2011年の公衆電話

夏鎖

2011年の公衆電話

 オレンジレンジの新曲が毎夏出なくなって、いきものがかりは相変わらずシングルを出し続けて、父親が車の中でかけるCDがGReeeeNになっていた頃の夏休み。中学二年生の僕はまだ携帯電話を持っていなかった。


 だから音楽好きな僕はレコチョクがどうとか着メロがどうとかのクラスメイトの会話がうらやましかった。それ以上に友達と電話やメールを、自分だけの携帯でしてみたかったのだ。あわよくば好きな女の子――高橋香織と電話をしてみたかった。


「携帯ないなら家電使えば?」

「うち子機がリビングから持ち出せないんだよね……」

「なら外は?」

「外?」

「公衆電話」

「公衆電話? お金かかるじゃん」

「私がかければお金かからないよ」


 幼なじみの葵に言われて、僕は初めて公衆電話にも電話番号があり、電話をかけることができることを知った。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 午後八時十八分の市立公園は夏にしては静かさを保っていた。花火をする子どもたちも、原付を乗り回す高校生たちも、男女で酒盛りをする大学生もいない。夜の喧噪が強くなるのは夏休みに入ってからだろう。

 中学生という子どもでも大人でもなくて、でも結局未成年という枠に押し込まれてしまう存在の僕は、市内の面積の一割を占めるともいわれる公園内に唯一残る公衆電話に向かった。


「……こんな公衆電話、よく知ってたな葵のやつ……」


 緑色の、硬貨かテレフォンカードを入れたら――もっともテレフォンカードなんて最後に見たのは幼稚園の頃だ。僕たちが小学一年生、二年生の頃には携帯電話は普及し始めており急速に公衆電話の力が失われていたからだ――電話が可能な機械を前に僕は葵からの着信を待った。葵は八時半にこの公衆電話に家の電話の子機から電話をかけると言っていた。


 そしてその時がやってくる。


<リリリリリリリリッ>


 聴き馴染みのない着信音で電話がかかってくる。

 僕はにわかに心音が早くなるのを感じながら受話器を取る。


「もしもし?」

『聞こえる?』


 受話器の先のその声は毎違いなく十年来の幼なじみの山形葵の声だった。


「聞こえてる。すごいね。本当に公衆電話に電話がかけられるんだ」

『かけられるよ。これならタダでしょ?』

「葵の家の電話代はかかってるけどな」

『月々いくら、の契約だろうから大丈夫』

「そっか」

『これで電話はできるよね。メールは無理だけど』

「そうだね……ありがとう。まぁ問題はどうやって高橋にこの公衆電話に電話をかけてもらうかなんだけど」

『それは自分で考えてよ。好きな子なんでしょ?』

「そうだけどさ……」


 彼氏持ちの葵の言葉はやけに軽くて、僕には重たく感じる。


『そうそう。公衆電話の電話番号だけど、電話機の右横に書いてない?』

「右横」


 受話器を耳に当てたまま、緑色の筐体の右側面を見てみる。すると古びたシールに電話番号が書いてある。


「XXX-XXXX-XXXXって番号?」

『そうそれ! それを好きな子に伝えればいいんだよ』

「んー、ハードル高いな……」

『だから頑張れって』

「はいはい」

『電話かけられることはわかったでしょ? それじゃ忙しいから。じゃあね』


 僕が答えるとじゃあねと電話が切れる。


「葵は今頃彼氏と電話でもしてるのかな……」


 受話器を元に戻す。電話ボックスから出ると吹いた夜風がTシャツを揺らした。日中の熱気を残していたのか汗をかなりかいていた。風が汗を冷やして涼しい。


「電話番号を渡す方法考えないとな……」


 僕はママチャリにまたがり電話BOXを後にした。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 翌日、僕は放課後の学校で高橋香織を待っていた。早くも最後の夏が終わった野球部が新体制で練習をし、吹奏楽部が最後の夏に向けて練習している後者は夏休み前の賑やかさがあった。

 高橋香織は――優等生で黒髪ロングな美人の彼女は、毎日図書館で三十分その日の授業の復習をしてから帰宅する。なので下駄箱で待っていれば高橋香織に公衆電話の電話番号を渡せると思ったのだ。


 高橋香織に渡すメモには<高橋香織さんへ 明日の夜八時にこの電話番号に電話してください。XXX-XXXX-XXXX>と記載している。これなら電話をかけてもらえるか。

 と、しばらくした後、高橋香織がやってきた。相変わらず美人だ。


 彼女にメモを渡そう。しかし足は動かない。勇気が出ない。勇気を出したい。僕は勇気を振り絞ってメモを――


「あっ」


 右手からメモが滑り落ちる。それが高橋香織の元へ――


「?」


 僕は――思わず下駄箱に隠れてしまう。


「……変わった告白方法だな」


 高橋香織はそう呟くとメモをスクールバックのポケットに入れ、靴を履き替え、下駄箱を立ち去った。


「……何やっているんだ」


 自分の勇気のなさに絶望しながら、しかし僕は安堵していた。


「……あの様子なら電話かけてくれるよね?」


 変わった告白方法だと呟いていた。ということは電話をかけてくれるということではないだろうか?


「楽しみだな。電話かけてくれるの」


 今から明日が待ちきれない。何を話すのか頭の中をぐるぐると巡らせながら、僕は帰路についた。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 ママチャリを走らせ公園を目指す。

 夏休み前。最後の土曜日。

 自転車が切り裂く風は湿度と温度に十分すぎる夏の気配を漂わせていて、それに抵抗するために制汗剤をつける。しかしそれが全く意味をなさないほどには、今年の夏は猛暑だった。


(本当に高橋香織は電話をかけてくれるのだろうか……?)


 淡い期待と、それが必ず裏切られるだろうという諦観を抱えて僕は市立公園にたどり着いた。まだ夏休み前の雰囲気が漂う市立公園は市民の憩いの場として機能していた。

 公衆電話の前に立つ。先ほど確認した公園内のアナログ時計は夜七時五十五分少し前を指していた。電話がかかってくるまで後五分程度だろう。

 電話BOX内の熱が僕を蒸していく。シューマイはこんな気分なのだろうか、そんな夏由来のバカな考えをしていると聞き慣れない着信音が鳴る。


<リリリリリリリリッ>


 慌てて電話を取り、自転車と夏の熱で水分が失われた喉から声を絞り出す。


「も、もしもし?」

『もしもし? あなたは誰?』


 中学生にしては圧倒的に品が良い声に、僕は思わず変なことを言ってしまう。


「えっと、その、まず確認なんですけど……高橋香織さん……で合ってる?」

『えっ? そうだけど……あれ? これ、君の家の電話番号だよね?』

「いや、この電話、公衆電話で……」

『公衆電話?』


 僕は葵から聞いた公衆電話に電話をかけられるという情報をそのまま高橋香織に伝える。


『へぇ……面白いことするね』

「どうしても高橋香織……さんと電話してみたくて」

『何それ。面白い』


 クスクスと高橋香織が笑う。そして早く話を終わらせたいのか核心を突いた質問をする。


『それで、君は私に言いたいことがあるんじゃない?』

「言いたいこと?」

『告白、したいんじゃないの?』

「えっ?」

『えっ、って……そのためにわざわざ電話番号渡したんじゃないの?』

「そんなこと全然考えてなかったな……ただ高橋香織さんと電話したくて……」

『君、私のこと好きじゃないの?』

「それは……好き、だけど……」


 図らずとも告白してしまい、鼓動が嫌でも高鳴る。


『好き、だけど?』


「好き。だけど、それ以上に好きな人と電話したいっていう気持ちがあって……」

『なにそれ。変なの』


 確かに変なのかもしれない。中学二年生なら好きな女の子には告白をして付き合いたいと思うのかもしれない。しかし高橋香織に対しては、不思議とそんな気持ちはなかった。


「確かに変かも。だからさ、今日から夏休みが終わるまで、毎日電話しない?」


 何が<だから>なのか。自分でもよくわからないまま口にしてしまう。


『……付き合いたい、って言ってきた人はたくさんいたけど、毎日電話してほしいっていう人は初めてだね』

「そうだよね……」

『まぁ、いいよ。毎日電話。夜の八時から五分くらいなら』

「本当?」

『その代わり君の名前教えてよ』

「名前、まだ言ってなかったね。僕の名前は――」


 名前を告げると電話は切れた。好きな子と毎日電話する不思議な夏が始まった。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 次の日から僕は夜の八時に市立公園まで自転車を走らせた。

 いつだか感じた夏の夜のべたつく不快感も、高橋香織と話すためと思うとどこか気持ちの良いものに感じた。


 話したことは取り留めないことだった。一回五分の電話だと、話せるのはせいぜい一話題か二話題で、学校での黒髪ストレート品行方正な彼女以上のことはなかなか知ることができなかった。学校で知ることができない高橋香織の情報は

 ・実は一回だけ彼氏を作ったことがある。

 ・夜の八時は姉がお風呂に入っているので、それを待つ時間で通話している。

 ・好きなバンドはスピッツ。

の三つだった。


 高橋香織は僕が彼女に告白する気がないということを知ると、男友達のような扱いをしてきた。異性の友達なんで僕には初めてで――葵は幼馴染だからノーカンだ。その事実に満足していた。公衆電話を通した、たった五分間の儚いやりとりが夏休みの間は続くことを信じて疑わなかった。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 しかしそれは終業式の日の前日までしか続かなかった。

 いつも通り――といっても高橋香織と電話をするようになって六日目のことだ。

 終業式を終え、昼前には帰宅し、お昼ご飯のそうめんを食べ、ゲームをして昼寝をして、夜ごはんにアジフライを食べて……そうして向かった夜八時の市立公園の電話BOXはいつもと様子が違った。


 電話BOXに見知った顔が五、六人たむろしていたのだ。


「携帯からここに電話かけられるってマジ?」

「マジマジ。携帯持ってなくて、家電使えない奴はここ使えばいいんだよ」


 クラスのサッカー部の連中だった。

 よく考えなくても葵が公衆電話に電話をかけられるということを知っているのは誰かからそれを教えてもらったということで――


 電話BOXに近づけないまま時間は過ぎた。

 その日は諦めて家に帰った。次の日、相変わらず電話BOXは同じ中学の奴らに占拠されていた。次の日も、次の日も次の日も次の日も……


 高橋香織と電話をすることはなかった。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 記憶の薄い夏休みがあっという間に終わり、僕は高橋香織と電話以外で初めて会話をした。といってもこれだけのやりとりだ。


「高橋さん」

「誰……だっけ?」

「あの、夏休み前に公衆電話から電話をかけてた――」

「あー! 君ね!」

 夏休み前は楽しかったよ。じゃあね。


 高橋香織は黒髪ストレートを揺らして去っていった。

 これを失恋というのなら、僕の人生初の失恋だった。


×   ×   ×   ×   ×   ×   ×


 高橋香織とは、それ以来言葉を交わさなくなってしまった。

 夏が終わり、秋が過ぎて、2012年になり、受験に向けて塾に通うことが決まると念願の携帯電話が親から買い与えられた。

 携帯電話が買い与えられて最初にしたことは、親の携帯の電話番号を登録することでも、葵の電話番号を登録することでも――高橋香織の電話番号を登録することでもなく(そもそも電話番号を知らないのだが)あの公衆電話の電話番号を登録することだった。


<了>

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2011年の公衆電話 夏鎖 @natusa_meu

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