第19話 エピローグ

――春の風が、少しだけ大人びていた。


その日、僕はしおりの高校の正門から少し離れた路地に車を停めていた。朝から晴れていて、どこか心も明るかった。後部座席には、昨日のうちに街の花屋で選んだ少し大きめの花束が乗っている。薄いピンクのラッピングに、アイボリーのリボン。これがしおりの制服に似合うかどうかは、まだ見たことがないからわからない。


やがて、校門からぞろぞろと卒業生たちが出てくる。


──あれ?


華やかなブーケを胸に飾った女子たちも、ちょっとスカした態度の男子たちも、みんな制服じゃなかった。

そういえば、公立なのに制服じゃない高校だって聞いたことがある気もしてきた。


しおりの制服姿をちょっと、いや、かなり楽しみにしていた僕は肩透かしを食らった気分だったが、そんな勝手な期待は置いといて、やはり卒業式の風景は華やかさと寂しさが入り混じっていた。

中には母親に肩を貸されて泣き崩れている子もいた。春は、何かを終わらせる。


その中に、しおりの姿を見つけた。

少し先を歩いている友達に手を振っている。

マーメイドラインの黒いワンピースに、首元にはチョーカー、左手には、黒い筒――卒業証書が入っているやつだ。

右肩からは小さめのバッグ。しおりのドレスアップした姿を見るのはこれが初めてだったが、不思議なことに、何の違和感もなかった。


彼女がキョロキョロとあたりを見回し、僕を見つけた。

ぱっと目を細めて、すぐに駆け寄ってくる。スカートの裾が軽やかに揺れる。


「卒業、おめでとう」


僕はそう言って、花束を差し出した。


「ありがとう」


その瞬間、近くにいた男子生徒から「ひゅーう!」と間の抜けた冷やかしが飛んだ。

しおりが照れ笑いを浮かべ、僕の腕を軽く引いた。

あの彼氏もこの群れの中にいたかもしれない。でも、もう関係のない話だった。春は、何かを超えていく。


「どうぞ、お嬢様」


僕は助手席のドアを開けて、おどけた口調で言った。

しおりは肩をすくめて笑い、スカートを手で抑えながら座った。花束を膝にのせる。


目的地は、郊外の洋風居酒屋。トオルが「卒業祝いで飯でも食いましょう」と言い出したらしく、あおい、りかこ、小清水くんも顔を揃えることになっていた。


到着すると、店内はすでににぎやかだった。どうやら僕たちが最後だったようだ。


花束を抱えたしおりと、やや緊張気味の僕が顔を出すと、「ひゅーう!」の第二弾が店内を突き抜けた。

あおいが、すかさず立ち上がって両手を広げた。


「おめでとー!しおりちゃん!」


「…って、中田と一緒ってことは、ついにそういうこと!?」


と、りかこが悪戯っぽく茶化す。


「ちょっと、やめてってば……」


しおりが小声で言って、僕の袖をぎゅっとつかんだ。

その仕草だけで、何となく嬉しくなる。


案内されたのは奥の大きなテーブル。すでに料理が何品か並んでいた。唐揚げ、だし巻き、シーザーサラダ……しかしどれも、やや想定と違った。


唐揚げは衣がしんなりしていて、だし巻き卵はやたら固く、シーザーサラダはマヨネーズの味しかしなかった。

そしてメインは、あろうことかカレーライスだった。


「トオル。お前、予約の時に“卒業祝いのパーティー”って伝えたんだよな?」


りかこがジト目で問う。


「う、うん。言ったつもりだけど……たぶん。でも、予算とか……」


「おいおい、そこ大事やろ!」


と、小ヤンばりのツッコミが入る。


「まあ、合宿所のご飯よりはマシやろ」


誰かが言って、皆が「それは確かに」と笑いながら頷いた。思い出話に花が咲く。教習所での出来事、フェリーでの別れ、農道のおじいさん、小ヤンの白目。どれも、懐かしくて、どこかくすぐったかった。


「僕、飲みもん追加しよかな」


と小清水くんがメニューをのぞき込みながら呟いた。


「じゃあ俺コーラ」「ジンジャーエールで」などと各自頼み始める中、小清水くんが得意げな顔で言った。


「僕、“ノンアルコールハイボール”で」


一瞬、テーブルが静かになった。


「……それって、ただの炭酸水じゃないの?百歩譲って炭酸麦茶」


とあおいが控えめに指摘する。


「いや、そこに“ハイボール感”があるやん。名前に。」


「味は?」


「飲んでみんとわからんやん」


「いや、わかるやろ普通……」


とトオルが呆れた顔をする。


やがて届いた“ノンアルコールハイボール”をひと口飲んだ小清水くんは、数秒の沈黙のあと、小声でぽつりとつぶやいた。


「……うん、これは炭酸麦茶やな」


その素直すぎる感想がツボに入り、全員が吹き出した。


「最初から言うたやろ!」


「いやでも、名前で味も変わるかもしれんって……」


しおりは笑いながら


「小清水くん、ほんと変わらないね」


と言い、あおいが


「でもさ、ちょっと可愛いと思っちゃうよね、こういうの」


と返すと、りかこが


「わかる~」


と笑った。


気がつけば、テーブルの空気は一気にほぐれていた。


やがてパーティーはお開きとなり、みんなに別れと再会の約束をして、僕としおりは再び車に乗った。


しおりの家は、フェリー埠頭の近くにある新しい住宅地の中。そこに向かう途中、大きな橋を渡る。

その最上部に差し掛かった時、僕たちの前に広がった港の夜景は、まるで宝石箱だった。


青白い水銀灯に照らされた埠頭。

オレンジ色のナトリウム灯に染まったガントリークレーンが、巨大なキリンのように佇んでいる。

コンテナの壁には影が浮かび、海には船の明かりが波に揺れていた。


「滲む街の灯を~」


僕はハンドルを握りながら、思わず口ずさんでいた。


「大阪ベイ・ブルース~♪」


しおりが笑って、サビをハモってきた。

やけに上手くて、ちょっとびっくりした。


橋を降りて高速を抜けると、しおりの家はすぐそこだった。

でも僕たちは、まっすぐ帰らずにフェリー埠頭の岸壁へと向かった。


そこには、あの白い船がいた。

ちょうど出港するところだった。汽笛が、夜の空気をゆっくり震わせる。


「懐かしいね」


しおりが言った。


「ついこの前、あれに乗って帰ってきたのに、もうずっと昔のことみたい」


「ほんまに」


僕は頷き、顔を寄せてしおりにキスをした。

彼女がふふっと笑って言った。


「……カレー味のキスだ」


僕たちは顔を見合わせて、また笑った。

その笑いの中に、これからの静かな日々が滲んでいた。


春の夜風が少し強くなり、車の窓を叩いた。

そしてその音にまぎれて、僕たちはもう一度キスをした。

今度は、ちゃんとしたやつを。


◇    ◇    ◇    ◇


着陸態勢のアナウンスで、僕は再び現実へ戻された。

窓の外の雲海は、あの日、宮崎の空で見た光景とどこか似ていた。

あれから40年。仕事も家庭も、それなりに生きてきた。

けれど、胸の奥にずっと挟まったままの一枚の栞がある。

本を閉じても、読み終えても、取り出せないままの栞。

彼女の声と笑顔だけが、今も僕の人生の中で静かに光っている。


あの声が、ふいに今も耳元で響く気がする。



「如月の栞」完

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如月の栞 宮滝吾朗 @CALVO

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