第15話
「八年前に何があったの?」
「わからないの、何も」
吉子は精彩を欠く動作で首を振った。
「夜中にお父さんとお兄ちゃんが大声でけんかしてたかと思うと、お兄ちゃんが飛び出していって、そのまま戻らなかった。わたしが知ってるのはそれだけ。
今までどこにいて、何をしてたかも全然わからない」
「じゃあ、賀川さんのことは?」
伊沙那は膝に手を置き、背筋を伸ばして問いかけた。
吉子は再びかぶりを振り、早口で言う。
「ほんとうに覚えがないの。別れるときも普通だったし、それから一度も会ってないし。賀川さんがお兄ちゃんに、わたしを連れてきてくれるよう頼むなんて信じられない。
お兄ちゃんはいやがらせじゃないって言うけど、わたしには何がしたいのか、さっぱりわからない」
口ぶりにも目にも嘘の兆候はない。
紛れもない本音のようだった。
「……賀川さんは、私のことなんてちっともすきじゃなかったもの」
独り言のように吉子は呟いた。
「あの人も一緒。お父さんに言われて、仕方なくわたしと会ってくれてただけ」
事務的なデートだった。
毎週土曜日に、連れだって映画館や美術館、レストランや水族館に行った。
午前十時、彼が運転する高級車が家の門扉まで迎えにくる。
ドライブしたり、映画やショッピングを楽しみ、十二時ごろ予約してあったおしゃれなレストランで昼食。
車を停めて公園や海の近くを歩いて、十五時ごろホテルのティールームでアフタヌーンティー。
夕方には吉子の家に戻って、十九時には家族も一緒に食卓を囲む。
先方の家に招かれて、手料理でもてなされることもあった。
日曜日にはお礼の電話と、次の週の予定を確認される。
はいと答えれば、また次のデートの約束を取りつけられる。
最初は緊張した。
だが吉子にとっては、とてつもなく高みにいる人物に思えた。
頭がよく冷静で、お洒落で、いつも計算された隙のない身のこなしをしている。
何もないところでつまずいたり転んだり、ぼうっとしては忘れ物をしたり降りる駅を間違える吉子にとっては、常に気を張っていなければならない相手だった。
それでも最初のころは、週一回のデートが楽しみだった。
端正な成孝の横顔にどきどきしたり、ハンドルさばきに見とれたり、何気ない仕草の一つ一つに意味を読み取ろうとしていた。
デートの翌日は物すごく疲れて、昼まで起き上がれないくらいぐったりしていたが、恋人ができたという嬉しさや誇らしさのほうが勝っていた。
出会ってから一年で婚約し、大学卒業後に結婚することが決まったときは、信じられない気分と夢見心地が一週間ほど続いた。
何とか成孝にふさわしい女性になりたいと思い、吉子は精いっぱい努力した。
料理教室に通ったり、会話についていこうと難しい本を読んでみたり、ダイエットや化粧も研究した。
成孝があまり自分の話をせず、吉子に対しても無関心なのには気づいていた。
続かない会話に焦るたび、頑張らねばと必死になって自分磨きにのめり込んでいった。
緊張が苦痛に、楽しさが失望に変わったのはいつだろうか。
どの時点でかは覚えていないが、あるとき吉子は確信した。
どんなに努力しても、この人が自分のことを見てくれる日は永遠に来ないと。
そういう問題ではないのだ。
綺麗になったところで、勉強して頭がよくなったところで、料理やお茶やお花を身につけたところで、成孝にとっては何の意味もない。
思えば最初から、成孝はサインを出していた。
会ったときの会話はいつも天気の話や世間のニュースといった、当たりさわりのない話題。
自分のことを深く語ってくれることもなかったし、吉子の考えについて積極的に聞いてくることもない。
常に心を閉ざし、上っ面だけで応対している。
つまり、根本的に吉子に興味がないのだ。
もっと早く気づくべきだった。
成孝は吉子の遠縁に当たり、吉子の父は成孝に金銭面でも他の面でも援助している。
立場上、父の意向に背くわけにいかないから、仕方なく吉子の相手をしていただけだ。
機嫌を損ねてはよくないけれど、本気で好かれても困るから、だからこんなふうに社交辞令的に対応していたのだ。
成孝はたとえ父に紹介された相手が犬だったとしても、同じように丁重に遇するだろう。
心の底に冷ややかな無関心を宿して。デートも単なるルーティーンワーク。
この人にとっては、こなさなければならない業務の一つにすぎない。
悔しくて悲しくて、涙が止まらなかった。
腹立たしくてたまらなかった。
こんな単純なことが分からなかった自分も、はっきりと断らずに婉曲なやり方をする成孝も。
つくづく嫌気がさして、吉子は体調を理由にデートを断るようになった。
週に一回だったのが二週に一回、月に一回、やがて数ヶ月に一度になった。
そうすると、今度は母の心配が始まった。
成孝さんと喧嘩でもしたの?何が気に入らないの?どうして会わないの?
あんないい人のお誘いを断るなんて、何を考えているの。
いいかげん鬱陶しくなってきたので、吉子は体裁を整えるべく、月に一度は成孝と会うという妥協点を見出した。
これで向こうも義務を果たすことができるし、こっちも親に対して顔が立つ。
お互いに気持ちはなく上辺だけの、くだらない惰性のつき合いだった。
はた目には、さも幸せそうなカップルに映ったに違いない。
背が高く大人びていて、次々と高級な場所に連れていってくれ、誕生日には花や宝石を贈ってくれる恋人。
社会的地位が高く、頭脳明晰で才覚のある男性。
その隣の席を、婚約者の身分を欲しがる女性はごまんといるに違いない。
だが吉子は、とうとう一度も心から笑うことはできなかった。
成孝と過ごす時間は苦痛に満ちており、そう感じる自分に罪悪感と自己嫌悪を覚えた。
――どうしてひねくれた考え方をせず、素直に喜べないのだろう。
こんな素敵な人が、たとえ親の命令でも一緒に過ごしてくれるだけで、ありがたいと思わなければいけないのに。
別に暴力を振るわれるわけでも、人格を否定するような言葉を吐かれるわけでもない。
きちんと胸襟を開いて話し合えば、分かり合える相手かもしれないのに。
悩みを打ち明けられる人はいない。
誰に話したって、お前はわがままだ、贅沢だと言われるに決まっている。
――土曜日の朝が、どんどん憂鬱になっていく。
次の更新予定
ベルフェゴールの婚礼 橘むつみ @tachibanamutsumi
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