九月の雨、君の声

キートン

傘の下の距離

 雨は静かに降っていた。九月の雨は、夏の名残を帯びた温かさと、秋の気配を含んだ冷たさが混ざり合い、窓ガラスを伝う雫が曇った景色を歪めて見せる。


 由紀はカフェの窓際の席で、持っていた文庫本の頁をめくった。しかし一文字も頭に入ってこない。コーヒーの湯気がゆらゆらと揺れ、彼女の思考もまた、かき乱されていた。


「すみません、お隣空いていますか?」


 低く優しい声がした。振り向くと、背の高い男性が立っていた。黒い傘から滴る雨粒が、彼のジャケットの肩をわずかに濡らしている。


「ええ、どうぞ」


 由紀はうなずき、鞄を自分の方へ引き寄せた。


 男性は礼を言うと、向かいの席に腰を下ろした。彼はノートパソコンを取り出し、真剣な表情で画面に向かい始める。時折、軽く眉をひそめながらキーボードを叩くその指は、細くて長かった。


 由紀は再び本を開こうとしたが、どうしても気が散る。窓の外の雨音、店内のBGM、そして隣の席の男性の存在が、彼女の意識をかき乱した。


 突然、男性が小さく呟いた。


「雨、強くなってきましたね」


 由紀も外を見て、「そうですね」と答えた。会話はそれっきりだったが、何故か彼女の胸の高鳴りは収まらなかった。


 それから一週間後、また同じ雨の日、由紀は再び彼と出会った。今度は図書館で、雨宿りするようにして立ち読みする彼を見かけたのだ。


「あの…」声をかけるのに、由紀は少し勇気が必要だった。「先週、カフェでお会いしましたよね」


 彼は驚いたように由紀を見て、すぐに優しい笑顔を浮かべた。「そうでしたね。よく覚えていてくださいました」


 彼の名前は涼太といい、編集者として働いていると自己紹介してくれた。由紀も自分が小学校の教師であることを伝えると、涼太は興味深そうに目を輝かせた。


「子どもたちと接するお仕事なんて、素敵ですね」


 雨の音をBGMに、二人の会話は自然に続いていった。外の雨はますます激しくなるばかりで、彼らはしばらく図書館に足止めされることになった。


「傘、お持ちですか?」涼太が尋ねた。


 由紀は首を振った。「いいえ、こんなに降るとは思わなくて」


「では、よろしければ」涼太は自分の傘を差し出した。「駅までお送りしましょう。同じ方向ですから」


 二人は一本の傘の下で、肩を並べて歩いた。九月の雨の匂い―湿った土と、まだ残る夏の名残の匂いが混ざった、特有の香りが周りを包んでいた。由紀はわずかに緊張し、自分の心音が雨音に負けぬように鼓動しているのを感じた。


「実は、次に企画しているのが児童書でして」涼太が話し始めた。「由紀さんが教師としてのご意見を聞かせていただけないでしょうか」


 由紀はほっとしたようにうなずいた。


「喜んで」


 それからというもの、二人は会うようになった。雨の日が多い九月だったので、ほぼ毎週のように傘を共有する機会があった。カフェで打ち合わせと称して涼太の企画書について話し合い、時には由紀の学校の話で盛り上がった。


 由紀は涼太に惹かれ始めていた。彼の仕事に対する熱意、細やかな気遣い、そして雨の日特有の柔らかい物言い。すべてが彼女の心を捉えて離さなかった。


 しかし、九月も終わりに近づいたある日、涼太の態度に変化が現れた。何かを言いたげにしながら、いつも途中で言葉を濁すようになった。


「由紀さん」


 ようやく彼が口を開いたのは、九月最後の金曜日だった。雨は小降りになり、夕陽が雲間から差し始めていた。


「実は、来月から東京に転勤することになったんです」


 由紀の胸が痛んだ。彼女は無理に笑顔を作った。


「それは…ご成功ですね。おめでとうございます」


「由紀さん」涼太の声には切実さがにじんでいた。「お会いできて本当に良かったです。あなたとの時間は、私にとってとても特別でした」


 由紀はうなずくことしかできなかった。喉が詰まって、言葉が出てこない。


「最後に、よろしければ」涼太は鞄から小さな包みを取り出した。「これ、受け取っていただけませんか」


 包みを開くと、そこには美しい装丁のノートと、小さな折り畳み傘が入っていた。


「ノートには、由紀さんから聞いた子どもたちのエピソードをいくつか描かせていただきました。そしてこの傘は…」涼太は少し照れくさそうにした。「これからも雨の日には、安全に過ごしてほしくて」


 由紀の目に涙がにじんだ。


「ありがとうございます。大切にします」


 二人は最後に握手を交わし、別れを告げた。由紀は涙をこらえながら、駅までの道を歩き始めた。


 次の朝、目覚めると空は晴れ渡っていた。九月の雨は上がり、代わりに十月の青空が広がっている。由紀は窓辺に置かれた涼太からの贈り物を見つめた。


 ノートを開くと、そこには繊細なイラストと共に、彼女が話した子どもたちの言葉が丁寧に書き留められていた。最後のページには、涼太の直筆のメッセージが添えられていた。


「九月の雨に導かれて出会えたこと、そしてあなたの声に聞き惚れたすべての瞬間を、私は一生忘れません。いつかまた、雨の日に」


 由紀は窓の外の青空を見上げた。もうすぐ雨の季節は終わる。だが、彼女の胸に降り続く九月の雨は、ずっと止むことがないだろう。そして次の雨の日が来るたびに、彼女は涼太との記憶を思い出すに違いなかった。


 彼女は小さな傘を手に取り、そっと胸に抱いた。いつかまた、同じ傘の下で肩を並べられる日が来ると信じて。











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