ぬくぬく


『ぬくぬく』



 曇った空はその淀みをより強いものへと変化させたものの、辺りが暗くなり、私の家の明かり(蝋燭をともしただけ)以外がこの街から消えても、結局雨を落とすことはなかった。発電機があるから電気をつけることも出来る。それでも明かりを蝋燭で賄っているのは、アンニュイな雰囲気があって、こっちの方が好きだからだ。

 それに彼女には、だろう。

 私は窓を開け放って、紫煙を燻らせていた。

 煙草は数少ない私の娯楽の一つ。

 街から避難するにあたって、わざわざ煙草を持っていく人なんてそういないから、コンビニにでも行けば煙草はたくさん残っている。しけっているものも少なくはないが、すべてが使えないというわけでもない。今回のこれは当たりだったらしい。

 燻らせた煙と、鼻を衝く少しだけ刺激のある香り。それは私の脳の片隅に、そういう風だと教えられた記憶があるだけで、全くもって香ることはなく、その苦みも、鼻先を突く刺激とやらも、何もない。

 きっと、こんな風だろうなんて、豊かな想像力で補うだけだ。

 もう片方の手にはインスタントコーヒー。

 インスタントコーヒーにも賞味期限なり消費期限があると聞くけれど、私にそんなものは関係が無い。これだって苦みがあって、酸味があって、正直な話、初めて飲んだ時はこれの何が美味しいのか分かりもしなかったけれど、煙草と同様、それは教えてもらっただけで、私自身がそう感じたことなんてない。

 それでも私は想像力を必死に働かせながら煙草をくわえ、コーヒーを口にする。

 娯楽だ。

 幸福だった日々を思い出す、数少ない、ささやかな、娯楽。

 カチャリと、私の後ろで扉の開く音がした。

 銀髪、真っ赤な瞳。装甲車の中に捕まっていた少女が、そこに立っていた。

 私が長身だというのもあるけれど、彼女は私より頭三つ分ほど背が低く、低身長に見合った幼い容姿ながら、造化の妙と言えるほどの美しさだった。

「おはよう」

 少女は応えることなく、鋭く睨みつけるような、射殺さんとするほどの視線を真っ赤な瞳に纏わせている。

 しかし、護送車の荷台で見たときのそれよりは柔らかなもので、なぜかといえば、少女の瞳の奥にある少しの戸惑いからだった。

「体調はどうかな? 急に気を失うものだから、私の家まで連れてきてしま——」

「私は——」

 私の言葉を遮って、少女は口を開く。

 まどろっこい口調ながら、やはりそこには、容姿からは想像もできないほど、むき出しの強い敵意が受け取れた。

「私は、お前の腹を貫いたはずだ。それなのに、どうしてお前は生きているんだ?」

「似た質問を私もしよう。キミは足に杭を打ち込まれていた。それでも生きていたし、傷跡は多少残っていれど、もうその傷もふさがっている。どうしてかな?」

 私は肩をすくめ、少女は目を細める。

「それじゃあ、お互いに自己紹介をしようか」

 煙草を握り込むようにねじ消して、私は言う。

昼神ひるがみ海月くらげ、不老不死」

「……ヴァニア、吸血鬼」


 2


 不老不死とは何か。

 ゾンビと同じく、説明の必要はないだろう。

 読んで字のごとくだ。

 老いず、死なず。それだけ。

「コーヒー、飲めるんだね」

「飲めるだけだ、味はしない」

「奇遇だ、私もしない」

 私の淹れたインスタントコーヒーに口をつけるヴァニアに、私は言う。

 ダイニングテーブル。その上で煌煌と揺れる蝋燭を挟んで、私はヴァニアと向き合っている。

 ヴァニアの銀髪に反射する橙色の輝きと、真っ赤な瞳をより強いものにする炎の揺らめき。やはり吸血鬼には、蝋燭がよく似合う。

 両手でマグカップを包んで飲むヴァニアに対し、私は椅子に深々と腰掛け、片手でコーヒーをすする。ヴァニアはこのコーヒーに味を感じないと言ったけれど、それは私にしても同じことだ。

 味は、昔からしない。

「お互い、聞きたいことが多そうだね。交互にしていこうか」

「じゃあ、私からいいか?」

「ああ、構わないよ。なにが聞きたい?」

「海月は、こんなところで何をやってるんだ?」

 てっきり不老不死のことについて聞かれると思っていたから、肩透かしをくらったような気分になった。

 随分緩和したものの、未だに敵意を含ませた視線を向けてくるヴァニアに、私は答える。

「ただの一人暮らしだよ。人の多いところは好きじゃなくてね」

「危険じゃないのか?」

「ゾンビに襲われる危険。人に襲われる危険。死の危険。私には縁遠いかな」

 ゾンビに噛まれようが喰い荒らされようが、私はゾンビにはならない。

 それだけではなく、この十二階の部屋から飛び降りようが、大量の殺虫剤を飲み込もうが、機銃にハチの巣にされようが、腹を貫かれようが、爆発で吹っ飛ぼうが、死なない。思いつく限りの多くを試しても、死ねやしないだろう。

 ならば何をすれば死ぬのか。

 それが分からないから、不老不死なのだ。

「一人暮らしを始めて長いのか?」

「どうだったかな。少なくともここに腰を落ち着けたのは……、正直分からない。時間の感覚には疎いんだ。自分の年齢も不詳だよ。ヴァニアはいくつなんだ?」

「私は三百か四百を超えたくらいだけど……、だったら、ここに来るまで、海月はなにしてたんだ?」

「一時期は街にいたかな。ゾンビ討伐の専門部隊にいた」

 街にいた頃の話。

 早死にするのはいつだって、死を恐れているやつだった。私は死を恐れないけれど、それよりも前に、そもそも死ぬことが無いから、掃討においては相当の成績を残していた。

 街にいた一人にはバレてしまったけれど、もし誰かに、私が不老不死であることがバレ、変に実験でもされようものなら不快以外の何物でもないから、私はこうして退屈と孤独を味わいながらも一人暮らしをしていた——はず。正確な理由はおぼろげだから、多分、そんなところが理由だと思う。

 私が不老不死だとヴァニアにあっさりと明かした理由なんてものは、わざわざ言うまでもないだろう。

「じゃあ次は私からだ。ヴァニア、腹は膨れているのか?」

「………?」

 ヴァニアは私の言っていることが理解できなかったのか、しばらく考えるような様子こそみせたものの、結局首を傾けていた。

 ヴァニアの少女のような容姿、造化の妙と言いきれるそれも相まって、とても可愛らしい仕草だった。

「吸血鬼の主食は血液、人肉だろう。さっきヴァニアが気絶している時に私の血液を含ませておいたが、足りているのか? というかそもそも、私は食料になりえるのか?」

「食べ物にはなってるけど……、それ、最初にする質問か?」

 いぶかるような視線が私に向いている。

 ヴァニアはヴァニアで最初の質問が不思議だったしお互い様だ。

「海月を食べてもいいってことか?」

 ヴァニアは一つ息をついた。

「毒、失血、焼死、圧死、溺死、窒息死……、あとはどうだったかな。病気にはなったことが無いから病死は不明だが……、食殺ならあるいは、私は死ねるかもしれない」

「海月は死にたいのか?」

「ずっと探しているんだ、その方法を」

 言って、私はヴァニアに腕を差し出す。

「いいのか?」

 意外にも、差し出した腕を見て、ヴァニアは上目遣いに許可を求めてきた。

「別に構いやしないが、なぜ訊く?」

「食料にされるって気分良くないんじゃねえかなって」

「今まで人間を喰ってきたんじゃあないのか?」

「そりゃあそうだけど、今までは殺してから喰ってたし。海月は喰っても死なないだろ? 私、踊り食いとかあんまり好きじゃないんだよ」

「そんな理由か」

「私の腕はどんな味かとか、聞かれても困る。味の感想を言うのは得意じゃない——ていうか、そもそもやったこともないんだ。やりたくもないし」

「気になりはするが、そう言うなら聞かないでおくよ。この先も、必要になれば喰っていいよ。むしろこの身体に有用な活用方法が出来て喜んでいるから」

 自分の腕を目の前で喰われたら、誰だってどんな味なのかが気になるとは思うが、それは不老不死ゆえの余裕だろうか。

 ヴァニアは私の腕を小さな両手で握ると、肘の手前辺りで引きちぎった。

 血の滴る方から、かぶりつく。机の上に広がった私の血液は、それを照らすのが蝋燭の明かりだからか、あまり色味を感じなかった。

「………」

 私の腕を口いっぱいに頬張るヴァニア。リスやハムスターのようだ。

 そんなヴァニアを私はじっと見つめる。

「……なんだよ。味の感想は聞かない約束だろ」

「その細い腕で、よく私の腕を引きちぎることなんて出来るなと、そう思ったんだよ」

 頬を私の腕で膨らせて、照れくさそうな様子を見せるヴァニアに、私は言う。

 ヴァニアはいとも簡単に、それも、私よりもずっと細い腕で私の腕を引きちぎってみせた。吸血鬼のことはよく知らないが、すごく力が強い、という乱雑な情報くらいなら持っているとはいえ、それなりの驚きだった。

「海月は、どの段階で私が吸血鬼だって気づいたんだ?」

 質問を投げながら、ヴァニアは私の腕を小さな口でかじる。口の周りにあまり血液が付着していないところを見ると、人を食うのには慣れきっているらしかった。

 私の腕は問題なく(問題があった方が私にとっては嬉しかったが)再生を終えていて、食殺には期待できなさそうだった。

「そんな細い腕で私の身体を貫いた上に、私の血液を含ませたらその足が治った。吸血鬼だと分かったわけじゃあないが、そうじゃないかなと予想がついた。確証はヴァニアが教えてくれた時だよ」

「自分と同じ不老不死だと思わなかったのか?」

「私のような存在は私以外にいないと思うよ。それに、ヴァニアは弱っていただろう。私はどれほどの鎖を打ち込まれようが、この口がふさがれない限り、だらだら喋るからね」

「恐くないのか? 吸血鬼が」

「私は不老不死だよ? 死ぬことを恐れたりしない——というより、死を恐れる方法が分からない」

 なにをしても死ぬことはなかった。それくらいには、死を与えられ続けた。だから死への恐怖感が無いなんてそんな理由ではなく、私はそもそも産まれた時点で、自分の命をなんとも思わないような存在だった。

 それでも私が、あらゆる物事において、出来るだけ自分の身体を傷つけないような方法を選択しているのは、そうするべきだと教えてくれた人がいるからだ。

「ヴァニアは、どうしてこの国に来たんだ?」

「食料のためだよ」

 私の腕。

 ヴァニアは最後に、小指の一欠けを喉の奥に押し込んだ。

 律儀なのか、私に向けて「ごちそうさま」と軽い一礼までしてくれた。

「食料?」

「訊き返す必要ないだろ。見て見ろこの世界を。吸血鬼の食料は人間であって、ゾンビじゃない。あんなの食べたらお腹壊す。私が暮らしてたのは西洋の方だけどさ、あっちの方なんか、もうほとんど人は残ってないんだ」

「それでも人は生きていたんだろう? わざわざこんな方まで来る必要があるのか?」

「あー……、海月は、吸血鬼——怪異ってどういう存在か分かるか?」

「あまり詳しくないが、少しだけなら」

 怪異は人の認識の上で存在することができ、その存在にはある程度の条件がある。

 例えばヴァニアのような吸血鬼ならば、人を喰わなければ生きて行けなかったり、太陽に弱かったり。そういうルールから逸れたら、その怪異は存在できなくなるとか。

 そういう知識を保有しているのは、退屈しのぎの読書も理由ではあるけれど、それ以前に、訊いてもいないのに教えてくる人がいたおかげだ。怪異が実在することを疑わないのも、ヴァニアが吸血鬼であるとすぐに分かったのも、その人から貰った知識が大きい。

「つまりはさ、私たちってのは人に認識されるか、怪異らしい行動を起こさないと生きていけないんだ。それがこんな世界になったものだから、私たち吸血鬼に限らず、怪異は数をかなり減らしたんだよ」

「それはここに来る理由になるのか?」

「人の認識を、吸血鬼という大枠ではなく、にしたんだ」

 認識を絞ることにした、ということだろうか。

 吸血鬼という大枠に対しての意識ではなく、一体の吸血鬼に畏怖の対象を絞ることで、人の認識を集中させ、その力を取り戻す。

 ヴァニアの言葉で、私はなんとなしに理解する。

「それで、私はこっちの方にした、みたいな感じ。それまではしばらく飯も喰えなかった」

「それなら、ここにいてもいいのか? 認識を集めに街へ行かなくてもいいのか?」

「海月という存在を食したこと。人の認識と同様、人間を喰ったということが私の吸血鬼性を保つ結果につながってる。もちろん街に行けばもっと吸血鬼性をあげられるんだろうが、別にフルマックスを取り戻したいわけでもないしな」

 ヴァニアはどうしてか自慢げだった。

「この後の話は、風呂に入りながらでもしようか」

 どんよりとした雲は晴れ、明るく丸い月が、窓の外には浮かんでいる。

 敵意を失ったヴァニアの瞳に、浮かぶ月と近しいものを感じながら、私は立ち上がった。


 3


 私が住居として使っている十二階建てのマンション。そこから降りて、二つ隣。

 高層ビルが見えるくらいには都会に近いこの場において、珍しく湯屋がある。

 大浴場もあるけれど、もちろんガスが通っていないから、それらの設備は利用できない。しかし、この湯屋のいいところは、薪で湯を沸かせる五右衛門風呂が設置されていることだ。

 薪も炭も、近くのホームセンターに腐るほど置いてあるし、崩壊した住宅が薪の代わりになる。町には大きな川が一本通っているから、水の入れ替えも出来るし、ここに腰を落ち着けて以来、風呂の利用には困っていない。

 脱衣所に入る。

 傷だらけになろうが跡形もなく再生する私の身体。しかしそれは傷の話であって、飛び散った肉片も、溢れた血液もその場に残り続ける。それは身体にまとわりついてべたつくし、勝手に無くなってはくれないから、自分の力で落とすほかない。その最もわかりやすく、簡単な方法が風呂だ。

 ヴァニアに腹を貫かれたり、腕をちぎられたりしたということもあって、私は身体中に血液を付着させていたし、ヴァニアは捕まっていたから白銀の髪が濁っていたし、うまく食べていたとはいえ、口の周りが多少私の血で汚れていた。

 そんなわけでお風呂。

 不老の、風呂。

「海月は冗談のセンスがないんだな」

「風呂に入る不老の浮浪人」

「さっきよりは悪くない」

 自前のジッポライターで手早く五右衛門風呂に火をいれる。

「海月、袖口燃えてないか?」

「気のせいだ」

「んなわけあるか」

 確実な火おこしのために、奥の方まで腕を突っ込んだことが災いしたらしい。確かに袖口が燃えてしまったけれど、私は暑さを感じないし、この服はヴァニアに風穴を開けられたことによって、腹の部分があられもないことになっていたのだ。

 きゃー、だ。

 火を入れた私は、服を脱ぐ。

「………」

 私の脱衣を、ヴァニアは何も言わず、しかし、じっと見ていた。

「どうした? 一緒に入るのは嫌なタイプか?」

 視線に気づいた私が問いかけると、ヴァニアは目を泳がせた。

「いや、構わないけど……、結構容赦なく脱ぐんだなと思って」

「三百か四百を超えた吸血鬼と、人間もどきの不老不死の相風呂を気にしているのか?」

「しないよ」

 ヴァニアはしかし、少し頬を赤らめながら、ぼろきれのような衣服を脱ぐ。

 湯船に浸かる前に、ある程度の血液を、湯にぬらしたタオルでふき取る。

「頭を洗ってやろうか? シャンプーなら手製のものがある」

「ん、ありがとう」

 椅子に座るよう促すと、ヴァニアはそこに腰掛けた。

 製品としてのシャンプーはほとんど腐ってしまっているから、手製のシャンプーを作る必要があり、その制作方法、指南書は本屋にいくらでも置いてある。

 手のひらにシャンプーを広げて、ヴァニアの頭をもみ込むようにする。

 私の両手で包み込めてしまいそうなくらいに、小さな頭だった。

「美しい髪だな」

 泡を立て、洗い流す。

 それを繰り返し、少しずつ汚れが落ちてくると、月の色のような白銀の髪は、より一層の輝きを見せるようになった。

「海月も綺麗な黒髪をしてるよ。汚れの様子がさっきの血液くらいしか見えない」

「私は代謝をしなくてね。夏にどれだけ激しい運動をしようが、汗の一つもかかないんだ」

「風呂に入るのは、外的に汚れたときだけってことか」

「そうだね。今日みたいに砂埃の中に入ったり、腹を貫かれたときくらいかな」

「ふうん、そっか」

 実はちょっとだけ皮肉を込めた一言だったのだけれど、ヴァニアは特に気にした様子も見せてくれなかった。

「ヴァニアは、私に背を預けて平気なのか?」

「? どういう意味だ?」

「襲われることを警戒しないのか、という意味だ」

 最初こそ警戒されていたけれど、今のヴァニアは全く警戒の様子を見せていない。

 会ったばかりの私に背を向けて、裸体の上に、頭をもみ込まれている。数時間前まで、ヴァニアは身体中に鎖を巻かれ、足には杭を打ち込まれて拘束されていたはずで、私に敵意を向けていたはずだ。

「心配ない。海月が何をしたところで私は死なないからな。それに、食事を提供してくれたんだ。もう心くらいは許してる」

「腕を喰わせただけだろう?」

「この先も喰わせてくれるって約束してくれただろ?」

「確かに、そこに嘘はないが、それだけだろう」

「吸血鬼はそういうもんなんだよ。それで理解しとけ。それに、この瞬間海月が悪いやつになったとしても、今の私は海月を一瞬で細切れに出来るから」

 昔訊いた吸血鬼の話。

 吸血鬼は、自分の所有物に酷く執着する性質があるらしい。

 おそらくはそれだろうと思うが、私はどうやら食料として執着されたようだ。食べたいと言われたら、いくらでも食べさせてやる予定だから別に構いやしない。さっきも思ったことだが、不老不死の私の身体に有用な活用方法が出来て、そこそこ喜んでいたりもする。

 五右衛門風呂から湯をすくって、ヴァニアの頭についた泡を流す。

「今度は私が洗ってやるよ」

 髪についた泡が流れ落ちたところで、ヴァニアは言う。

 断る理由もないので、私はさっきまでヴァニアが座っていた椅子に座る。

 その瞬間だった。

「——っ!」

 ヴァニアの腕が、後ろから私の心臓を貫いていた。

「な、にを、している、んだ……?」

 口から血を吐き出し、混じった血のせいで少しだけ言葉に詰まりながら、私は言う。

 ヴァニアは手を引き抜く。私の胸に空いた穴も、そう時間の経たないうちにふさがった。

「ほんとに、死なないんだな」

 腕についた私の血液をなめとりながら、ヴァニアは言う。

「確認はいくらでもしてもらって構わないが、出来れば一言欲しい。私も驚くんだ」

「驚いてる風には見えなかったけどな」

「驚いているさ。心臓が早鐘を打っていただろう」

「その心臓を貫いたんだよ、私は」

「む」

 呆れのようなため息のあとで、ヴァニアは私の髪を洗い始める。

「海月は心臓を貫かれて、何も思わないのか?」

「何も思わないってことはないよ。貫かれたなあ、とは思ってる」

「それは何も思っていないのと同じじゃないのか?」

「それなら、なぜ私の心臓を貫いたんだ」

「ちょっと出来心で」

 ヴァニアは照れた様子で愛らしく笑う。

 出来心で人の心臓を貫くんじゃないと思ったものの、思っただけだった。

 貫かれようが跡形もなく治るわけだし、べつに細切れにされようが構わない。

 わあって、なるくらいだ。

 シャンプーもそこそこに、ヴァニアは私の頭に湯をかけた。

 泡が落ちた頃、私たちは一緒に湯船に浸かった。お互いに再生能力を有しているから、血液や肉片を落とせば、私もヴァニアも綺麗な身体だった。ヴァニアの足についていた傷も、私の腕を摂取したからだろう、跡形もなく消えていた。

「この世界のゾンビの数は、この星にも劣るんだよな」

 もとは屋根があったはずの湯屋。その屋根も朽ち果て、空を見上げると月と星空が見える。

 私と同じように星を見上げて、ヴァニアはぽつりと言う。

「感傷的な気分にでもなったか?」

「私達吸血鬼は、ゾンビよりもずっと数が少ない。それがもっと減ったんだ。吸血鬼同士仲良しだったわけじゃないけど、なんだか思うところがある」

 星の数は二千億だったか。

 あるいは、その観測が更新されない間に減ったり増えたりしているかもしれないが、ゾンビはそれよりずっと少なく、吸血鬼はそれよりも少なく、そして不老不死は、この世界に私だけだろう。

 それは意識してみると、気づきたくない事実であったような気がした。

「ヴァニアのほかに、こっちに来ている吸血鬼はいないのか?」

「さあな。終わらない殺し合いの末の妥協で、それぞれの行く場所を決めただけだから、破ってるやつもいるかもな。それに、話し合った吸血鬼だけがこの世にいるすべてじゃないし、どこかに生き残っているのがいるかもしれない。その中にはこっちに来ているやつがいるかもな。海月は、海月ほどの不老不死に会ったことはないのか?」

「隠している、ということが無ければ、誰にも会ったことはないし、さっきも言ったが、私以外に不老不死なんて存在しないと思うよ。ただ、失敗作には何度も会っている」

「失敗作?」

「ゾンビさ。あいつらは頭部が破壊されなければ不老不死のようなものだろう。私は頭部を破壊されても死なないし、身体が欠損しても再生しないゾンビと違って、きちんと再生すからね」

 ヴァニアは首を傾げたあどけない表情を私に向ける。

 しかしその真っ赤な瞳だけは、長く生きてきたことを暗に伝えてくる、そういう瞳をしている。

「海月は、このゾンビ騒動の真相を知ってるのか?」

「なぜそう思う?」

「誰でも思うよ。海月はゾンビのことをって言ったんだから」

 長く生きているだけはある。さすがの洞察力だと、そう思った。

 しかし、今のは私の問題だろうか。あまりに他者と話をしなさ過ぎて、なんの気なしに情報を垂れ流すようになってしまったのかもしれない。

 とはいえ、隠す理由もないので、私は口を開き、情報を垂れ流す。

「あいつらは量産品、そのうえで失敗作なんだ。不老不死の研究を行っていた場所があってね。私の産まれは別のところなんだが……、とりあえずのところ、私の産まれは——」

 この世にゾンビがいるように、そして、この世に怪異と呼ばれる存在がいるように、この世には魔女という存在がいた。

 私の生みの親であり、たくさんのことを教えてくれた博士もそれで、世の理がどうだとか、精霊の力がどうだとか言われた覚えがあるけれど、不老不死を作るというのは、想像を絶するほどには難しいことらしい。

 それを博士は、世界で唯一、成功させた。

 その成功例が私だ。

「博士は今どうしてるんだ?」

「殺されたよ」

「殺された?」

「不老不死を作った。しかし、その作成方法を誰にも教えなかったから、かな」

「なんで教えなかったんだ?」

「私が不老不死の成功例であったとしても、生物として失敗していたからだ」

「……よくわかんない」

「そうだな……、私はある程度の五感が機能してはいるが、痛覚が機能していないし、眠ることもない。死への恐怖感もない。私は本当に、ただ不老不死なだけなんだよ」

 博士はついぞ、それを後悔し続けていた。「不老不死なんてものを、なんとしてでも作るべきではなかった。海月だって、立派に感情を持つ生物なんだ。私は間違えてしまったんだよ」と、そう言いながら、悲しそうに、申し訳なさそうに。

 唯一の成功例であり、これ以上ない失敗作を作ってしまったことを、博士は後悔し続けていた。

「博士は魔女の中でも優秀な人だったらしくてね。娘を人質に取られ、不老不死の作成を余儀なくされていた。それが本当に出来てしまった上に、出来たのは不老不死性を持ち、人間性を持たなかった私だ。懊悩としてたよ、ずっとね」

「じゃあ、ゾンビが出来たのは?」

「博士が殺されたあと、博士の家から連れ去られて、施設に幽閉されてね。さまざまな魔女や研究者が私のことを調べて、私をベースに、不老不死の生物を量産しようとした。しかし、それは一つとして成功しなかった。半端な存在しか、出来なかった」

「それが……、ゾンビ、か?」

 私は軽く頷いてみせた。

「じゃあ、なんで今こんなことになってるんだ? 世界にゾンビが溢れてるぞ?」

「ああ、私のせいだよ」

「海月の? なにしたんだ?」

「単純さ。逃がしたんだよ。私の失敗作を」

 私は肩をすくめる。

「腹が立ったんだ。好き勝手に実験をされるものだから。研究には協力的に振る舞っていたからさ、研究員たちを騙すのも、情報を取るのも難しいことじゃなかった。感染するとは、こんな世界になってから初めて知ったんだけどね。もとは研究所のやつらさえ殺せればよかったんだ」

 つまりは。

 この世界に蔓延るゾンビは私をベースに作られたもので。

 この世界にゾンビが蔓延ることになったのは、私が原因というわけだ。

 別にそれを反省も後悔もしたことはないし、人間に対して多少なり申し訳ないと思う気持ちがないでもないのだけれど、人口問題やら環境問題やら食糧問題が解決したのだ。これはこれで別に良かったんじゃないだろうかとすら思ったりしている。

 ポジティブ思考だ。

「傷を負っても治るとはいえ、博士にも、自分の身を乱雑に扱わないよう言われていたんだ。それをあいつらはことごとく破ってくるものだから、腹が立ってね。それで私はゾンビたちを使って——」

「いや、普通に博士さんが大切だったんだろ」

 なにを言っているんだとでも言いたげな、愛らしくきょとんとした顔をヴァニアは私に向けていた。

「しかし私は、研究所のやつらがゾンビに喰われるのを見ても、何も感じなかった。別に他人がどうなろうが——」

「いや、だから、んだろって。海月にとって博士さんはじゃなかったんだろ? 大事な人が殺されれば、誰だって怒るし、どれだけ他人が巻き込まれようが、どうでもよくなっちゃうもんだろ」

「実験に腹が立っただけだよ、私は」

「博士さんの言いつけを破ってくる実験に、だろ?」

「………」

 返す言葉を用意することは出来なかった。それは、ヴァニアの言葉の何よりの肯定なのだと思う。

 不老不死として長い時間を過ごしておきながら、私はその程度のことにすら気が付くことが出来なかったらしい。博士と過ごした時間が遠くおぼろげになっていることと同じように、ゾンビを逃がしたあの頃の激情が、薄れてしまっているのだろうか。

 それでも、私はヴァニアの言葉で思い出せた。


 ——私はこれ以上なく、博士のことが大切だったのだ。


 こんな単純なことすら、不老不死は鈍感にさせてくるのか。

「ヴァニアは私を恨んだりしないのか?」

「恨む? なんで?」

 眠そうに欠伸をしたヴァニア。首をかしげ、くりくりとした真っ赤な瞳を私に向ける。豊かな表情変化とあどけない仕草に、どこか愛おしさすら覚えそうになる。

 私は軽い解説をする。

「こんな世界を作った元凶は私だ。吸血鬼が数を減らし、もとのヴァニアがどれほどだったか知らないが、弱体化したんだろう。そのことで、私を恨んだりしないのか?」

「だから、それがなんでかって言ってるんだけど……」

 ヴァニアは首をひねる。

「不老不死として産まれて、生みの親、博士さんも殺されたんだろ? そのうえでいろいろ実験されて、海月だって被害者じゃんか」

 ヴァニアはさらに首を傾げていた。

「それに、吸血鬼同士にそこまでの仲間意識もないんだ。どこでどの吸血鬼が死のうが、別にどうでもいいよ」

 本当に平気そうに、ヴァニアはそう言ってのける。

 この世界がこんな風になってしまったことを気負っていたわけじゃない。

 けれどヴァニアは、久しく会えた私の話し相手であり、初めて会えた私と類似する存在。吸血鬼には死ぬ方法があると聞いたこともあるけれど、それでも、私の孤独を終わらせてくれる相手だ。そんな相手に対して私は初めてこの世界への罪悪感を覚えた。

 それでもヴァニアは、気にするなと、どうでもいいと、そう言ってくれた。

「ヴァニアは、この先もここにいてくれるのか?」

「そりゃあ、海月は私の食べ物だし」

「……そっか」

 私は、頭上の月に視線を送る。

 変わらない。終わらない。

 それは私だけの性質で、どれだけの時間を過ごしても、私は置いて行かれるだけの立場なのだろうと思っていた。

 私はやっと、私と同じ時間を共有できるかもしれない相手と出会えた。

 自分の感情に鈍感な私にとって、これは確かに、幸福なことだった。

「月が綺麗だな」

 知ってか知らずか、ヴァニアは月を眺めて、感傷的に言う。

 白銀の髪に、真っ赤な瞳。月明かりに照らされた幼げなその横顔は、月よりも美しいとそう思えるもので。

 その横顔に促されるように、私も月へと視線を送ったのだった。

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