煙草
菜野りん
煙草
俺は夜の公園にいた。
薄暗い、白んだような世界に一人だった。
冷たくて、悲しげな風が俺のほおを撫でる。
別に悲しくなんてない。
ただ茫然とした明日からの絶望が燻っていた。
街灯がぼんやりと世界を照らしている。
俺はグッと堪えて、ベンチに腰かけた。
錆びて色のはげた、ベンチ。
よく言えば歴史がある。悪く言えばボロい。
そんなベンチが俺の体重で、確かに軋んだ。
じんわりと体温と生気を奪っていくような冷たさ。
履き古したジーパンから、いつものようにあれを取り出す。
そしていつものように……。
「あれ、おにーさんも犯罪者?」
「は?」
気配もなく目の前にいたのは一人の男だった。
20代半ばのヒョロリとした細く弱そうな肉体と、灰色の安っぽいロングコート。
色素の薄い髪が男の細い目元で揺蕩っている。
そして口元には光らないタバコ。
「犯罪者って、今日はまだ犯罪者じゃない。タバコが違法になるのは明日からだ。」
「だねぇ。でも、明日からは犯罪者だよ。僕たち。」
しれっと隣に座ってきた胡散臭い男。
俺はわざとらしく、少しずれて足を組んだ。
「明日から吸わなければいいだけだ。」
「そんなことできるわけないじゃあん。こんなニコチン漬けの男なのにさ。どうやって生きていこうね。」
こんな、と言われても俺にはわからない。
今初めて出会ったのだ。
でも少し不安になって、胡散臭い男に目を向ける。
「あったことあったか?俺たち。」
「ないね。今日、初めて会った。」
男はあっさりと答えた。
勝手に声をかけておきながら多分、興味も関心もない。
「おにーさんはなんのタバコ吸うの?」
「…ウィンストン。」
「そっかあ。じゃあ、ウィンストンって呼ぶね。」
「は?」
「なんか面白くない?ネッ友みたいでさ。本名はあえて知らないままで。」
ニコニコと目を細めて笑う。
狐にばかされているような気がする。
「じゃあ、ウィンくん。僕はジャルムスーパーが好きなんだ。ジャルムって呼んでくれ。」
「ジャルム、か。」
胡散臭い男、ジャルムは、ははっと笑った。
でも、無性にジャルムという名前がしっくりきた。
「ごめんね。タバコ遮っちゃって。どうぞ吸ってくれたまえ。」
「…ああ。」
俺はジッポーで火をつけた。
暗闇にはえた光に目を細める。
風に煽られ今にも消えそうだった。
「僕にも火をくれないか?」
「ああ。」
ジャルムは咥えていたタバコに火をつけて、ふうっと息を吐いた。
いくらか吸って、口を開く。
「どうしてウィンくんはタバコを始めたの?」
「俺…は。」
考えたこともなかった。
どうして、だっただろうか。
記憶を弄って、ようやくあの背中に辿り着く。
「親父が吸ってたんだ。それがどうもかっこよく見えてな。憧れの親父になりたくって、ていうのがあるかもな。」
「へえ、素敵なお父様なんだね。」
「…どうだろうな。」
ジャルムは首を傾げた。
「違うのかい?」
「…そうだな。」
いつも疲れ切った顔をした親父。
ベランダに出てタバコを吸っている時だけ、少し和らいだ表情をしていた。
俺は親父のあの顔が好きだった。
疲れから解放された、あの晴れ晴れとした表情が。
でも、自分が邪魔者のような罪悪感に蝕まれてもいた。
子供の頃から俺は孤独に泣いていた。
じゃあ、俺のタバコを吸う意味は…。
「…お前は?」
「ん?」
ジャルムはニヤニヤとこちらを見ている。
からかうような視線に俺は舌打ちをする。
「…ジャルムは?」
このカタカナの名前がくすぐったくて仕方がなかった。
でも、少し甘く丸い舌触りだった。
「リストカットってわかる?」
「手首切るやつか?」
「そうそう。」
「それの代わり。」
微かにジャルムの温度が下がる。
糸目が虚空を見ている。
俺は少し目を開き、伏せた。
「…代わり?」
「タバコって体に悪いじゃない。しかも依存性があってやめられない。僕は狂いたかったんだ。あと、早く死にたかった。タバコのこの命を削り取る感じが好きなんだ。尊い命をはいにして壊していく感じが。大切にしなきゃいけないものを壊す背徳感っていうか。」
ジャルムは急に饒舌になった。
言い訳のような釈明のような、俺はあえてなにも聞かなかった。
「ふーん。」
「僕はタバコという存在が好きなんだ。本音を言うと煙はあんまり好きじゃない。概念、って言うのかな。なんか、それがいいと思ったんだ。」
ふうっとタバコの煙を吐く。
「今も、死にたいのか?」
「うーん、そうだね。心のどこかにはずっとあるよ。ここにいたとしても何にもならない。それが怖い、かな。」
「へえ…。」
面白い考えだと思う。
それと、なぜか共感ができた。
そうか、俺もやはり死にたかったのかもしれない。
淡々とつぶやくその考え方は、浮世離れしたジャルムにどうにも似合っていた。
様になってしまうのだ。
それがいいことか悪いことかわからないが。
「明日から俺らどうするんだろうな。」
「そうだね。もう吸えないんだもんね。買えもしないし。」
ジャルムはたちのぼる煙を名残惜しそうに眺めていた。
明日からはもう見られない光景だ。
「死んじゃおうかな。もう疲れたし。」
「いいのかもな。」
軽くつぶやくジャルムに俺はうすら笑いで同意した。
ジャルムは糸目を見開く。
「…止めないんだ。」
「他人の人生に口出しできるほどの人間じゃない。この世に縛り付けておく責任は持てないからな。この世界もそんなにいいもんでもないし。」
俺は言ってしまう。
少し考えてから付け足した。
「でも、もし…ジャルムが明日が来るから死のうとしてるなら、明日が来なければいいのにって思う。煙になるにはまだ少し早いだろ?」
「ふうん。そっか。」
「なんだよ。」
「いい答えだと思ってね。君は面白い。」
ジャルムは嬉しそうに微笑んで目を閉じた。
基本的に浮世離れしたジャルムにしては、妙に人間臭い微笑みだった。
「明日からどうなるなんて、わからねえよ。」
「そうだね。でも、少しでも僕の命を大切にしてくれる人がいるなら、明日も生きて見ようかな。約束してくれる?ウィンくん。そしてまた会おーよ。」
「ああ。俺でよければな。無責任にこの世に縛り付けてやるよ。」
ジャルムは嬉しそうに微笑んで、俺の小指を絡ませた。
いい年した男二人がゆびきりげんまんとは、思わず苦笑する。
その小指の温もりを思うと、明日からもなんとかなる気がした。
「ゆびきりげんまん。嘘ついたら針千本のーます!」
俺は小さく頷く。
「──指切った。」
煙草 菜野りん @RinSaino
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