私の人魚

織田紺

第1話


あしがいたいの、とワンルームのアパートの小さな浴槽の中で人魚が言った。足なんかないのに。かわいそうね。


あたしの人魚。塩水で満たされた浴槽のそばに立つあたしを、怯えた表情で見上げている。ダークブラウンのやわらかなくせ毛の髪を撫でようと手を伸ばすと、びくりと震えて体を縮こませる。逃げる場所もないのに、頭を触られるのは嫌だとせいいっぱい小さくなろうとしている。いい子になってくれたからもう髪は引っ張らないよ。


あたしが見つける前にも叩かれたりしたのだろう。肩を触ったり太ももを撫でたりしても怯えることはなく、むしろすり寄ってくるようになってきたのに、頭だけはいまだに嫌がる。

前の主が恨めしい。あたしはこの子を存分に愛でたいだけなのに、この子の以前の記憶に邪魔される。


あるとき、あたしが浴室に入ると、あしがいたいのと言ってきた。あなたは人魚だから足なんかないよと伝えた。ある、絶対あるんだと泣き喚いて手がつけられなくなったからその日はご飯だけ投げ入れて近づかなかった。

それからは時々あしがいたいからあしをなでてとお願いしてくるようになった。そのたびに足なんかないと否定すると暴れまわる。そのやり取りだけで疲れてしまう。だから最近は浴槽に手を入れてあしを撫でているフリをする。それだけで機嫌がよくなるので安いものだ。あたしの腕がほんのりふやけて肌がこの子と同じ色になったら終わりの合図。塩水は冷たいから、そろそろ厳しくなってきた。




秋が深まる前の時期、泊りがけの研修があった。仕事だから仕方ないけど嫌々研修をこなした。3日くらい家を空けてしまったが、ご飯は近くに置いていたので大丈夫だろう。人魚に、寒くなるし塩水を冷水から温水に変えていいか聞こうと考えながらいつもの通勤路を歩いた。

アパートの前につくと、警察やら野次馬やらで人だかりができていた。いちばん近くにいる人に話を聞いてみると、異臭騒ぎがあって来たようだ。部屋はあたしの隣の隣。誰も住んでないはずの部屋なのに人が死んでたんだって。しかも足と腕がなくて全身ふやけていたんだって。なんで無人なのに鍵が開いていたとかというと、入居準備のための掃除のあと閉め忘れたかららしい。管理会社間抜けだな。


それはそれとして帰りたいのでアパート入口にいる警察に、住人なので入っていいですかと聞くと、ほんとに住んでるんですかって聞かれた。失礼だな。運転するときには使ったことのない免許証を見せて顔と住所があっていることを確認してもらい、部屋に入った。一応警察いるし話のタネくらいにはなるだろうと浴室に直行したら、人魚はいなくなっていた。研修に行くときに手を振って見送ってくれた、返ってもそこに変わらずいるはずの人魚は、影も形もなくなっていたのだ。

浴槽はご丁寧に栓が抜かれていて、空っぽだった。底が塩でほんの少しざらついていた。人魚は色も白くて、ホンモノの海水じゃない塩水が合わないのかちょっとだけふやけてたから、とうとう溶けて流れていっちゃったのかな。さみしい。かなしい。どうしたら。


今はもうあたししかいないこのワンルームのアパートで、浴槽の中に入って静かに泣いた。

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私の人魚 織田紺 @oritakon

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