第7話 芯の欠片

 八月十五日、朝の空気はまだ熱を孕んでいたが、蝉の鳴き声だけが一段落ちていた。終戦の日――いつもより街の色が濃く見える気がする。


「会長、おはようございます!」


 和菓子店「若松屋」の前で、山田繁さん(80)が手を振った。右手に握られているのは、見慣れない白い紙──QRコード付きのレシートだ。


「読めましたよ、これが!」


 スマホ画面を示す。ピンクのデータマトリクスがカメラに認識され、すぐに商品名と税額がポップアップする。山田さんの指は震えていたが、震えの向こうに涙がにじんでいた。


「わしも……まだまだやれるんじゃな」


 その瞬間、胸の奥が熱くなった。二十年間続けてきた自治会長の仕事が、こんなに小さな画面の中で初めて報われた気がした。


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 午後一時、市役所二階。冷房の効きすぎた廊下で、村井係長(42)が待っていた。


「本田さん、実は高齢者向け出張指導が正式決定しました。来月から十件程度を予定しています」


「それは……よかった」


「会長の引退を機に制度が動いた、と受け止めています。感謝していますよ」


 言葉は頭上を通り抜け、床に落ちた。私の引退が、制度を動かした──。誇らしい反面、何かが歯車のように外れていく音がした。


「会長、最後に一つお願いがあります」村井は名刺サイズのカードを差し出した。「新制度のPRカードです。QRコード付きで」


 私は苦笑いしながら受け取った。まるで終戦詔書のような、冷たい光を放つコードだった。


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 三時、文具店「山田文房具」。店内は相変わらず扇風機だけだが、奥のテーブルにノートパソコンが新しく置かれていた。


「会長、見てくださいよ。わたしと田中君が『経理ソフトの使い方を教える会』を立ち上げました」


 薬局の田中健吾(52)が、山田さんの肩に手を回してにっこり笑う。二人の間に漂うのは、世代を超えた商売の匂いだ。


「今日から月二回。紙とデジタルの両方を扱います。虫食いの帳簿も、スキャンして保存しますよ」


 山田さんは私の手を取った。


「虫食いを埋めるのは、もう税務署じゃありません。わしたちの手です」


 その手の温もりが、四十年近く商店街を支えてきた私の手と同じだった。制度の虫食いを、人間の手が埋める──。そんな当たり前のことに、ようやく気づいた。


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 五時、自治会事務所。段ボール箱が三つ、入口に積まれている。二十年分の会議録、通知表、クレーム付きの年賀状──すべてが「会長在任20年」のシールと共に封じられている。


「お前がやった自主勉強会が、市に動きを与えたんだ」


 鈴木一郎副会長(65)は、初めて目を潤ませていた。


「俺は『自己責任』ばかり言ってた。だが、商店街は自己責任じゃ回らない。隣の手を借りることこが、商売の味方だって……お前が教えてくれた」


 二人で箱を抱え上げる。紙の重さより、時間の重さが肩にのしかかった。


「後は任せろ。高齢者出張指導も、自主勉強会も、続ける」


「頼む、鈴木」


 握手を交わす。掌の汗が、長い付き合いの証明のように滲んだ。


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 夜八時、自宅の縁側。風鈴だけが静かに揺れている。終戦記念日のサイレンが遠くで鳴り止む頃、節子が麦茶を運んできた。


「村井さん、引退を機に制度が動いたって?」


「らしいよ。でも、本当に動いたのは商店街の手の方かもしれん」


 私は、奥の押入から小さな桐箱を取り出した。開けると、四十前の結婚記念日に節子が贈ってくれた文房具セット──万年筆、シャープペン、それに見開き式の手帳が入っている。


「あの日も暑かったな」節子が微笑む。「『頑張ってね』って言ったら、『商売は人の顔だ』って返してた」


 手帳のページをめくる。最初のページには「昭和54年8月15日 商店街青年部総会」と私の字で書かれている。インクが薄れかけているが、人の温もりは消えない。


「明日から?」


「そうだな。会長じゃなくて、一人の商店主として」


 縁側に置いた文房具セットから、私は一番短い鉛筆を一本抜いた。芯が欠けそうなほど削られている。


「新しい帳簿の第一ページを書こう。『令和7年8月15日 虫食いを埋める会設立』と」


 私は鉛筆を走らせた。最後の文字を書き終える瞬間、芯の欠片がぽろりと落ちた。月明かりに照らされて、小さな星のように光っている。


「制度の虫食いは埋められない。ただ、埋めようとする手は途絶えない」


 私は呟いた。節子が肩に手を置く。風鈴が、夜の長さを告げるように、もう一度だけ鳴った。

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制度と人間の狭間で 共創民主の会 @kyousouminshu

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