第18話 あの時代を忘れない
一人で受けに行った最終の学科試験は、もちろん一発で合格し、僕は免許を手に入れた。
電光掲示板に自分の番号が光った瞬間、「やったー」としおりのあの声が聞こえた気がしたが、もちろん幻聴だった。
4月からの新生活のために借りた部屋は、キッチンと6畳の部屋だけなのに、妙に広く、妙に静かだった。
僕がイメージする「京都の学生生活」を実現すべく選んだ、木造2階建ての風呂なしアパート。
近くには、賀茂川と高野川が合流する三角州があった。
部屋はまだ畳だけでなにもない。
あるのは、入学祝いにと親が買ってくれた、駐車場のスプリンターカリブだけだった。
宮崎から帰ってきた一週間ほどは、空がずっと穏やかだった。
少し霞んだ青い空、ゆっくりと吹く風、窓辺でまどろむ陽光──まるであの土地の二月が、まだ続いているかのようだった。
あっちでは毎日なにかしら事件が起こっていた。
教習中に飛び出すじいさんや、誰かの恋のターンオーバー。あるいは、学科の答え合わせで一喜一憂する誰かの笑い声。
でも今は何も起こらない。誰も叫ばない。誰も笑わない。
──何より、しおりがいない。
あのバニラの香りのするサラサラの長い髪も、甘くて、少しハスキーで、ほんのり鼻にかかったミルキー・ボイスも、この家のどこにも存在しない。
少しずつ家具を買い集めて自分の為の場所を作っていった。
"2口のガスコンロとちゃんと使える大きめのシンク"にこだわってこの部屋の決め手になったキッチンの調理器具。
実家から持ってきたオーディオセット。
ベッドのマットレスだけを直接畳の上に置いて圧迫感を軽減し、部屋の片隅には白くて丸い木の折りたたみ式ビーチテーブルとチェア。
カーテンレールにはクリップライトを付けて間接照明を気取った。
畳の部屋なのに。
僕は毎日ペーパーバックを読み、コーヒーを淹れ、チェット・ベイカーの『Sings』を擦り切れるほど聴いた。
そして時々、意味もなく一人でドライブした。どこへ行くでもない、ラジオだけが話し相手の時間。
その日も、午後の道をだらだらと流していた。
車のラジオから、FM大阪のマーキーの声が流れてくる。
「さて次の曲は、この季節、学生時代を振り返って切なくなる人も多いんじゃないでしょうか。サザンオールスターズで、『Ya Ya(あの時代を忘れない)』。」
そして桑田さんの声が、「思い出すのは、Better Days…」と優しく歌い出した瞬間、不意に車内にふわっとバニラの香りがした。
あの、少し鼻にかかった胸の奥に沁みこむような声が、確かに僕の耳元に届いた気がした。
「──桑田さんの学生時代の音楽サークルの名前なんだよ」
ああ、あの時。しおりが話してくれた、あの会話。
穏やかで、愛おしい日々。
僕は、なんであんな格好をつけていたんだろう。
「君が会いたいなら、そっちがケジメをつけて連絡してこい」
だなんて。
もっと見苦しく、かっこ悪く、情けなくても、すがりつけばよかった。
決められないしおりに振り回されて、確かに僕は苦しかった。
でも、見苦しくすがりつけば、しおりは今でも時々、僕の隣で笑ってくれていたはずだ。
「恋のバカンス」だって一緒に歌えただろう。
◇ ◇ ◇ ◇
ある日、一度だけあおいから電話があった。
無事に卒検までクリアして、昨日帰ってきたという。僕の番号は、どうやらトオルから聞いたらしい。
「しおりちゃんと仲良くやってる?」
「ああ、うん、まあね…」
僕の曖昧な返事に、電話の向こうのあおいはすぐに察したようだった。
「ん?どうした?うまくいってないの?」
「フェリーで別れた」
「え~!!なにそれ???」
僕はざっくりと事の成り行きと、帰ってからの日々を話した。
あおいは少し呆れつつも、明るい声でこう言った。
「それはさ、しおりちゃんが良くないよねー。…まあ、気持ちはわからないでもないけど」
「そしたらまた、私が慰めてあげよっか?」
返事に困っていると、彼女はあの、懐かしいケラケラとした笑い声を上げた。
「本気で寂しくなったら電話してきなよ!ドライブくらい、付き合ってあげるからさ。じゃあねー!」
電話は軽やかに切れた。少しだけ心が軽くなった。
◇ ◇ ◇ ◇
さらに数日が過ぎた。
その朝は、久しぶりに雨が降っていた。
まるで空が、忘れていた感情を急に思い出したかのように、静かに、優しく、泣いていた。
僕はうんざりした気分でコーヒーを淹れ、マイルスのプレスティッジ・マラソン・セッションの最初の一枚に針を落とした。
「My Funny Valentine」が流れ始め、レッド・ガーランドのピアノが、まるで迷子になった時間を手探りで探しているように響いていた。
ちょうどそのインプロヴィゼーションが始まったころだ。
電話が鳴った。
まるで季節の境い目に、知らない誰かがそっと触れたような──言葉になる前の感情が、部屋の空気を少しだけ震わせた。
受話器を取る。声はない。
電話ボックスだろうか、薄い屋根を雨が優しく叩く音だけが聞こえた。
そして──バニラの香りが、またふわりと鼻先をくすぐった。
「しおり?」
声が出ていたかどうか、確信がなかった。もう一度。
「しおりなん?」
その瞬間、小さく──すんっという鼻をすする音が聞こえた。
それだけでわかった。間違いない。しおりだった。
「私…」
くぐもった涙声。けれど、あの声だった。
少しハスキーで、少し鼻にかかった、甘い甘い声。
僕の胸のずっと奥、普段は閉じている場所へ、するりと忍び込んでくる声。
雨音と一緒に、しおりの声が届いた。
「私、やっぱり…君がいない生活は、考えられない。」
「私のそばにいて。私の横にいて。一緒に笑って。一緒に歌って。一緒に、どうでもいい話をして。」
それは、閉ざしていた窓の鍵が、音もなく外れるような感覚だった。
ずっと遠くに置き去りにしたと思っていた季節が、何事もなかったような顔で、静かに戻ってきた。
声にならない喜びが、胸の内側でふつふつと熱を持ちはじめ、呼吸のたびに少しずつ形になっていく。
僕はただ、じっと耳を澄ませた。
心のどこかが、音もなく震えていた。
「ねえ、しおり。」
「ん?」
「まずは、どこに行こう?」
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