怪文書

伽墨

全てはクソになる

クソとクソからなる正真正銘のクソのエコシステム、それがSNSだ。


まず、ユーザーは基本的に全員クソだ。何がクソなのか。見ればすぐにわかる。どいつもこいつもクソみたいな投稿しかしていない。お前が昼何を食べようがどこで海水浴していようがどうだっていいのに、クソみたいな投稿をクソまみれの画像と共に垂れ流す。それに群がる奴らもクソだ。やれ箸の置き方がクソだの、やれヘタクソな顔面の修正をしたからビーチパラソルが顔面と一緒に歪んでてクソだの、そんなクソどうでもいいクソにクソのようにコメントを重ねていく。ここにすでにクソのクソたる所以がある。


しかしクソなのはユーザーだけではない。プラットフォームも当然クソだ。クソのエコシステムというからには全てがクソなのである。クソのクソみたいなインプレッション、クソのクソみたいなエンゲージメント、その他クソどうでもいいクソ数字が換金されるクソの仕組み。マーク・ザッカーバーグやイーロン・マスクがクソなのは言うまでもない。こいつらはクソのエコシステムの頂点に座する特大のクソであり、クソのクソみたいなアテンションを換金するというクソのアテンションエコノミーを、クソまみれのクソとしてそびえ立たせている。


そしてそのクソを支えるのはクソのデータセンターであり、クソのクラウドサーバーである。そこにあるのはクソのクソみたいな文字列やクソの画像をひたすら蓄えるだけのクソだ。冷却ファンはクソみたいに回り続け、二酸化炭素をクソみたいに吐き出し、地球をクソみたいに温暖化させる。すなわちクソがクソをクソにして、クソをさらにクソ化させる。これがクソの循環であり、クソのクソたるエコシステムの正体である。


言うまでもなく、広告代理店もクソだ。クソのタイムラインにクソみたいな広告をねじ込み、クソのユーザーがクソみたいにスワイプするのを待っている。こいつらの操るアルゴリズムもクソ、サードパーティーもクソ、そもそもクッキーがクソなのであり、つまり広告代理店とはクソのエコシステムのクソみたいな象徴だと言える。クソの興味をそそるクソみたいな広告を、クソみたいなユーザーの個人情報を推定し、ターゲティングし、クソのように垂れ流す。紛れもないクソだ。明日突然全ての広告代理店というクソが消滅したとしても誰も困らないだろう。なぜなら、クソだからだ。クソがなくなったところでそれは《無-クソ》であり、つまるところ結局クソなのだ。それに「誰も」と書いたが、この「誰」が指しているのも当然クソなのだから、クソがなくなってもクソは《無-クソ》として依然として存在し続けており、誰=クソもクソのように存在し続けているのである。


ここで哲学を召喚せざるを得ない。前期ウィトゲンシュタインはこう言った。「クソどうでもいい語り得ぬクソには、クソどうでもいいが故に、クソみたいに沈黙せよ」と。しかし我々は沈黙できない。なぜなら、クソを語らぬこともまたクソだからだ。沈黙しようとするその瞬間に、「沈黙する」というクソが立ち現れる。


後期ウィトゲンシュタインに至れば、「クソの意味はクソの使い方にある」となる。罵倒としてのクソ、賞賛としてのクソ、便通報告としてのクソ──それらすべてはクソである。つまりクソの言語ゲームの中で、クソは無限にクソを生み出し、クソの網目に我々を閉じ込める。


ハイデガー的に言えば、我々は常に「クソの世界-内-存在」として投げ出されているのであり、存在とはクソ、クソとは存在なのである。


ラカンに従えば、クソはシニフィアンである。シニフィアンとしての「クソ」は無限に連鎖し、クソがクソを呼び、クソがクソを規定する。シニフィエはすでに失われており、我々がつかみ取れるのは「クソ」という音声と文字列だけである。ゆえにクソは意味の欠如そのものであり、その欠如こそが欲望を駆動する。SNSのタイムラインに溢れるクソとは、まさに欲望の残滓としてのクソである。


デリダを持ち出すなら、クソは常に差延する。クソは完全には現れず、常に次のクソへと遅延し、ズレ続ける。つまり我々は決して「純粋なクソ」を手に入れられない。クソは常に書き換えられ、次のタイムラインへと流れていくのである。


当然、東洋でもクソどうでもいいクソみたいなクソを考察するという営みが行われてきた。たとえば「色即是空、空即是色」である。これはつまるところ「クソはクソであり、クソもまたクソだ」という同語反復以上の意味を持たないクソである。書き換えるなら「クソ即是クソ、クソ即是クソ」である。何の意味もない、クソみたいなトートロジーそのものでしかない。


結論を言えばこうだ。西洋も東洋も、古代も近代も現代も、すべてクソをクソとして考察してきただけである。そしてその営み自体がクソであり、哲学とはクソであり、クソとは哲学なのである。


これまでの話を総括すると、地球とは46億年かけたクソだ。地殻変動も進化も文明も、すべてクソの堆積にすぎない。そしてそのクソの上でさらにクソを積み重ねるように、人間はSNSというクソを作り出した。では宇宙とは何か。宇宙とは138億年かけたクソなのである。ビッグバンは最初のクソ、銀河はクソの集合体、恒星は燃えるクソ、ブラックホールはクソを飲み込むクソだ。もしアインシュタインがここにいたなら、E=mc²をこう書き換えただろう──「クソ=クソクソ²」。クソはクソに等しく、クソの速度でクソを増幅する。これが宇宙の法則であり、クソの方程式である。


かつて「宇宙船地球号」という標語が流行した。だが、これまでの議論を踏まえれば、これは「クソ船クソ号」と改名せねばならないことは論を俟たない。人類はこのクソ船に乗り込み、クソの大海を漂流し続けている。燃料はクソであり、航路もクソであり、最終的な目的地もまたクソである。


そして近年、このクソ船クソ号は「SDGs──サステナブル・ディベロップメント・ゴールズ」と名前を変え、再びクソみたいな議論をクソのように垂れ流している。しかしここまで読んだなら分かるだろう。サステナブル・ディベロップメント・ゴールズとは、要するに「クソ・クソ・クソ」のことである。つまりクソの三連符であり、そこにはクソが三つ並んだという以上の情報がない。だがこの「クソ・クソ・クソ」には、さらに17のクソどうでもいい目標が掲げられている。すなわち、クソの三連符が十七連符に分解されているのである。クソの総量としては3つのクソだが、それが17のクソになっているんだから手に負えない。十七連符など誰も演奏できないように、誰もまともに達成できないクソである。


結局のところ、クソはクソであり、クソはクソに従属し、クソによってクソとなる。クソを避けようとするクソもまたクソであり、クソを指差すクソもクソを語るクソもクソを読むクソもすべてクソだ。クソがクソをクソするとき、そこにはクソしか残らない。クソのためのクソによるクソがクソとしてクソに帰結する。


クソはクソでありながらクソでなく、しかしクソであるがゆえにクソでなく、クソでないがゆえにクソである。クソはクソとして現れ、クソとして隠れ、クソとして立ち上がり、クソとして沈む。クソは始まりであり終わりであり、中間であり外部であり、内側であり表層であり、深淵であり虚無である。


だから言える。クソこそがクソであり、クソこそがクソでなく、クソは常にクソであり、クソでない。ああ、クソ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪文書 伽墨 @omoitsukiwokakuyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ