好きと接吻
猫柳 星
第1話 好きと接吻
「好きって、どういうことだと思う?」
彼女がそう言ったのは、駅前の喫茶店でコーヒーを待っている時だった。氷が溶けて、グラスの表面をすべる水滴を、指先でなぞるようにして。
僕はすぐに答えられなかった。好きとは何か。いままで、曖昧なまま使ってきた言葉だ。
誰かに向けて口にしたこともある。けれど、それが本当に「好き」だったのかどうか、確信はなかった。
「難しい質問だな」
僕はつぶやく。
彼女は「でしょ?」と笑った。どこか試すような微笑みだった。
僕と彼女は、大学の同じサークルで知り合った。文学研究会という、半ば幽霊みたいな活動しかしていない小さな集まり。集会よりも飲み会が多く、発表会よりも雑談が多かった。
彼女はそこに突然現れて、最初から中心に立っていた。人を惹きつける何かがあった。大声で笑うわけでもなく、派手に振る舞うわけでもない。それでも、彼女がいると場の色が変わった。
僕は最初から彼女を好きだったのかもしれない。けれど、それを「好き」という二文字で説明するのは、どうしても雑で、失礼で、軽すぎる気がした。
「好きって言葉は便利だけど、ずるいよね」
彼女はグラスを傾け、ストローを唇に触れさせた。
「嫌いじゃない、楽しい、一緒にいたい、安心する、全部をまとめて“好き”で済ませちゃう」
僕は頷いた。そうだ。あまりに広すぎる言葉だから、時に何も言っていないのと同じになってしまう。
「じゃあ、接吻は?」
彼女は視線を窓の外に投げた。夏の光が、まだ熱を失わずに歩道を焼いていた。
「キスは、何だと思う?」
僕は考える。
「……好きの証拠?」
「じゃあ、“好き”の意味がわからないのに、どうして“証拠”になるの?」
彼女はまた笑った。今度は子供みたいに無邪気な笑みだった。
その問いが、ずっと頭に残った。
僕たちは恋人ではなかった。友人、と言ってしまえばあまりに軽いが、少なくとも付き合ってはいなかった。
それでも、僕は彼女に惹かれていた。
彼女もまた、僕を遠ざけることはなかった。距離を測りかねているうちに、時間だけが流れていった。
ある日、サークルの仲間が企画した小旅行に行った。海辺の町だった。夏の終わり、観光客はまばらで、風景はどこか寂しさを帯びていた。
夕暮れ、宿に戻る前に二人で海岸に立った。波打ち際に足を浸しながら、彼女は小さな声で言った。
「接吻はね、秘密を共有するみたいなものだと思う」
僕は彼女を見た。
「秘密?」
「そう。言葉じゃ伝えられない気持ちを、唇に閉じ込めて交換するの」
彼女の横顔が夕焼けに染まっていた。海風に髪が揺れる。
僕はそのとき、彼女に触れたくなった。けれど、手を伸ばすことができなかった。理由はわからない。ただ、その一線を越えれば、何かが変わってしまう気がした。
時間は過ぎた。大学を卒業し、それぞれ別の道を歩み始めた。
連絡は途絶えがちになり、会うこともなくなった。僕は社会に揉まれながら、日々を重ねた。
けれど、彼女の言葉はずっと胸に残っていた。
「好きとは何か」
「接吻は秘密を共有すること」
僕はその答えを探すように、いくつかの恋をした。
誰かと付き合い、別れ、時に裏切られ、時に裏切った。
「好き」と言った。言われもした。
けれど、心のどこかで彼女の問いが響き続けていた。
十年が経った。
偶然、彼女と再会したのは、街の小さな書店だった。
彼女は本を手にしていて、僕に気づくと、驚いたように目を見開いた。
「久しぶり」
声は昔と変わらなかった。
僕たちは自然に、近くの喫茶店へ入った。
彼女は以前より落ち着いた雰囲気をまとっていた。けれど、笑うと、あのころと同じ表情になった。
「覚えてる?」
彼女が言った。
「好きって何か、とか、接吻って何か、って話したの」
「もちろん覚えてるよ」
僕は即座に答えた。
彼女は少し笑ってから、言った。
「私ね、あれからいろんな人と出会った。恋をしたし、失恋もした。結婚もしたけど、離婚した」
僕は黙って耳を傾けた。
「それで、ようやく気づいたの。“好き”は、正解のない言葉だって。人の数だけ“好き”があって、どれも間違いじゃない」
「じゃあ、接吻は?」
僕は聞いた。
彼女は一瞬考え、コーヒーを口にしてから言った。
「接吻は、過去と未来を一瞬でつなぐもの」
「どういう意味?」
「だってキスをした瞬間、その人と一緒にいた時間の全部が証明されるじゃない。これまでの記憶も、これからの約束も。だから、たった数秒でも、永遠に近づけるの」
僕は彼女を見つめた。言葉ではなく、何かを理解した気がした。
別れ際、駅の改札で立ち止まった彼女が、ふいに言った。
「今なら、試してみる?」
その問いに、僕は答えなかった。代わりに、彼女の頬に触れ、唇を重ねた。
ほんの短い接吻だった。
けれど、十年分の言葉よりも、確かに伝わるものがあった。
離れた彼女は、少し涙を浮かべて笑った。
「やっぱり秘密だね」
人混みの中へ消えていく彼女の背中を見送りながら、僕は思った。
――好きと接吻は、同じではない。けれど、切り離すこともできない。
それは、生きることと呼吸することのように、互いを必要としている。
そして僕は、初めて理解した気がした。
「好き」とは、言葉で説明するものではなく、ただ確かめ合うものなのだと。
「接吻」とは、その確かめを最も端的に示す行為なのだと。
僕の唇にはまだ、彼女の温度が残っていた。
その熱を胸の奥にしまいながら、僕は歩き出した。
好きと接吻 猫柳 星 @NEKO_YANAGI_SEI
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