ママならない私と彼女

飯田華

ママならない私と彼女

 社会は、怖いものだ。

 

 女子高生である私は、満員電車のきつさも、上司からの叱責も、社会保険料の無慈悲さも知り得ない。

 けれど最近、私は社会の荒波がどんなものなのか、否応なく理解する環境に身を置いていた。

 齢十五歳で知り得てしまった私は正直、将来に対して淡い希望を抱けなくなって。




 その代わり、壊れてしまった成人女性を毎晩毎晩、抱きしめている。




 二十一時。宵は深まり、住宅街は日中の喧騒から引き剥がされて久しい時間帯。

 私はぼぉっと前掛けのエプロンを身に着けたまま、リビングのソファで緩慢に流れる時間を目一杯享受していた。

 食事の作り置きも、掃除洗濯も浴槽の掃除も、終わったのはつい数分前で、身体には泥のような疲労が溜まっている。思わず右手で左肩をもみ込んでみると、石を相手にしているのかと思うくらい凝り固まっていた。

「疲れたぁ……」

 呟きが1LDKのフローリングに浸み込んでいく最中、私は考える。

 

 高校進学を機に始めた従姉との二人暮らしは、苦難の連続だった。

 当番制で家事をこなすこと。決まりきった時間に食事を行うこと。ただ、丁寧に生活を送ること。

 実家に身を置いているときには感じたこともなかった身体的・精神的疲労。若輩者の私だけれど、今年の四月から夏休みに突入した七月下旬のこの頃に至るまで、結構成長できたのではないかと自負していた。少しでも社会に出て働く従姉の力になれてはいるのではないかとも。

 ………………まぁ、大変なことは家事だけでは、ないんだけど。

 

 今度は心中でそう独り言ちた瞬間、リビングにピンポンと、チャイム音が鳴り響く。

 どうやら、従姉が帰還を果たしたようだった。

「は~い、今開けま~す」と返事をして、ソファから重い腰を持ち上げる。

 とたとたと廊下を進み、覗き穴で扉の向こう側を確認した後、チェーンロックとドアロックを外すと、勢いよくブラウス姿の従姉がなだれ込んできた。

 

「ただいまぁ…………つっかれたぁ…………」

「うわぉ! お、おかえりなさい律さん」

 肩口に顎をのせる形で寄りかかってきた律さんは見るも無残に疲労困憊だった。

 首元で束ねていた艶やかな一房の黒は先端がばらけ、ブラウスの袖には零しでもしたのか、コーヒーの染みがポツポツと浮かんでいる。

 吐く息は絶え絶えで、首元を撫でる生温い息遣いがくすぐったくて、思わず彼女の肩を掴み引き剥がした。

「重いです……」

 気恥ずかしさを隠すため吐いたそんなウソは、彼女には通用しなかったらしい。疲れの窺える眼で私の顔を上から下まで眺めた後、「かわいいね」と柔い笑みを浮かべた。

「いきなりなんですか」

「いやぁ、恥ずかしがってて可愛いなと、素直に思っただけ」

「突き飛ばしますよ」

「ちょ、ごめんごめんって」

 

 私を揶揄うときだけ途端に元気になる律さん。

 笑みを引っ込めた彼女は、私の間隙を突くように顔の向きをぐるっと切り替えた。

 柔らかい感触が頬をなぞる。

 唐突なキスは律さんの十八番のようなもので、この家で暮らすように…………そして、恋人同士になってからは頻繁に喰らっていた。

「…………いきなりはやめて」

「あはっ、ごめんね」

 謝罪ゼロの声色に対して怒るに怒れないのは、その好意を薄っすら待ち望んでいる自分がいるからだった。

 

「夕食からにしますか、それともおふろ?」「じゃあ戸高ちゃんを」「やめてください」「えぇ~~~~、つれないなぁ」なんていつものキャッチボールを行いながら、リビングへ。

 結局、律さんが選択したのは夕食だった。

 

「おぉ、ハンバーグ!」

「作り置きして冷凍してますから、ここ数日夕食のおかずはハンバーグになっちゃいますけど、いいですか?」

「もちろん! って、家事は当番制なんだから、そんなにしてくれなくてもいいのに」

「私が好きでやってますから。気にしないでください」

 

 こういった会話も日常茶飯事だった。

 仕事で疲労が溜まっているのに家事までやろうとする律さんは悪い意味で『根が真面目』って性格で、抱えなくともよい苦労を自然と背負いこんでしまう。

 仕事でもその性格は忠実で、最近は到底一人では抱えきれないようなタスクを無遠慮に割り振られているらしい。どうやら、最近異動してきた上司が高圧的で、有無を言わさぬタスク分担をする質らしかった。

 正直、転職を考えてほしいのだけど、二十七歳になる律さんは社会人となって計三回、ドブラック企業からの転職を果たしており、その経験からすると「今の会社はまだマシ」とのこと。

 定時に帰るなんて夢のまた夢。人員の穴が開けばとりあえず彼女にタスクを振り、フォローの一欠けらもしない会社なんてマシなわけないのに、律さんはその不遇な環境で舞い続けようと尽力している。


 真面目の使い方を確実に間違えている人だった。


 ハンバーグを至極おいしそうに平らげている律さんが、嬉しそうに「あ、そういえば、今日上司が体調を崩してさぁ」と話を切り出した。

「食あたりしたらしくて…………この一週間は大事を取ってお休みするらしいの」

「へぇ……って、律さんの仕事が増えたりしたんじゃ」

「あぁそれは大丈夫。なんでか知らないけど、上司の周囲がすごいフォローして、下に上司分の仕事が回ってこなかったんだよね。不思議なことに」

「それはよかった」

「だから、今週は定時に帰れる、かも…………!」

「それでも『かも』なんだ」

「そう、かもかも~!」

 

 過酷だ。

 つい心配の眼差しを向けてしまう私に、律さんは「そんなに心配しないでってば」と笑顔で返した。

「戸高ちゃんを眩暈でくらっとさせることにはしないから」

「いや、どっちかって言うと、律さんの方が眩暈でバタっといきそうなんですけど」

「あははっ、それはそう」

「笑いごとじゃないですって……」

 

 ブラックジョークと共に食事を平らげた後、律さんを浴槽に送り出し、自分はリビングへと戻る。

 さて、夕食も風呂も終わった。

 

 律さん的には「あとは私」だけなんだろうけど。

 

 耳たぶまで朱くなっている自分を想像して、いやいや、とその期待を追い払う。

 律さんが風呂から上がってから始まるのは残念ながら、私が真に望むことじゃない。

 望むどころか、ちょっと控えた方がいいとすら思っていて…………。

 

 

 

 律さんのことは幼少期の頃、彼女と知り合ってからずっと恋焦がれていた。

 実家から遠く離れた高校に合格し、下宿先の候補に律さんの自宅が挙がったときには、こんな僥倖があっていいのかと疑うほどだった。彼女の方から「うちから通えば?」と提案してくれたことは今でも鮮明に記憶に残っているし、そこから必死にアプローチを重ね、恋人同士になれたのはほとんど奇跡に近い。

 

 高校生と共に、想い人と最高の同棲生活がスタートした! と最初は考えていたけれど、事態はそんなに甘くはなかった。

 律さんの労働環境は結構ズタボロで、後になって私に同居を誘ったのは彼女なりの静かなSOSなのだと理解してしまった。

 

 部屋が荒れているとか、そういった分かりやすい異変ではなく、言葉の切れ端から他人を求めているような。

 真面目故に、他人を頼れない。

 頼ろうとしても、不器用で分かりにくい形になってしまう。

 そんな実直さに恋をした私は、彼女にボロボロになってほしくなかった。

 彼女のためなら何でもしたくなったのだ。

 

 

 

 だから、これから行われることは律さんが心根から絞り出した希望で。けれど私が望むような『恋人同士がする』ような行為では断じてないのだった。

 

 

 

「労働後の入浴って最高!」

 入浴で疲労をいくらか洗い流せたのか、律さんの顔色はさっきよりもさっぱりとしていた。服装もブラウスから半袖Tシャツとラフな格好となっており、袖から伸びる肌が白く眩しかった。

 大手を振って私の元へ来た彼女は、「じゃあ、今日もお願いしようかな?」と、ソファから私を立ち上がらせる。

 そのまま、滑らかな所作で寝室へとエスコートされ、「あぁ、今日もするんだ……」と、諦観に似た感情が湧き上がる。

 別に、嫌ってわけじゃない。

 嫌悪感よりも困惑の方が、その行為に対して抱く感情は大きくて。

 何してるんだろ自分、と素面になるのが、キツいと感じるのだ、これから私が演じる役回りは。

 

 寝室には律さん用のシングルベッドのすぐ横に、私が普段使っている布団が横たえられている。

 とりあえず私はシングルベッドの方へよじ登って、律さんの準備ができるまで待機する。

 自然と彼女に背を向ける形でいつの間にか正座しているのは、緊張からなのか、自分でも分からない。舞台役者が舞台裏で静かに出番を待っているときの心境に似ているのかもしれ…………いや、流石に失礼か。

 

 そうこう考えているうち、準備が終わったようだった。

 パッと後ろを振り返ると、そこにはTシャツ姿の律さん…………ではなく。

 

 

 

「ママ~~~~~~~~!」

 おしゃぶりと涎掛け。左手には哺乳瓶、右手にはプラスチック製のガラガラ。

 完全装備の成人赤ちゃんが、獲物を視界に捉えた豹のごとく私に飛び掛かってきた。

 私の胸部目掛けて一直線。

「おっぱい!」

「うわぁっ! それはダメ!」

 ドンと強く肩を押すと、ベッドの縁から隣に敷いていた布団へ転がっていく律さん。哺乳瓶とガラガラで両手が塞がっていたからか、とくだん受け身を問った様子はなかった。

「だ、大丈夫ですか律さん!」

「ひどいよ…………赤ちゃんにそんな仕打ち」

「いや、今のはライン越えでしょ。さすがに謝りませんよ、私は」

「えぇ~、前提条件みたいなもんじゃん」

「ダメです」

 奇妙で歪な応酬が繰り広げられている最中にも、律さんはおしゃぶりをくわえたままだった。

 精神的には不器用なのに、すごいなこの人。

 

 

 

 律さんがなぜ、赤ちゃんプレイに興味を持ち始めたのか。動機は全くもって定かじゃない。それでも、赤子に還りたい、あらゆる事物から免責されたいという願いは切実で、私に「赤ちゃんになりたくってぇ」と告白してきたときは、目尻に涙すら浮かべていたのを覚えている。

 それくらい、現状が限界だったということ…………なんだろう。分からない。社会の荒波に、苦渋の連続に未だまきこまれたことのない私には、彼女の心根にぶつけられるさざ波すら想像できない。

 だからこそ、できる限りは期待に応えたいんだけど、なぁ…………。

 理解の及ばないものに心血を注ぐのは、どうしても難易度が高かった。

 

 

 

「ばぶ~~~~~!」

 

 順当に赤ちゃんプレイをするのなら、ベッドから突き落とさない。

 そう釘を刺したときの律さんの曇り顔は見ていられないほど悲壮だったけれど、最終的に納得したのか、『良識の範囲内で』を確約してくれた。

 といっても、今の律さんに良識が備わっているのかは甚だ疑問で、私の太ももに後頭部を預け、「ばぶばぶぅ」と古典的な赤子ムーブを繰り返す姿からはそれを一欠片も見出すことができないんだけど。

 

「ママ~~~~! ガラガラならちて~~~~~!」

「はいはい、分かりました…………」

 カラコロとガラガラを鳴らすと、律さんがキャッキャと無邪気な笑い声を立てる。

邪気がないのが逆に怖いな…………。

 

 普段のママ活(不名誉な響き!)は、こうやって律さんをあやす? だけの活動となっている。ガラガラ、赤ちゃん言葉、ときどき哺乳瓶による授乳。

 それ以上のことはしない。

 しないけど……最近はさっきみたいな逸脱が増えていて、困ったものだった。


 もちろん、恋人に求められるのは素直に嬉しい。心躍る。

 けれど、私は恋人として求められたいのであって、断じて母親としての立場を得たいのではなかった。

「もうガラガラはいいですか? 腕疲れてきちゃったんですけど」

「もうちょっと頑張ってばぶぅ~~~~!」

「わがままな赤子ですね。というか、語尾にばぶぅってつける赤ちゃんいませんよ」

「ママは無粋ばぶぅ」

 無粋なんて語彙、幼児の脳のストックにあってたまるか。

 

 と、辟易した態度を貫きたいとは思っているんだけど。

 

 


 

「すぅ…………」

 さっきまでの騒がしさとは打って変わって、静かに眠る律さんの寝顔。

 微かな吐息を阻むおしゃぶりは、彼女が意識を手放してすぐ取り外していた。涎掛けも取り払って、ベッドには成人女性の寝姿一つだけが転がっている。

 

 こうしていると、かわいいんだけどな。

 ツンツンと頬を指で突くと、好ましい弾力が指の腹に返ってくる。赤ちゃんよりは乏しい弾性だけど、しっちゃかめっちゃかになっていた私の情緒を整えるには十分な感触だった。

 

 会社、やめてくれないかなぁ。

 社会に対して何の力もない私は、促すことと、疲労のガス抜きしかできない。

 頬を撫でる。

 滑らかな表面のその下、酷使し続けた肉と骨が少しでも休まるようにと、静寂の中祈った。

 

 

 

 ママにはならない私は、それでも毎晩、愛する彼女を抱きしめていた。

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ママならない私と彼女 飯田華 @karen_ida

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