アナログ・アニマル、東京サバイバル日記
Tom Eny
アナログ・アニマル、東京サバイバル日記
アナログ・アニマル、東京サバイバル日記
岐阜の山深い集落に暮らす田村公平、78歳は、2025年の夏、突然、都会の洗礼を受けることになった。東京に住む孫のタケル、20歳、大学生が「じいちゃん、たまには都会にも出てこいよ。夏休みはうちに来なよ」と、半ば強引に誘ってきたのだ。公平はスマートフォンどころかガラケーも持たず、電気契約すらない正真正銘のアナログ人間。自ら進んでデジタル化の最先端を行く東京に行くなど、考えもしなかった。彼の哲学は「便利なものに飼いならされてたまるか」の一言に尽きる。しかし、愛する孫の誘いを無下に断ることもできず、「行きたくなかったが、孫が言うのなら仕方ないのう」と、重い腰を上げたのだった。
タケルが借りてくれたアパートに到着すると、公平はまずその喧騒にたじろいだ。一歩外に出れば、スマホを片手にうつむく無数の人々。まるで怪しげな光る板に取り憑かれたようだと公平は思った。
初めて駅に向かった時が、最初の試練だった。 「おい、あれは何じゃ?」公平は自動改札を前に立ち尽くした。硬貨を投入口に入れようとする彼に、タケルが呆れたように声をかける。 「じいちゃん、これはタッチするやつだよ。切符かSuica」 公平は渋々、タケルに言われるがままに券売機を操作し、何とか切符を手に入れた。電車の中も、皆が光る板を凝視している。「人間も、とうとう機械に心を売ったか」公平は小さく呟いた。息子や嫁には「お前たちには分からん」と一蹴する彼も、孫の前ではどこか調子が狂う。
東京の壁、孫の支え
ある日の昼下がり、公平は区役所へ住民票を取りに行った。受付にはタッチパネル式の番号札発券機が鎮座している。公平は画面をジッと見つめ、人差し指でツンツンと小突いてみた。しかし何も起こらない。「壊れとるのか?」彼はぶつぶつ言いながら、隣で操作している若い女性の真似をして、ようやく番号札を手に入れた。「ふん、人の真似をするのも癪だが、これくらいは仕方ない」公平は内心で言い訳した。
食料品の買い出しも一苦労だった。スーパーに入ると、セルフレジがずらりと並び、「現金の方は有人レジへ」と書かれた小さな看板を探すのに一苦労する。ようやく見つけた有人レジで、店員に「アプリ会員様はポイント2倍です!」と勧められる。 「あぷり?わしはそんな怪しげなものは持っとらん!現金で頼む!」 公平は財布から小銭をジャラジャラと出し、きっちり代金を払った。背後からの焦るような視線を感じながらも、彼はアナログの勝利を噛みしめる。
夜、ランプの灯りの下、公平は古びた日記帳に万年筆を走らせる。「東京は鉄と光のジャングルじゃ。わしはアナログ・アニマル、この地で生き抜くには、あと少しだけ、世の中の仕組みを知る必要があるかもしれん…ほんの少しだけな。」日記の隣では、タケルがスマホの画面を凝視している。「こんな夜まで光る板を覗き込んで、目が疲れないのか」公平は内心で呟き、静かに万年筆を動かした。
「お出かけスマホ」と新たな発見
ある晩、タケルが公平のアパートを訪ねてきた。 「じいちゃん、明日さ、俺、友達と会う用事があるから、昼間じいちゃん一人になっちゃうんだ。何かあった時のためにさ、これ持っていってよ!」 そう言ってタケルが差し出したのは、彼が二台持ちしているうちの一台の古いスマホだった。 公平は顔をしかめた。「こんな光る板、わしは使えんぞ!持っていても仕方ないわ!」 「大丈夫だって!使い方は説明するし、電話かかってきたら出るだけだから!緊急用だからさ!」タケルが懇願するように続ける。 公平は「むぅ…」と唸り、しばらくスマホを怪訝そうに見つめていたが、結局「お前が言うなら…お出かけの間だけじゃぞ」と渋々受け取った。ポケットにスマホを入れると、何とも言えない違和感が公平を襲った。
次の日、タケルと出かけることになった公平は、言われた通りスマホをポケットに入れて出発した。電車の中、公平が車窓を眺めていると、ポケットのスマホが突然「ブーブー!」と震え出した。公平は驚いてスマホを取り出すと、どこからか聞こえる声に耳を近づけたり、画面に話しかけたりした。「もしもし?誰じゃ?どこにおるんじゃ!?」 タケルが慌ててスマホを取り上げ、「じいちゃん、これは振動だよ!電話!」と説明し、代わりに操作してくれた。公平は「こんな小さなもので、人が話せるのか…怪しげなものじゃのう」と目を丸くした。
映画館のロビーは人で溢れ、入場ゲートではスマホのQRコードをかざす人々がスムーズに進んでいく。公平は、タケルのスマホ画面に映し出されたQRコードを、まるで得体のしれない虫を見るかのようにジッと見つめていた。 「じいちゃん、これだよ」タケルがスマホをかざすと、ゲートがピッ、と音を立てて開いた。 「なんじゃ、この暗号は…」公平はぶつぶつ言いながらも、タケルの後をついて中へ入った。
映画が終わり、二人が出てくると、空にはにわかに暗雲が立ち込めていた。突然、公平のポケットのスマホから一斉に緊急地震速報のけたたましい音が鳴り響く。公平は驚いてスマホを地面に落としそうになった。「なんじゃ、この音は!機械が壊れたか!?」人々が不安げにスマホの画面を見つめる中、公平だけが全く状況を把握できていない。 「じいちゃん、地震が来るって!揺れる前に広い場所へ行こう!」タケルが公平の手を引いた。 「地震?どこでじゃ?わしには何も聞こえんぞ…」 タケルは公平を連れて、近くの公園へと急いだ。揺れが収まった後、人々はスマホで家族に連絡を取り始めるが、公平はただ立ち尽くす。 「じいちゃん、大丈夫だった?!」心配そうに駆け寄ってきたタケルが、公平の顔を覗き込む。 「ああ、わしは大丈夫じゃ。お前がいてくれて助かったわい…」公平は珍しく素直に礼を言った。「あの光る板が鳴らなんだら、わしはどうなっていたか…」彼は、デジタルへの複雑な感謝の念を、ほんの少しだけ感じ始めていた。
人との交流が織りなす彩り
ある日、公平はタケルの留守中に散歩に出た。地図も持たず、勘だけで歩いているうちに、すっかり道に迷ってしまった。スマホを取り出し、検索する通行人たちの中で、公平は途方に暮れる。「昔はな、道に迷ったら、まず人に聞くもんじゃった」彼は近くの若い女性に声をかけた。 「すまんな、この道はどこへ出るんじゃ?」 女性はスマホを取り出し地図アプリを開こうとしたが、公平が「そんな小さな画面では分からん!」と拒否すると、少し戸惑いながらも、指で方向を指し示し、丁寧に道順を教えてくれた。公平は深々と頭を下げた。都会の無関心さの中で、意外な人の温かさに触れた瞬間だった。
昼食のため、偶然見つけた昔ながらの喫茶店に入った。カウンターには年配のマスターがいて、店内には静かにジャズが流れている。公平は「ここは安心じゃ」とばかりに席についた。マスターとの会話で、公平は「昔は新聞記事を切り抜いてスクラップしたものじゃ」と語り、マスターも「ええ時代でしたな」と相槌を打つ。「都会の人は忙しそうじゃが、こういう時間も大切じゃのう」公平はしみじみと語った。デジタルを拒む二人の間で、温かい空気が流れた。
アナログの選択、そして確かな絆
夏休みも終わりに近づいた頃、タケルは公平に一台のタブレットを差し出した。 「じいちゃん、岐阜のじいちゃんの友達、俺、SNSで探し出したよ!今からテレビ電話つないでやる!」 公平は目を丸くした。「小さな板に人がおるわけないじゃろう!」息子や嫁には怒鳴りつけるような頑固さを見せる公平だが、タケルの期待に満ちた目を見ると、またも「むぅ…」と唸ってから、渋々タブレットの画面を覗き込んだ。 画面に映し出されたのは、故郷の古い友人の顔だった。 「お、おーい!聞こえるか!?元気か!?」公平は画面に向かって、まるで友人が目の前にいるかのように大声で話しかけた。友人との懐かしい会話が、デジタル画面越しに響く。会話が終わった後、公平は深く息をついた。
「こんなもので、遠くの者と話せるのは…悪くはないな」公平はポツリと呟いた。デジタルの効率性ではない、人と人との絆を繋ぐ力に、彼は初めて間接的に触れたのだ。「この板がなければ、もうあの声は聞けなんだかもしれん…」その夜、公平は、タケルが撮ったタブレットの写真を見せてもらった。画面に映る、東京タワーの前で満面の笑みを浮かべる自分と、隣でピースサインをするタケルの姿。 「こんな小さな絵で、思い出が残せるのか…」公平の目に、じわりと熱いものがこみ上げた。 「死んだバーさんにも、この東京の景色を見せてやりたかったのう…そして、この光る板で、お前の顔をいつでも見られたら、きっと喜んだだろうに…」
別れの朝、タケルは公平を見送りに来た。 「じいちゃん、また東京に遊びに来てくれよ。その時は、もっと面白いデジタルなとこ連れてってやるから!」 公平は、孫の頭をぽんと叩いた。「ふん、光る板のおかげで、お前とこんなに遠いところに来れたのは悪くなかった。ありがとよ、タケル」公平はポケットの中のスマホの感触を確かめるように、そっと触れた。
岐阜の集落に戻った公平は、再び慣れ親しんだアナログな日常に包まれた。朝は新聞を広げ、ラジオで天気予報を聞く。畑の土を素手で触り、近所の爺さんと縁側でたわいのない会話を交わす。ランプの灯りの下で日記を綴る。東京での騒々しさは消え、五感で感じる豊かな生活がそこにはあった。
ある夜、日記帳に最後の言葉を書き記した。 「東京での夏は、わしにとって大きな冒険であった。デジタルという怪しげな光の渦に巻き込まれそうになったが、タケルがおったおかげで、新しいものにも触れることができた。デジタルも、悪くはない。遠い友と話せたのも、タケルと映画を見れたのも、あの光る板のおかげじゃ。だがのう…」
公平はペンを置き、大きく息を吸い込んだ。窓の外からは、虫の声と風の音が聞こえる。遠くの山並みは、静かに夜空に溶けていた。公平はそっと顔を上げ、部屋の隅に飾られた、今は亡き妻の遺影に目を向けた。 「なあ、バーさん。わしゃ、東京でいろんなもんを見てきたんじゃ。あんたがいたら、きっと驚いただろうな。あの光る板で、遠いおばあちゃんたちと顔を見て話せたんだぞ…あんたにも、見せてやりたかったのう…」 公平の瞳に、再び温かい涙が滲んだ。
「やっぱり、わしには、この土の匂いと、ラジオの音と、直接交わす言葉と、ランプの灯りのアナログが一番じゃ」
田村公平のアナログサバイバルは、彼の故郷で、静かに、そして確かな幸福感とともに続いていく。
アナログ・アニマル、東京サバイバル日記 Tom Eny @tom_eny
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