ヒトは想像できなくなっている

古 散太

ヒトは想像できなくなっている

 これをしたらその結果がどうなるのか。これを言えばそのあとどうなるのか。

 テレビが淡々と語るニュース。周辺の国がきな臭い。言葉で、行動で、つねに威嚇しては、自分たちの主張を通そうとする。そんなニュースを目にした国民の多くが、漠然とした不安を感じているだろう。

 でもぼくはふと考える。

 たとえば、ぼくが隣国を支配したいと考えたなら、威圧的な言動をするだろうか。そんなことをすれば、逆に相手を身構えさせることになるし、時間をかければかけるほど相手に準備をする時間を与えてしまう。それよりも、もっといい顔をして信頼を得て、政治的に、経済的に、文化的に手を組むことのほうが、自国にとって有益ではないか、と考える。

 これは何も国際的な問題だけではなく、日常生活の中にも当てはまることがたくさんある。

 たとえば怒るという行為だ。

 相手がミスをしたり、悪いことをしたとき、感情的に怒ってしまうヒトがいる。

 親が子供に怒ったり、友人が怒ったり、そんな場面は日常的にあるだろう。

 怒るという行為は、相手のためにあるものではなく、自分のストレスのはけ口にしかなっていない。感情的なストレスが瞬間的に沸騰して怒りとなり、それがそのまま言動となって表現されてしまう。これはどう考えても、相手のためというふうには思えない。幼児のヤダヤダ期と同じ表現方法である。

 本当に相手のことを思うのであれば、何がどう悪かったのか、どのようにダメなのかを説明するほうが理にかなっているし、相手も飲みこみやすいはずだ。その上で、こういうふうにするべきだった、と説明すれば、相手に聞く気があれば飲みこみやすいだろう。こちらの話を聞く気がない相手には、もう何を言ってもムダなので、何も言わず、自ら落ちていくのを見送るしかない。どこまでも落ちていって自ら気がつくまで、そのヒトはなにも改善しないだろうし、自分の状況を理解しないかぎり人は変わらない、とぼくは思う。

 つまり、自分のストレスを発散したところで、トラブルを起こした相手や状況が変わるわけではない、ということだ。

 すこし想像すれば誰でもわかることだが、想像しない。想像できないヒトにとっては、それはわかりようがない。自分勝手に自分にかかってくるストレスを発散しているだけで、その場の空気は悪くなり、相手を傷つけ、ヒトによっては自己嫌悪に陥ることもあるかもしれない。


 想像すればわかること。考えてみれば単純なことだ。

 こういうことを言えば、相手がこの場がどうなるかを想像する。それだけ。

 しかしこのひと手間をかけるかどうかで、その結果は大きく違ってくる。

 わかりやすい例を挙げるなら、煽り運転の事件だ。

 高速道路で、一般道で、自分が気に入らない車を煽って、場合によっては、高速道路で車を降りてきて、狙った車の運転手に文句を言う、あるいは攻撃を仕掛ける。

 今では多くの車がドライブレコーダーをつけている。つまり、煽り運転から降りてくるまでの一部始終が撮影され、裁判での決定的な証拠となる。

 すこし想像すれば、この一回の苛立ち空の言動のせいで残りの人生が終わりを告げる、そういったお知らせアラートが鳴り響く可能性だってあるのだ。すこし想像すればわかることだ。

 最初の例でもそうだが、近隣国に威圧的に接すれば、相手も身構えるに決まっている。すこし想像すれば誰にでもわかることだ。しかし彼らにはこれがわからない。

 物質至上主義のなれの果てと言ってもいいかもしれない。

 相手の立場や気持ちを考える。たったそれだけのことで、物事が思いどおりに運ぶ可能性が高まるかもしれない。威圧的であるよりははるかに効率がいいように思うのはぼくだけだろうか。

 これから行動を起こす、その前のほんの一瞬、想像力を働かすことができれば、人生は思いのほかスムーズなものになるだろう。

 そのために、普段から何かをしようとするたびに想像するクセをつけると良いのではないか。理想的なのは、自分にとって都合のいい方向性の想像だ。

 多くのヒトは気づかないが、ヒトは自分の本音の考えで動いている。絶対的に否定していることは、よほど強制的な状況でないかぎり否定を貫くはずだ。ヒトは本音の部分で考えていることを、肉体で表現しているに過ぎない。

 そうであるなら、自分に都合のいいことを想像するのが適切だ。状況によっては、相手の気持ちや立場を優先することによって、自分にとって理想的な結果をもたらす可能性も高くなる。

 自己主張は、賢くしなければただの身勝手な意見という形で終わってしまう。事実だけを述べる正論はそういう場でのみ有効で、日常生活の中での会話では敵を作るかもしれない。なぜなら、それは言葉の暴力にもなりかねないからだ。

 ぼくの話は、与太話として受け止めてもらえばいい。与太話の中から何か拾えるものがあれば、それは拾ったヒトの感覚が鋭くなっているということだ。ぼくの話に他意はない。これもまた想像力によるものかもしれない。

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