走馬灯
川北 詩歩
記憶の海
冷たい海水が体を飲み込む瞬間、
東京の喧騒を抜け出し、夜の湘南の海にたどり着いた彼は、靴を脱ぎ捨て、波の音に導かれるように海へ歩みを進める。
――もういい、すべてを終わらせよう。
水面が顔を覆い、肺が圧迫される。苦しいはずなのに湧きあがる安堵。すると、視界がぼやけ、頭の中で何かが回転し始めた。
走馬灯――死の淵で人生を振り返るという、あの現象だ。だが、博樹が見たのは、希望や温かな記憶ではない。彼の人生の最悪の瞬間だけが、まるで嘲笑うように次々と浮かび上がってきた。
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最初の光景は小学校の教室。9歳の博樹は、クラスの人気者だった同級生、翔太に、秘密の宝物を自慢していた。父親が買ってくれた、キラキラ光る小さな模型の車。
あの日、翔太は笑顔で「貸してよ」と言った。信じた博樹は車を渡したが、翌日、翔太はそれを壊し、笑いながら「こんなの安物じゃん」とクラス中に見せびらかした。
子供たちの笑い声が教室に響き、博樹はただ俯くしかなかった。あの瞬間、信頼というものが砕け散った。
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場面は変わり、高校の体育館。17歳の博樹は、バスケットボールの試合で決勝シュートを外した。突き刺さるチームメイトの視線。
「お前、なんでいつもヘタクソなんだよ」とキャプテンが吐き捨て、観客席のクラスメイトたちはクスクス笑った。
博樹はシュートを練習してきた。毎日、夜遅くまで体育館に残って。でも、結果はいつもこうだ。誰も努力を認めてくれなかった。走馬灯は、シュートがリングに弾かれる瞬間をスローモーションで何度も繰り返した。
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次に浮かんだのは、5年前のワンルームマンション。恋人の美夏が荷物をまとめている場面だ。「悪い人じゃないけど、なんか…物足りないの」と彼女は言った。
博樹は必死で引き留めた。結婚の話までしていたのに、彼女の目は冷たかった。「もっとキラキラした人生が欲しいの」と言い残し、彼女は出て行った。
その後、彼女がSNSで金持ちの男と海外旅行を楽しむ写真を上げているのを見たとき、博樹の心は完全に折れた。走馬灯は、美夏の背中がドアの向こうに消える瞬間を執拗に再生した。
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さらに場面は変わり、会社の会議室。去年の冬、博樹は上司に呼び出された。3年間、寝る間を惜しんで取り組んだプロジェクトが、突然の予算削減で中止になった。「君の努力は認めるけど、結果が出なきゃ意味ないよ」と上司は冷たく言い放った。
博樹のデスクには、徹夜で作った資料が山積みだったのに。同期は次々と昇進し、博樹だけが取り残された。走馬灯は、上司の冷笑と同僚たちの同情の視線を何度も映し出した。
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最後に現れたのは、つい昨日の光景だ。親友だと思っていた俊介に借金の肩代わりを頼んだ。俊介はかつて、博樹が生活費を貸して助けた相手だった。
「悪いな。今、俺もキツイんだ」と俊介は目を逸らし、すぐに話を変えた。
その夜、俊介がSNSに高級レストランでの写真をアップしているのを見つけ、すべてを悟った。走馬灯は俊介の薄笑いと、スマホ画面に映る豪華なディナーを交互に映し、博樹の胸を
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海の底で、博樹の意識は薄れていく。走馬灯は容赦なく最悪の記憶を繰り返す。なぜ、幸せな瞬間は一つもないのか。家族と笑い合った夏祭り、初めてのボーナスで買った時計、美夏と過ごした穏やかな夜…
――そんな記憶はどこにもなかった。
まるで人生が、失敗と裏切りだけを切り取って嘲笑っているようだった。
「もういい…やめてくれ…」
博樹は心の中で叫んだ。だが、走馬灯は止まらない。幼少期の嘲笑の声、学生時代のブーイング、元恋人の冷たい目、上司の軽蔑、友の偽りの言葉。それらがぐるぐると回り続け、意識を飲み込んでいく。
最後に走馬灯は真っ暗な海の底に溶けていく。博樹の体は波に揺られ、静かに沈んでいった。走馬灯が見せたのは彼の人生の光ではなく、闇の集大成だった。誰も手を差し伸べず、誰も彼を救わなかった。
彼の全ては、冷たい闇と波に飲まれる。
海はただ、静かに彼を抱きしめた。
(終)
走馬灯 川北 詩歩 @24pureemotion
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