友情の儚さ

私雨

本文

   一


 俺たちの友情の始まりは、ありきたりな出会いだった。


 用事を済ますべく出かけるとき――あるいは同じ趣味の人たちが集まるところに行くとき、遅かれ早かれ同じ場所にいる誰かと巡り合うだろう。それまではお互いに見知らぬ存在だったのに、二言三言さえ交わせば、友達になれる。それが当たり前だった。


 だから、つやめいた木材で出来ている本屋の二階で、俺の好きな小説を本棚から取り出した彼女を見たら、俺はすぐ話しかけたくなった。いざ会話が始まったら、自己紹介さえ忘れるくらい、俺たちは熱弁を振るっていた。


「よかったら、友達になりませんか?」


 俺は友情を促すように言ってみた。


「あ、いいよ! 連絡先を交換しようね」


 彼女は鞄の中で何かを必死に漁り、ややあってスマホを取り出した。


「いいんですか?」


 溢れる至福に圧倒されて、俺もポケットからスマホを取り出し、QRコードの便利さに感謝しながらSNSアプリで友達追加しあう。表示名を一瞥して、訊きそこなった名前をやっと知れた。


汐里しおりさん、ですよね」


 相当かっこいい名前だし、活字中毒者にはいかにも相応しい。


 汐里さんは頷き、こちらの名前も確認した。俺たちが笑みを浮かべてよろしくお願いします云々の挨拶を交わしてから、汐里さんはこう言った。


「ところで、この町に住んでいるのかな?」

「いや。ここから二時間半ぐらい離れてて……」


 俺は辺鄙へんぴなところに住んでいるので、誰かに地元の地名を教えても、初耳ですね、と必ずと言っていいほど返される。だから地名を教えるのを諦め、距離でどの辺に住んでいるのかをある程度知らせるようにしている。


「遠いね。観光のために来たの?」


 そうは見えないのに、なんとなく年上だとわかる。


「ああ。それに、ずっとこの本屋に行きたかったんで」

「いいね、ここ。郊外に住んでるから、よく電車でここに行ってる。ま、もしかしてまた来たら……」


 まだ話しているのに、もう再会のことを考えているのか。俺は、その言葉が何らかの誘いだと思って、適切な返答をした。


「ああ、絶対また行きたいですね。本屋もすごい大きいし、いろいろ楽しそうだなぁと思います」

 

 汐里さんは俺の感想に頷き、会話の終わりをほのめかすかのように、おもむろにきびすを返す。床板のきしみと磨かれた靴の音鳴りが静かな店内に響き渡る。

 

「あの、この小説を買って他の用事を済ませるから、また連絡しようね」

「あ、はい……」

 

 名残惜しさが、俺の声に出たのだろうか。なぜだろう。出会ったばかりの人なのに、階段を下りて視界から消えていく汐里さんの姿を見送っていると、どうしても淋しさの襲撃から逃げ切れない。その気持ちを抑えようとしながら、俺も買いたかった小説を手にレジに向かった。


 全ての出会いに意味があるとすれば、俺が汐里さんと邂逅したのは、一体どういう意味なのだろうか。わからない。だが、もし俺たちが出会うべくして出会ったのなら、それはもう巡り合いではなく、運命としか言いようがない。


「五百円になります」


 若い店員さんの声で我に返った。どうやら、俺は考えにふけっている間、無意識に小説を渡したようだ。

 

 たどたどしい口調で会計を済ませて紙袋に仕舞しまった小説を手に取ってから、本屋を後にする。汐里さんはもう去っているだろうに、俺は姿を探そうと、晩夏の弱い陽射しに照らされた、人の行き交う街を見渡した。人混みのせいか、やはり見当たらない。


 もう家に帰ろうか。まだ帰るつもりはなかったのに、ふとそう思ってしまった。否、まだ帰るわけにはいかない。俺の地元はここから遠いし、電車賃で万円も払ったから、少なくとも太陽が沈もうとするまで家路につかないほうが、お金の無駄遣いにならない気がする。


 次に目指したのは、近くの公園だった。点々と植えた木々が少し枯れた草にそびえ立ち、木陰に憩う人が何人かいた。釣られてか、俺も誰もいない木の下で、小説を紙袋から取り出して開く。


 ページめくっては文字に目を通し、気づいたら時間が経つのを忘れていた。一時間で第一章を読み終えたから、後は帰りの電車で読むことにした。腕時計によると、時はもう五時を過ぎている。


 曇り空に橙色が滲み始めたころに公園を出た。錆びついた鞦韆ぶらんこは今や人気がなく、多くの人が家かコンビニに足を向けているだろう。それを見て、俺はもっと有意義に時間を使えたのではないかと、後悔の念に苛まれた。折角ここまで来たのに、結局、手の行き先はどこでもできた読書だったのだから。


 いや、甲斐があっただろう、と自分に言い聞かせる。汐里さんと出会って連絡先を交わしたんだ。


 公園を出る前に、俺はこの町に着いたときに拾っておいた地図で最寄の駅への道を再確認した。地図から視線を前方に戻して、閑散とした公園を最後にもう一度見渡す。


 さようならと言いたくなった。この公園に? この町に? 違う。汐里さんに、だったかもしれない。

  

 ひぐらしの鳴き声を背に、俺は夕暮れのとばりに彩られた帰り道を駅まで進む。両耳にイヤホンをつけた何人かがうつむいたまま先を歩いていった。


 目的地に辿たどり着くと、混雑した駅内でだるく駅弁を買い、空腹感に耐えられず、その場で晩ごはんにした。食べ終えると素早く改札をくぐり、空っぽになった弁当箱をホームのゴミ箱に捨てる。肌寒い夕風に襲われながら次の電車をできるだけ大人しく待つ。


 全然鳴っていないのにスマホを見てみたら、やはり連絡はまだ来ない。何にせよ、汐里さんはかなり忙しそうだったし、俺と駄弁だべる暇が未だになくてもおかしくない。

 

「電車が参ります!」 


 数分後、誰かがその言葉を声を出していた。


 俺は次第に大きくなる走行音に瞳をつぶり、汐里さんの顔を思い出そうとする。しかし、閉じた双眸そうぼうで汐里さんを描こうとしても、無想のような常闇しか思い浮かべない。たった数時間前に見た顔さえ、すでに俺の記憶から消えかけているのか。


 目を開けると、電車の威容が眼前にある。すかさず電車のドアをくぐって乗った俺は、早起きは三文の徳といわんばかりに座席を確保しに行った。


 ややあって、電車が出発した。俺は遠ざかっていく町並みを少し結露した車窓から見送ったあと、また小説を開いて。揺れる電車と心に身を委ね、ゆっくり次の頁へと手を伸ばす。



   二



 無事に家に帰った俺は、風呂上りに自室で水分補給を欲してお水を飲んでいると、突然汐里さんに連絡してみたくなった。机の上に置いたスマホを手に取り、SNSアプリを開いてから、小さな画面にも収まりそうな短い友達リストから「汐里」を選ぶ。


「今日はありがとう!」

 

 念のため、メッセージの後に無料のスタンプも送った。


 後は返事を待とうとスマホをベッドに置いて、しかしパソコンに向かうと、汐里さんに何か質問を投げかけたほうが返事が来やすいと気づき、またスマホを拾った。


「ところで、他に好きな作家さんは?」


 送ったら、何もなかったようにまたパソコンに戻れると思った。だが、答えを知りたくてたまらなく、スマホをいじらずにはいられなかった。

 

 上手く集中できないこと一時間。


 スマホがいきなり部屋に鳴り響く。期待のあまり、駆け出す俺の足がもつれる。つまずく。少し痛いが、かすり傷に過ぎない。スマホを取って画面を見る。やはり、待ち侘びた返事だったのだ。


『こちらこそ!

 最近、太宰治にハマってるね』

「人間失格とか?」


 俺は思わず即レスしてしまった。SNSの使い方を見直さないと。


 とはいえ、一分後、スマホが再び鳴った。返事なわけがないだろうと思いながらも、今度はもっと落ち着いた動きでスマホに近づく。

 

『難しそう! 今、女生徒を読んでるよ!』


 そのメッセージを読んでいると、俺はつい微笑んでしまった。どうしてだろう。誰かのメッセージからこんな心地よさを感じたのは初めてかもしれない。


「ナイス! 女生徒は読み応えが結構あると思う!」

「あと、来週空いている日ある? もしよかったら、喫茶店とかに行って気軽に話そうか」


 二通のメッセージを送って、俺は寝る準備に取り組もうと自室を出て浴室に戻った。今なら、汐里さんもそうしているはずだし、今回は早い返事を期待しても、ただの我儘わがままにすぎない。


 俺は歯を磨き、顔を洗い、着替えを済ませ、最後にもう一度スマホをチェックしたが、案の定、連絡はなかった。執着を断ち切ろうとスマホを再び机の上に置いて、ベッドに入る。


 あの夜、俺はいろんな妄想を見た。予知夢や霊夢ではなく、単なる妄想だとあの時でもはっきりわかったのが唯一の救いだっただろう。


 その長い夢は、つまんで言えば、汐里さんとの未来を見せてくれた。一緒に出かけたり、喫茶店で珈琲コーヒーを飲んだりして、告白するところまで続いた。


 妄想の中で俺が汐里さんに告ったのは、星空に、青白い月明かりがくもりを貫き、月が皓々こうこうと輝いて見えるころだった。


 俺たちはまたあの町にいて、微風そよかぜに吹かれながら夜空を見上げていた。寒さの中で温かみを欲した俺は、恋愛を匂わせるように汐里に近寄った。しかし、俺が手を繋いでも、汐里はただされるがままに星を見つめ続ける。釣られて、俺も視線を夜空に戻した。


「なあ、汐里……」


 その時、白い息と共に俺の口から出た告白は、今や真意がよく知られている「月が綺麗ですね」という言葉ではなく、夏目漱石作『これから』を引用した言葉だった。


「……俺の存在には汐里が必要だ。どうしても必要だよ」


 まあ、妄想にしては悪くない。いつか、相手が誰だろうと、告るときに備えてその言葉を心に留めておこうと思う。

 


   三



 俺は欲望を叶えるために、藻掻もがくようにひたすらに働き続けた。もう一度だけで充分だから、汐里に会いたいと思ったから。

  

 連絡は毎日数通という頻度で順風満帆に進んでいる。意外と早い段階から、俺たちはお互いのことをさん付けで呼ばないくらい仲良くなれた。今読んでいる小説の話をしたり、写真を送ったりして――俺は一瞬、満足したかもしれない。これでいいんじゃないか、と。会わなくても。


 俺たちはいついかなる時も連絡で繋がっている。まだ手紙の時代だったら、返事が遥かに遅くなるし、それは相手に会いたくなってしょうがなくてもおかしくない。だが、ネットのおかげで、今は連絡先さえ知っていれば、世界中の人たちと話せる。


 だから俺は会社を辞めて、しばらく就活して、近くのコンビニでバイトを始めた。バイトででも汐里に会うためのお金を稼げるから、そんなに一生懸命に働かなくてもいいだろうと思ってのことだ。そもそも、俺は外食をほとんどせず、気になる小説があったらたまに買うくらいの節約生活を送っている。

 

 数ヶ月が経って、やっと万円強を貯金できた時だった。

 

 汐里からの連絡に、気が動転してしまった。


『今日、ずっと望んでた海外転職のチャンスが来た!』


 わかっていた。ようやく願望を叶えて嬉しがる汐里を、応援すればいい。激励すればいい。本当の友達なら、それが常識なのだろう。なのに、俺の感情はすぐあらぬ方向に行った。


 俺がせっかく会おうとお金を稼いできたのに、なぜこの期に及んで日本を出ていこうとするんだ? ずっと望んでた海外転職うんうん言いながら、なぜもっと前にその話に触れてくれなかったんだ? 日本から離れるな。もう少し俺を待ってくれ。まるで俺には汐里と会う権利があるかのように、勝手にそう思ってしまった。


 いや。また会えるだろう。たとえ汐里が日本を出ていっても、その前にまだ機会がたくさんあるはず。そう開き直って、俺は会う計画を練る。汐里も会いたいと言ってくれたおかげで、結構円滑に進んだ。時間と集合場所を決め、再会の前夜、俺は朝寝坊してしまわないように、いつもより早く就寝しておいた。


 目を閉じたままベッドに横たわっていると、ある疑問が思い浮かんだ。俺がまた万円を貯金できたころには、汐里はもう海外へ去っているのだろう。なら、今更再会する意味はあるのだろうか。そろそろ会えなくなる、一度しか会ったことのない人を、最後にもう一度会うのは誰がために? 汐里のため? 否。俺のため。我儘を満たすため。

  

 おそらく、俺が汐里のことを考えるほど、汐里が俺のことを考えてくれているわけがないというのに。なんたる素敵な片思いリメランス


 俺がいつも汐里の事情や気持ちをおもんぱかっている理由もわかってきた気がする。汐里に抱く感情は、友情ではなく、愛情だからだ。ただの友達なら、こんなに名残惜しいことはあるまいし、こんなに会いたいとはつくつくこいねがうまい。


 たとえ俺の愛が両想いになったとしても、汐里がまだ海外転職を貫くなら、果たして意味があるのだろうか? わからない。答えを見つけるには、まず汐里の元へ電車に乗らなければならない。

 

 意を決したと同時に、俺はようやく眠りに着いた。


 明くる朝、俺はいつものルーティンを行い、出かける前にスマホをチェックした。汐里からの連絡がない。汐里は俺と違って、メイクや髪のセットの支度もしなければならないだろうから、それは忙しくて当然だが。

 

 とにかく、俺は駅まで歩いて電車に乗ることにした。汐里が町に行くのに二十分もかからないだろうから、俺が先に旅立ったほうがよさそう。この日のために稼いできたお金が無くなるのを嘆きながら切符を買い、改札に向かってくぐる。まるで早朝からさえずる鳥たちの自由さを手に入れたかのような感じだった。


 難なく電車に乗り、座席に着くと読みさした小説を鞄から取り出す。一時間も読み続けた俺は、電車の揺れさえ感じなくなったくらい別世界へ吸い込まれた。


 数分後、スマホが鳴って俺をいきなり現実に戻らせる。汐里からの連絡だろうと思ってすぐチェックした。

 

『本当にすみません! 海外転職の準備で急にいろいろな書類を記入しなければならないことになったから、行けなくなっちゃった!』

 

 汐里がぴえんスタンプと共に送ったメッセージに、俺はどう対応すればいいのかさっぱりわからなかった。ドタキャンを、喫してしまった。万円かかる電車の中で。もう乗ってしまったからには、返金してくれるわけがあるまい。

  

 畢竟ひっきょう、金は天下の回り物。俺が無駄に払った万円は、知らぬ誰かの手に入り、手渡されてまた別の誰かの手に届く。そうやって世界を巡って、俺の人生にはこの手に返されることがなかろう。


 憤りに震える双手そうしゅで、俺はかろうじて汐里にメッセージを書き送れた。


「もう電車に乗っているんだけど、どうすればいい? 一時間だけでもいいから、会ってくれない?」


 返事が数分後に来た。


『お金の無駄遣いをさせてしまって本当にすみません、、 上司を説得しようとしたけど、フォームの〆切しめきりが明日だって言われちゃった、、、』


 最悪だ。再会の機会を台無しにしてしまった汐里も。融通が利かない上司も。凶悪に運命の歯車を動かす娑婆も。


 汐里にとってはただ残念で済みそうな今の状況が、彼女が知る由もなく俺の世界観を書き換えていく。信用が疑心に。楽観が悲観に。友達はすぐ作れる分、すぐ離れるのだと思い知った。

 

 やはり、俺はどうしてもわからない。


 友情の儚さが。



   四



 が、流石にそんな暗い話で終わらせるわけにはいかない。


 俺は濫読でたまたま「悲しみの五段階モデル」という概念を知ってから、暗闇に吸い込まれるような絶望にも必ず終わりがあるとわかっている。


 否認、怒り、取引、抑鬱、受容。それらが例の五段階なのだ。読んだら、ああ、確かに、としか言えなかった。


 確かに否認した。大丈夫、また会えるチャンスはあるだろう、と。


 確かに怒りを覚えた。なんで自分がこんな目に遭わなければならないのか、と。


 確かに取引した。お願いだから、もう少し待ってください、と。


 確かに抑鬱した。汐里じゃなければだめだったのに、と。


 そして、ついに受容する時が来た。俺はもう、妄想で逃避するのではなく、現実を直視することにした。二度と汐里と会えないだろう、と。


 もちろん、遠い未来に海外に行く機会があるのかもしれない。だが、その機会が来なければ――汐里が帰国しなければ、叶わぬ夢に違いない。


 それでいいと俺は最近思えるようになった。 叶わない? 構わない。どうせ、いつの日にか全ては灰燼かいじんす。灰から生まれ、故に灰に戻る。そんな言葉を、どこかで聞いたことがある気がする。遠い昔から俺を呼ぶ声で。

  

 なら、友達もそうなのではないか。俺たちの人生は、初めて友達を作ろうと思うよりもずっと早く始まるのだ。つがいを失ってしまった蝶は、ただ蛹のままに戻るだけ。


 道理で友情が儚いわけだ。


 それでも俺は、また汐里の海外活動について訊こうかと今日もスマホに手を伸ばす。

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