狐の嫁入りって、狐がかわいそうだよねって。そう言ったら、私は振られた。
石山 京
狐の嫁入り
「狐の嫁入りって、狐がかわいそうだよね」
二人で一つの傘をさしながら、彼に私は言った。
夕茜が私たちを照らして、それでも雨は降っていた。
「お嫁に行くときは絶対に雨が降ってるなんて、狐がかわいそうだよ」
そんな私に、彼は言った。
それで可哀想なんて、狐が可哀想だって。
彼のことは大好きだったけど、何を言っているのかよく分からなかった。
だから、だったのだろう。
数日後、彼は私を振った。
はぁ、とため息を吐いた私を隣のデスクの
私みたいな二十一のガキにはない色気。
高卒で入社して今日で四年目になる私を育ててくれた大恩人だ。
なお、年齢不詳。
知っているはずの人たちは皆、それを聞かれると震え出す。
「そんな顔してたら新人くんに逃げられるわよー」
「……歳下がちょっと不機嫌なくらいで逃げ出すならさっさと逃げとけばいいんですよ」
そう返すと、晴野さんは呆れたように笑った。
私が入社して以降、この会社は高卒を採用しなくなった。つまり、今日から来る新入社員は須く、年上の後輩である。
……ああ、憂鬱だ。
「大学でも歳なんて大して関係ないんだから、大人しく先輩面しとけばいいのにねぇ」
そんなことを言う晴野さんには、尊敬するだけの価値がある。
では、私はどうか。
ちっちゃくて、年下で。優しくもなく、仕事ができるわけでもなく。
……私なら、尊敬なんてしない。ただ先に会社に勤めていただけの人なんて。
「はい、ちゅうもーく。新入社員がやってきたぞー」
少し経って、気の抜けた声がオフィスに響いた。
この声の持ち主は弊社の社長。うちの社長は謎のこだわりにより毎年新入社員を自分で案内する。
大きい会社ではないということもあって社長の負担は大きくないだろうが、肝心の新人の方はどうなのだろうか。私なら嫌だけど、喜ぶ人もいるのだろうか。
閑話休題、弊社社長が新人を連れてきたのだ。
その数は、見る限り三人。
背が低くて可愛らしい女の子、背は普通くらいで童顔なこちらも可愛らしい男の子、そして背が高くて目つきが鋭めでいかつくて小さい子供に怖がられそうな……
いや、まさか。あの男がうちの会社に来るわけがない。赤の他人のはず。
ほら、世界にはその人にそっくりな人が三人いるとか言われてるし、目の前の新人くんがアイツである可能性は四分の一。
半分より小さいから実質ゼロと同じと言って良いだろう。知らんけど。
申し訳ないことに、他の二人の自己紹介は右から左に抜けていった。名前すら覚えていない。
あとでジュースでも奢るからもう一回聞かせてくれないだろうか。
それはともかく、自己紹介は
まるで不機嫌にこちらを睨んでいるかのように顔を顰めている新人は、きっとそれがデフォルトなのだろう。
なぜそれが分かるのかは、考えたくもない。
気合を入れて、その挨拶に耳を傾ける。
「本日よりこの部署に配属となりました、山野
時が止まった。
もっとも、止まったのは私の思考だけで。同僚は皆、その無難な挨拶に無難な拍手で応えていて。そして私の体は、近くにあった投げやすいものを掴みにいっていて。
「————なんでアンタがこんな会社に入ってくんのよ!?」
私の手から放たれた日本最速百七十キロのワイヤレスマウス千五百円は、見事に霧矢の口元にストライク投球された。
バシッとそれを片手で受け止めたアイツは今度こそ本当に不機嫌そうに、私を睨んでいる。
ぽろ、と。マウスの裏面から電池が、まるでこれからの平穏な生活のように、こぼれ落ちた。
はぁ、と今日だけで数えきれないほど私の内から溢れ出たのは重いため息。
あのあと、大切に扱うべき新入社員をコイツ呼ばわりし、社長の前でこんな会社と
うちイエローカード一枚分を社長からの説教により消費し、レッドカード一枚を反省文により相殺した。
残ったのは、新入社員をいきなり怒鳴りつけ、備品を投げつけたという不名誉な称号だけである。
これでまた一つ、新人が私に話しかけづらくなった。
同期と謎の関係を持っていそうな先輩なんて、あまりにも地雷がすぎるだろう。
「やらかしたねぇー、
ビールが入ったグラスをテーブルに叩きつけ項垂れていた私の肩を叩いたのは
今は新入社員歓迎会という名のタダ酒の最中だ。会計は全て社長持ち。
汐ちゃんというのは当然私のことで、海野
ちなみに過去、私を「汐」の部分だけを取って呼ぶのはもう一人だけいた。まあ、そいつの場合はちゃんなどつけずに呼び捨てだったが。
「それで? あの
ピクッと、最後に私の肩が震えた。
なぜこの先輩はこうも鋭いのか。人生経験か。
心なしか、晴野さんの眼差しが強くなった気がする。
「ふうん、元カレかぁ……なんで別れたの?」
追求の手を緩める気は、どうやらないらしい。
私と声をではなく表情を通じて会話する晴野さんを、私はもう止められそうにないなと諦めた。
「…………私が、悪かったんですよ。あいつのことを考えている雰囲気だけ出して、結局は自分のことだけ考えてて。だからあいつには、不満が少しずつ積もっていったんですよ」
「……ふうん」
適当な返事。
そっちから聞いておいて、という気持ちにはならなかった。
おそらく、私が思ったよりも真面目に答えたことが、そして出会い頭にあんなことをしておきながら自分が悪いと認めていることが予想外だったのだろう。
珍しく目を見開いている、ような気もする。
そう、私が悪かったのだ。
あのときの霧矢の言葉、今ならなんとなく理解できる。
嫁入りの日が雨でかわいそうかどうかは私が決めるものじゃない。もしかしたら、望んでそうなっているのかもしれない。
同情するのは、相手がそう願ったときであるべきだ。
私には、すべての物事を私基準で考える癖がある。
私だったら嬉しい、私だったら悲しい。それをされるのは他人なのに、されたときの感想は自分基準で考える。
その癖は今も、治せていない。
私の心には、あのときからずっと、小雨が降り続けている。
「山野くーん。ちょっとこの子どうにかしてー」
うだうだと言い続ける私に、とうとう
あろうことか、助けを求めた先は今も同期と先輩に囲まれ飲み続けているアイツ。晴野さんの声に反応して、ギロリとこっちを見遣った。
何あの目つき、怖すぎ。女の子泣いちゃうよ。ぜったい彼女いたことない。
自分のことを棚に上げて現実逃避をしていた私の努力は、一瞬にして裏切られた。
そうだよね。睨んでる私なんかよりニコニコの晴野さんの方が怖いよね。
ビール片手に歩いてきた
「じゃ、あとは若いおふたりでー」
入れ替わるように、晴野さんが席を立った。去り際の言葉は、聞かなかったことにしよう。
アイスピックよりも鋭い目つきの男と、ビールよりも苦い顔をした女が見つめ合う。
どちらが先に口を開くかのチキンレース。
先に折れたのは、私だった。コイツ、目つき怖すぎ。
「……ごめん」
「……何が?」
「……いろいろ」
「……ふうん」
そこで会話は、一度途切れた。
マウスを投げつけたことも、それを理由に目立たせてしまったことも。
あの頃不満をわかってあげられなかったことも、それをまだ治せていないことも。
私が、まだ引きずっていることも。
全てを込めた謝罪を霧矢はきっと、そうと分かって受け入れてくれた。
コイツは、こういう人間なのだ。
気遣いができて、優しくて、言葉にしなくても伝えたいことを受け取ってくれる。
————だから、忘れられない。私なんかには、釣り合わないのに。
「なあ、海野さん」
俯いて黙り込んでいた私に、霧矢が声をかけた。
あの一年半が側溝に流れていってしまったみたいに、初めて私たちが出会ったときのように、私を呼んだ。
「それ、やめて。続けるなら私も先輩って呼ぶ」
あの頃の、付き合う前みたいに。反射的にそう言ったら、あいつは困った顔をした。
怒ったのではない。困ったのだ。
……本当に、自分が嫌になる。
「……
「いい。どうせすぐ霧矢の方が上司になる」
汐、って。霧矢のバリトンボイスで呼ばれて跳ねた心臓を抑え込む。
高卒と大卒なんてそんなもの。数年の違いなんてないようなもの。
だからギリギリ、私のわがままは許される。
「……霧矢は今、彼女いるの?」
セクハラ、パワハラ、ラブハラ。ハラスメント三種盛り。
相手が霧矢でなければ、今日四枚目のイエローカード待ったなしだろう。
「……いないよ」
それでも彼は素直に答えてくれる。
よく喋るタイプではない。しかし、聞けば隠すことはない。
そんな性格は、四年の月日が経っても変わっていないようだ。
「汐と別れてからは、作ってない」
ヒュッと、私が息を呑んだ。
その音は騒々しい店の中でも、妙に耳に残った。
「……俺はたぶん、汐が思ってるより汐のことが好きだったんだよ」
彼に目を合わせず、ただじっとテーブルを見つめながら、その言葉に耳を傾けた。
「いつの間にか汐と比べて悲しませるくらいなら、最初からいない方が良い」
やめて。
燃えてしまう。
顔が、心が、未練が、浅ましい希望が。
「……私が霧矢の気持ちを理解してあげられなかったから、あなたは私を振ったの。比べる価値なんてない」
「あるよ、俺には」
ない、と思う。
でももし、霧矢が私にそれだけの価値を見出してくれるなら——
アルコールのせいで赤くなった顔と、アルコールのせいで潤んだ瞳で、私は彼を見つめた。
四年ぶりに真っ直ぐ見つめた彼の顔は、少しだけ大人びていて、あのときはなかったピアスの穴が空いていた。
「……霧矢は、私のことが嫌いじゃないの?」
「嫌いじゃない」
グビッと一口ビールを飲み、霧矢は言葉を続ける。
「……あのときは、俺も悪かったんだよ。確かに汐も良くなかったけど、それだけだ。別に振られるほど、汐が悪かったわけじゃない」
霧矢から目が離せない。
今度は彼が俯いていて、その瞳は、私の願望がそれを歪めていなければ、過去を後悔しているようだった。
「勤務中に寝て、訓告なしに免職になるみたいなもんだよ。
そんなことはない。昔の私なら、そう言っていた。
でも、霧矢はきっと本気でこれを言ってくれている。
それを否定しないことも、霧矢の言う擦り合わせの一つなのかもしれない。
それを、この四年で私は学んだ。
「汐も、変わったみたいだな」
「……変わって、ないよ。変われて、ない」
学んだだけで、実践できているとは言い難い。
頭あるその考えを置いて、言葉は先に出てしまう。そんなことが多い。
「変わってるよ。変わろうとしてる。そこが変わってる」
「…………ありがと」
どうしよう、涙が
一番認めて欲しかったことを、一番認めて欲しい人に認めてもらえた。
たとえそれが自分では納得できない程度のものであったとしても、泣きたいほどに、嬉しい。
「……いいの? そんなこと言って。分かってるんでしょ、私の気持ち」
私の喉から出たのは、細雨よりもかぼそい声。
駄目とか、分かってないとか、万が一にも言われてしまったら、私はここから全力で走って逃げ出すだろう。
でも霧矢はそんなこと言うはずがなくて。
だから私の震える声は、所詮見せかけでしかなくて。
だけどそれを知った上で、霧矢は言葉を返してくれるはずで。
「……いいよ。五年半、俺も同じ気持ちだ」
ほら、当たった。
だって私は、彼のことを誰よりも知っているから。
空いてしまった四年間は、これからゆっくり埋めていく。
「私に付き纏われるなんて、霧矢もかわいそうだね」
夕焼けみたいな暖色光を涙に反射させて、私は言った。
フッと口元を緩めて、霧矢は口を開く。
「それで可哀想って同情するのは、俺が可哀想だろ」
狐の嫁入りって言葉は狐がかわいそうって、彼女が言った。
二人で一つの傘をさしながら、夕暮れの小雨を凌いでいた。
お嫁に行くときは絶対に雨なんてかわいそう、ということらしかった。
自分の考えとは合わないなと、そう思った。
「それで可哀想って同情するのは、狐が可哀想だろ」
俺は彼女にこう漏らした。
彼女の色眼鏡は色が少し濃くて、俺はまだ少し子供だった。
だから、俺は彼女を振った。
数年後、彼女は俺と再会して、結ばれた。
狐の嫁入りって、狐がかわいそうだよねって。そう言ったら、私は振られた。 石山 京 @K_ishiyama
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