第3話 枕元の音
朝。履歴に、新しい一行。
「2025/09/16 02:32」
灰色のサムネイルは相変わらずバーも表示も持たない。タップ。最初に来たのは、低い風切りのノイズだった。耳に近い。マイクが衣擦れを拾うような擦過音が、規則的な呼吸に混ざる。
映像が持ち上がる。視点は枕の高さ。布団の布目が画面いっぱいに広がり、繊維の影がゆっくり横に流れる。カメラは床に置かれてはいない。何か柔らかいものの上、枕元に、顔の高さで置かれている。
映像の中の俺が、微かに寝返りを打つ。鼻先から、白く見えるほど薄い息が吐き出され、レンズの端に膜のように伸びる。音がわずかに曇る。
その瞬間、現実の頬に冷たい気配が触れた。窓は閉めてある。エアコンは止めたまま。
音量を上げる。スピーカーから漏れる呼吸音は、鼓膜に当たって跳ね返り、部屋の空気に混ざる。自分の呼吸を止めると、映像の中の呼吸が一拍遅れて続く。その遅れが、時間の継ぎ目みたいに見えた。
イヤホンを差す。片耳だけ入れて、もう片方は外に垂らす。左耳の内側にじかに吐息が触れる。左右を入れ替える。外している側の耳に、依然としてうっすらと息の気配が残る。スピーカーからではない。部屋の空気の中に、同じ息がある。
映像の枕元で、布がわずかに沈む。重さはない。ただ、そこに顔の形が重なる。レンズが少しだけ回転し、俺の口元に寄る。
思わず停止ボタンに指を伸ばす。親指が画面に触れる直前、レンズ面に曇りがふっと広がった。映像の中の現象のはずなのに、俺の親指の腹にも、湿った冷たさが残った気がした。
止める。部屋は静かに戻る。冷蔵庫のハム音が、さっきより低く響く。観葉植物は動かない。
スマホの黒い縁に、小さな結露の点がひとつ、ついていた。拭えば消える。拭う前に、どこからついたのかを考えた。
考えること自体が、もう、引き金になっている。
履歴を閉じる。トップに戻る。「あなたへのおすすめ」の帯は、昨夜よりも顔が多い。
机に置いたままのスマホのスピーカー穴に、しばらく耳を近づける。無音。
耳を離す。床板が、ごく小さく、乾いた音を返した。
俺はその音を、映像の中の枕元の微動と同じ種類のものとして、受け入れてしまった。
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