短編

フライエンの酒場

悪魔

山盛りの吸い殻が積もった灰皿にタバコを押し付け、目をモニタへ戻す。物書きとして生きている以上、連載小説の続きを書かねばならない。題材はありきたりで、神と悪魔、あるいは正義と不正――とにかく締め切りまでに物語を進めねばならない。そんなテーマに取り組んでいると、本物が現れてくれないかと思うことがある。神でも悪魔でもいい、とにかく彼らに筆を預けてしまいたい気分になるのだ。――特に、彼らの教理に従ってキャラクターを動かすときには、なおさらそう思う。


そんなことを考えつつキーボードを叩いていると、いきなり背後から声をかけられ、手が止まった。――僕以外誰もいないはずのこのアパートの一室に、誰かがいる。そのだったのだろう。ソレが話し終えるころには、止まった手が震えていた。ゆっくりと振り向くと、女が立っていた。僕は思わず椅子から飛び上がり、モニタの方へ倒れ込むように体を寄せた。がたん、と椅子が床に転がる。


「ど、どこから入った?」

「そんなことより――」

女は自らを悪魔だと名乗り、願いを叶えると申し出た。

「馬鹿馬鹿しい。警察を呼ぶ前に帰ってくれないか? 僕のファンだとしても、こんな――」

「じゃあ、これでどう?」


彼女は確かに悪魔だった。執筆に取りかかる前に調べておいた悪魔の業(わざ)を見事にやってのけたからだ。僕にはどうあがいても彼女を悪魔だと信じるほかなかった。そして――これがまさに重要なのだが――それは死後の世界を逆説的に証明することにもなっていた。


「で、結局願いはなに? 富? 名声? それとも別のもの?」

彼女の声は、明らかに最後の問いに重みを置いていた。だが僕は気にも留めず、確信に従って言う。

「なにもいらない。むしろ君が存在していることに、僕は感謝しているよ」

彼女は微笑み、答えた。

「わかったわ。じゃあ、願いが決まったらまた教えてね」

そう言うと、彼女は本棚から勝手に本を抜き取り、読み始めた。僕は気にかけることもなく、創作を放り出し、そのままベッドへ入って寝た。ゴソゴソと物音がしたり、テレビをザッピングするような音がしたりと騒がしかったが、そんなことはもうどうでもよかった。


その翌日からすべては動き出した。僕はまず近くの教会――とくに戒律を厳しく重んじるところ――へ向かった。そこで彼女を司祭に紹介したのだ。僕が「彼女は悪魔だ」と説明すると、司祭はあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。しかし、彼女がそれを証明してみせる頃には、その顔は恐怖に染まり、やがて――僕と同じように――最終的には「幸福」に変わっていた。それは彼の中の「疑念」が「確信」に変わったしるしでもあった。


彼は上司――つまり、より高位の司祭――にこのことを報告した。その熱心さと「業という証拠」があったことで、この話が教会の頂点に届くのに時間はかからなかった。トップとの話し合いもすぐにまとまる。僕が彼女を呼び出すと、どこからともなく彼女が現れた(これ自体、奇跡以外のなにものでもないのだが)。あとは最初の司祭のときと同じ説明を繰り返すだけ。それですべてはうまく運んだ。


彼女は久しぶりにこの世に姿を現したから大分変わったとか、人間にも何か変化があるとか、いろいろ話していた。だが、そんなことはどうでもよかった。――重要なのは、死後の世界が実在することが証明された以上、僕こそがその「死後の王国」の到来を告げるラッパなのだ。 無論、僕自身はラッパでしかないとも言えるが。


メディアを通じてそれが広まると、人々はこぞって「善く」生きるようになった。電気・ガス・水道といったインフラは最低限維持されたが、会社へ通う者は激減し、金を稼ごうとする経営者もいなくなった。死後の世界の存在が証明された以上、どうして教理に背く行動を取れるだろうか。永遠の死後があるのなら、現世などほんの一瞬にすぎないだろう。その一瞬のために永遠をおろそかにする人間がどこにいようか。


文明は衰退していったし、誰も文明なんか気にしていなかった。――人々はの永生をどうという矛盾を選んだのだった。


そんな生活が数年続いたある日、戦争が起こった。いや、戦争というよりも虐殺、無条件降伏、征服と呼ぶ方が正しい。ある人間が「自らが神である」と称し、そして、あろうことか人々はそれを崇拝したのだ。その人々は組織され、生産を始め、軍事化し、今に至る。


僕らは決して抵抗しない。それは来たるべき日の調和を壊してしまうからだ。僕らは「善」のために、無抵抗であり続けるだろう。


僕は今、これを収容所の便所紙に書きつけている。――そう、これは新たなる黙示録となるだろう。一人の神を僭称する悪魔が築いたこの忌まわしき世界は、早晩、破滅するだろう。この本当の悪魔は、必ず最期に罰せられるだろう。


僕らは処刑されるかもしれない。だが、救いは必ず到来する。死後の世界で彼らが裁かれるとき――そのときこそ、彼らが僕らの前で吠え面をかくときだ……。



***


「そっちはどうだった?」

「俺んとこはな、富と名声とカリスマ。順番に言われてな、三つともかなえてやった」

「ほんと、短絡的」

「うるせぇ。早いのが一番だ。で、お前は?」

「何も叶えてないよ」

「は?どういうことだ」

「北風と太陽って知ってる? 都市で疫病をばらまいてた頃、偶然その本を読んだんだ」

「人間の本なんか興味ねえ」

「読めば案外おもしろいよ。……で、お兄ちゃんは誰を選んだの?」

「臆病なくせに復讐心だけは強い奴。頭も悪くて楽だったぜ」

「らしいね。私はその逆。賢そうな人間のところに行った」

「なんでわざわざ」

「真理を広めたがるから。いつの時代もそう」

「で、それでどうやって殺せる?」

「お兄ちゃんがいつも通りやるなら、必要なものはわかるでしょ」

「……ここまで殺される奴を作ったのは初めてかもな。まあそんなわけで今回はお前の勝ちだ。願いも使ってねえし」

「勉強しないと勝てないよ」

「玩具から学ぶかよ」


瓦礫と放射能の灰の山の上で、二人はケラケラと笑った。

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