけど、ゾンビになったっていう意味でもある。認識が薄くなって、怪異としての実在性が失われれば、力は弱くなる。認識が腐って、ゾンビになり腐ったってわけだ」

「よく分からんが……、怪異もゾンビになるんだな」

「そこそこ厄介だぞ。なまじっか怪異として産まれたばっかりに、ゾンビになっても怪異の性質をある程度残したままだ。すげー動きが早かったり、すげー力が強かったり。それが変異種。

「ヴァニアちゃんは、ほんと冗談が、上手だなあ」

「冗談? いや、あれを見てもそう言えるか?」

 ヴァニアの言葉を真剣に受け取る様子のない影。ヴァニアは顎を使って、私たちの後ろを指す。

 視線の先に、それはいた。

 見た目は、ヤツメに似ている。

 蛆の湧いた腐った身体は、道いっぱいに広がるほど巨大で、その重たい身体を引きずり、住居の壁に身体をぶつけ、けたたましい音を鳴らしながら、蛇のように道路を這ってきている。顔があるはずの部分には、目も鼻もなく、ただ一つの大きな口があるだけ。道中にある車や瓦礫の存在を気にすることなく、空洞のような口の中へと呑み込み、あるいは、その巨体で押しつぶし、押しのけていた。どこを向いているかも分からない姿ながら、しかしそいつは、私たちの方へと一心に向かってきていると分かった。

「お前が見てきたものはかろうじて人型だったのかもしれないけど、あれはもうゾンビとか言ってられないだろ」

 影のことを鼻で笑うようにして、ヴァニアは立ち上がる。

 不敵な笑みで、蛇のような、ヤツメのようなそれを見据えていた。

野槌のづち。ツチノコって行った方が有名な名前か? 久しく見たな。もうちょっと愛くるしい見た目だったんだけど」

 影は素早くも慌てた動作で立ち上がり、猟銃を構え、ためらうことなく発砲する。野槌のゾンビに当たりはするものの、猟銃の弾のサイズではダメージになっていない。速度を落とすことなく、野槌のゾンビは私たちの方に突っ込んでくる。

「海月、こっち」

 私の脇の間に手を入れ、後ろから抱き着くようにして、ヴァニアは大きく後ろに跳ねる。

 護送車の屋根の上には、影だけが残された。

「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああ」

 夜を裂く断末魔は、野槌の口腔内に影が入ることによって、失われた。

 護送車とともに食いつぶされた影。かろうじて、食べこぼしのように、影の左腕とバックパック、赤黒い液体が、野槌の口からこぼれてくるだけだった。

「助けた方が良かったか? あの人間」

「いや、この世界で一人暮らしを決めていたんだ。あれも、宿命だろう」

「ん、分かった」


 5


 野槌。

 その昔、博士と二人で過ごしていたころに、怪異や妖怪の存在は博士から聞かされている。その中で野槌の話も少しだけ聞いていた。

 見たままの姿だ。ヤツメのような見た目、蛇のような見た目。見たら死ぬとか、小動物を好んで食すとかそんな情報もあった気がするけれど、どうやら私は見ただけでは死ななかったらしい。人を食すかどうかまでは記憶に怪しいけれど、ゾンビ化してしまったのなら、人を食物と思っても仕方がないのだろう。

 ヴァニアがさっき言った通り、『ツチノコ』が有名な呼称かもしれない。

「さてと」

 ヴァニアは私を下ろす。

 影を食べ終えたのか、私たちの方へと向かってくる野槌へ向けて、ヴァニアは爪を大きく振りかぶる。野槌のゾンビは、振りかぶられた爪の導線上に合わせるように四分割されていた。断面からは、黒く固まったなにかが零れ落ちた。

 あっという間に、あまりにあっさりと、大きな砂埃を巻き上げながら、野槌はその場に倒れ込んだ。

 呆気にとられつつ、私は言う。

「変異種なんて聞いたことはなかったな。教えてくれても良かったんじゃないか?」

「教えるきっかけもないだろ。海月は知ってるもんだと思ってたし」

「む、そうか」

 変異種という言葉に記憶はない。

 博士から怪異の話は聞いていれど、博士は世界がこんなになる前に亡くなったのだ。怪異がゾンビ化するなんて話は、当たり前ながら耳にしていない。

 そんな私の様子から察してか、ヴァニアは口を開く。

「さっきも話したけど、ゾンビ世界に変わって人の認識が弱まった。怪異は人の認識で存在性を保てるから、比例して怪異の存在性も弱まった。その頃にゾンビが混ざった。ゾンビ化することで、怪異として消滅しきらなかったんだ。それが変異種だよ」

 自身の説明に満足がいったのか、ヴァニアは薄い胸を張って、誇らしげに鼻を鳴らしていた。

 ヴァニアのその仕草が可愛いのはともかくとして、しかし思い出してみれば、街にいた頃、やけに足の速いやつとか、いやに力の強いやつに会ったような気もする。そいつらとの戦闘のせいで、街にいた一人に私が不老不死だということが割れてしまったのだった。

 きっとあいつらも変異種だったのだろう。

「多いのか? 変異種というのは」

 ヴァニアに四分割された野槌の口元に、私は立つ。

 少しの歯が残っている巨大な口には、蛆がたかっていた。

「さあな。世の中にどんだけの怪異がいるかは知らんし、有名じゃないやつはゾンビと混ざる前に消え切っただろうし。この先出会うかもってだけだ。さっきの野槌——ツチノコはかろうじてそこそこ有名だったからな。ぎりぎりゾンビ化出来たんだろ」

「ヴァニアがゾンビ化する可能性はないのか?」

「前に話しただろ、海月。私たち吸血鬼は、超有名な怪異。噛まれたところでゾンビに引っ張られるようなマイナー怪異じゃないんだよ」

 なんだか不満そうなヴァニア。対して、私は一人安堵する。

 ヴァニアは、こんな世界になってようやく出会えた時間(・・)を共に出来る存在だ。ヴァニアの強さは分かったとはいえ、万が一ということもある。ゾンビごときに、ヴァニアを奪われたくはない。

「あ、そうだ。じゃあ、海月はさ、怪異がゾンビ化した以外の変異種も知らないか?」

 ヴァニアは思いだしたように言う。

「怪異の変異種も知らなかったんだから、知らないよ。いい機会だから教えてくれ」

「こっちは厄介だぞ。随分ご飯を食べてなくて弱ってたってのもあるけど、私はこのタイプの変異種と戦った消耗が原因で、人間ごときに捕まってたんだ」

 楽しそうではあるものの、少しばかり重たい口調で言うヴァニア。

 なんとなく身構えてみる。

「厄介な変異種、それは『神』がゾンビ化したものだ」

「『神』……?」

 怪異よりは馴染みのある存在ながら、怪異よりも漠然とした存在が出てきたなと、私は少し危機感の欠けた、そして、少し的を外しているだろうことを想う。

「怪異同様、『神』も人の認識が主な存在性の証明だ。だから、人が減って、祈りを集められなくなった『神』は、ゾンビになってしまった」

 ヴァニアは語る。

 『神』という存在には、簡単に言えば、「お帰り願う儀式」というものがいるらしい。

 放棄された神社にも、つたに覆われたボロボロの社にも、人に忘れ去られた祠にだって、『神』は存在している。そうした『神』に、「お帰り願う儀式」を行わないことには、よくないものに転化する恐れがあるらしいのだ。

 それは本来、ゾンビではないものだったようだけれど、世の中にはそういう、守るべき人を失った『神』や、祈りを捧げてくれる人を失った『神』が無残に残っていて、そうして力を弱めた『神』がゾンビウイルスに当てられるのというのは、しかし、多少なり理解に苦しむ話ではあった。

 上手い説明に期待しないでほしいのだが、怪異とゾンビは結び付けられど、『神』とゾンビの結びつきは難しい。

 そんな私の様子を見てか、ヴァニアは口を開く。

「怪異は別に、いて欲しいと思われたわけじゃない。でも『神』は、存在をものだから、人の影響をより強く受けるんだ。怪異の始まりは。『神』の始まりは、って感じ。どっちも起源は人だけど。じゃあ人がいなくなったときに、どっちが悲惨な結末を迎えるかって考えたら、なんとなく頷けるだろ?」

「そこは頷けど、『神』がゾンビ化するというのはいささか理解に苦しむ」

「人間が願って生まれたのが『神』。じゃあ、その人間がゾンビ化したら? 比例式の法則みたいな」

「それだと、怪異にも適用されそうな気がするんだが」

「そこが、の違い。なんとなく分かるだろ?」

「……つまり、『神』の方が危険というわけだ」

「あー……うん、それでいいや」

 ヴァニアは、がくりと肩を落としていた。

 魔女の中でも知能の高さに他の追随を許さなかった博士。そんな博士によって作られたとはいえ、博士と一緒にお勉強会をしたことがあるわけでもない私。怪異の話は受けていたけれど、博士と過ごした時間の中での私の役割なんて、研究資料や実験材料、実験道具の片付けもしなければ、脱いだ服をそのまま放置したり、研究に没頭すると食事も睡眠もおろそかになる博士の身の回りの世話が主だった。

 味覚と嗅覚が機能していないから料理だけはからっきしとはいえ(とはいえ、私が作ると博士は美味しそうに食べてくれた。コーヒーは特に美味しそうに飲んでくれた)、おかげで家事全般は今でも得意分野だ。

 記憶を失っても、身体に染みついたものはなくならないのだと、長生きしていれば、不老不死でなくとも分かるようになる。

「まあ、怪異とか『神』とか、普通に生きてれば関わらないよな……、海月も博士さんに聞いた程度なんだろうし。会えば分かるか」

「会えば? 会う予定があるのか?」

「……海月はちょいちょい馬鹿っぽいよな」

「む」

 悪口を言われてしまった。

 多少なり心当たりがあるとはいえ、こうもストレートに言われるとは。

 とてもショックだ。

「何をしても死なない人間を殺すのなら、もう人間的方法以外を試すほかないだろ」

「……ああ、なるほど」

 怪異だの、『神』だの、変異種だので忘れていたけれど、野槌が襲ってくる前まで、私とヴァニアは、不老不死の私が死ぬ方法を探すための旅に出るという話をしていたのだった。

 忘れていた。それは私にとって、なにより優先すべき事柄だったはずだというのに。

 名残惜しいのか、私は。

「旅には、いつから出ようか」

「私ら時間の感覚緩いしなあ……、ぼーっとしてたらズルズルここで暮らしてそうだ」

「私はそれでもかまいやしないよ。逼迫して死にたいわけじゃない。それに、仮に死ぬ方法がすぐ見つかったとしたら、せっかく会えたヴァニアと過ごす時間が少なくなってしまうしね」

「ん……」

 ヴァニアはどうしてか、照れたように私から視線と顔を背けていた。

「……海月は、結構恥ずかしいこと、すぐ言うよな」

「? なにって?」

「なんでもないよーだ」

 どうやら気分を害してしまったらしい。

 最近こそヴァニアと話していたとはいえ、少し前まで独り言でしか口を使ってこなかったのだ。むべなるかな、である。

「まあ、今日は帰ろうか。不老不死と言えど、やはり知らないことは多いのだと、久しい疲れを覚えた一日だったよ」

 欠伸の真似事を一つ、私はしたのだった。

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