第七章 三つ首の番犬

戦いの余韻がまだ房に沈殿していた。

崩れた床は焦げの匂いを吐き続け、

囚人たちは肩で息をしながら互いの顔を見合った。


「……生き延びた、のか?」

「くそ……心臓がまだ跳ねてやがる……」


汗まみれの顔に、わずかな安堵が差した。

誰もがこの地獄から逃げられるかもしれないと、

ほんの少しの希望を口にしかけていた。


だがその時。


「おい……鉄格子を見ろ!」


震える声が空気を裂く。

全員の視線が扉へと吸い寄せられた。

そこには、ありえない光景が広がっていた。


鋼鉄のはずの檻は、黒く腐り果てていた。

表面がじゅうじゅうと泡立つように崩れ、

赤錆と煤を撒き散らしながら、

音もなく形を失っていく。


「開いてる……! これなら外に出れる!」

「今だ……今のうちに……!」


囚人たちの目に、狂気じみた光が宿った。

押し合いへし合いしながら鉄格子へ殺到する。

自由へ――たとえ一瞬でも幻にすがろうと。


だが、廊下は異様なほど静まり返っていた。

石壁は冷たく、息を飲む音だけが響く。

そこにあるべきはずの警務官の姿も声も、影すらなかった。


「……おかしい。見張りはどこだ?」

「逃げた……? まさか……」


誰も答えられなかった。


その時――。


――ガラガラガラ。


重く湿った鉄鎖を引きずる音が、廊下の奥から響いた。

ぞわりと背筋を冷たいものが走る。

次の瞬間、黒い霧が床を這い、房の中へと溢れ出した。


「な、なんだ……?」


霧は渦を巻き、やがて核を中心に固まっていく。

影が立ち上がり、巨大な輪郭を作り出す。


三つの首を持つ獣。


番犬が現れた。


その咆哮は大気を震わせ、

壁の石をひび割れさせるほどの圧力を持っていた。

黒炎が顎から滴り、床を焼き、

赤黒い光が目の奥で燃えている。


「ひ、ひぃぃ!」


囚人たちは一斉に悲鳴をあげ、四方へ散った。

だが、巨体が跳ね上がり、牙が閃く。

一人の囚人の胸を噛み砕き、

肉体ごと黒い霧に引きずり込む。


「やめろォォ!」


別の囚人が必死に背を向けたが、

霧の尾が絡みつき、足をすくわれた。

悲鳴と共に地面へ叩きつけられ、

そのまま闇に呑まれる。


魂の絶叫だけが、房にこだました。


「に、逃げろ! 外へ!」


我先にと出口へ走る囚人たち。

だが次々と牙に捕らえられ、

影に溶けていった。


恐怖と混乱の中、残されたのは三人だけ。

ライゼル、アレン、天使ルーベル。


「……化け物め」


アレンが低く唸り、前へ踏み出す。

その背は揺るがず、迷いもなかった。

拳を構え、真っ直ぐに番犬へと突進する。


顎を殴り、首を撃ち、霧を切り裂く。

衝撃は確かに伝わる。

だが裂け目は霧にすぐ塞がれ、

致命には届かない。


「ぐっ……!」

黒炎が吹き荒れ、アレンの頬を焼いた。

それでも彼は怯まない。


一方、ルーベルは恐怖に震えていた。

必死に魔法を放つが、

火花は霧に呑まれて掻き消される。


「ひっ……ぜ、全然効かねえ……!」


彼の声は震え、涙がにじむ。

それでも、目は何かを見逃さなかった。


「ま、待て……! 首の根元……あれだ!」


番犬の三つの首の付け根から、

黒煙のような鎖が伸びていた。

近くでははっきりと形を持ち、

先へ進むほどに薄れて消えていく。


ルーベルは震える足で前へ出た。

喉が詰まり、心臓が潰れそうに跳ねる。

だが、その手は輪に届いた。


「うわぁぁぁ!」


掴んだ瞬間、番犬が絶叫した。

三つの首をのけぞらせ、

全身をよじり、霧が乱れ飛ぶ。


「効いてる……!」

アレンの瞳が鋭く光った。


だが獣はなおも暴れる。

鎖を振り切ろうと、霧の牙を乱射し、

黒炎を吐き散らす。

床が溶け、壁が崩れる。


「お、俺ひとりじゃ……もたねえ!」

ルーベルの手は千切れそうに震えた。


その時――遅れていた足音が房に響いた。


「――時間を、引き伸ばす!」


ライゼルが血に濡れた掌を掲げ、叫ぶ。


空気がねじれた。

黒炎が鈍くなり、牙の動きが重くなる。

音が遠ざかり、光が粘つき、

世界全体がゆっくりと沈み込むように遅れた。


――ほんの数パーセントにすぎない。

だが、その僅かな伸びこそが、

生死を分ける決定的な“間”となる。


「今だ、アレンッ!」


その声に、冷たいアナウンスが重なった。


《囚人アレンにスキル〈断鎖の拳〉を付与》

《説明――束縛を砕く特異の拳。

 鉄鎖・霊鎖・呪縛、

 あらゆる鎖を内部より破壊する》


光の刻印がアレンの拳に宿り、

力が腕へと収束する。


「……断鎖の拳」


彼は一歩、大地を踏み砕く勢いで踏み込み、

渾身の拳を振り下ろした。


「――断鎖の拳ッ!」


轟音と閃光。

鎖は粉砕され、番犬が三つの首を絶叫させる。

霧の肉体が裂け、巨体が大きくのけぞる。


「うおおおおおッ!」

ライゼルの光がそれを押し返し、

ルーベルが鎖を必死に引き寄せる。


裂け目が開き、黒い霧がそこへ逃げ込んだ。

番犬は影の残像を残し、

悲鳴を響かせながら闇の奥へと消えていく。


「……逃げたのか」

ライゼルが荒い息を吐き、拳を握った。


静寂。


残された房には、焦げた匂いと、

喰われた囚人たちの影が長く伸びていた。

黒い霧の名残が、まだ漂っている。


ライゼルは視線を床の裂け目に向けた。

そこから吹き込む冷気は鋭く、

どこか別の層へと誘うかのようだった。


「……ここで腐る気はない。進む」


低い声に、アレンは無言で頷いた。

ルーベルは青ざめながら叫ぶ。


「ど、どこにつながってるんだ……!

 出口か、それとも……もっと恐ろしい場所か……!」


それでも二人の背は止まらなかった。

ルーベルもまた、掴んだ鎖の感触を忘れられず、

結局はその背を追うしかなかった。


三人は闇の裂け目に踏み込んでいく。


――脱獄への第一歩は、血と恐怖、

そして“引き伸ばされた時間”の刹那に刻まれた。

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異世界監獄に放り込まれた俺、冤罪だけど塀の中で最強になる 石黒忍 @sinobu0428dx

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