死を抱く少女
シバリリ
第1話 死を抱く少女
それは、何の変哲もない一日のはずだった。
朝の通勤電車に揺られ、会社へ向かう途中。ビル街はいつもと同じように人々の喧騒に満ちていて、誰もが携帯を眺めたり、コーヒー片手に急ぎ足で歩いていた。
――突然、世界が破裂した。
耳をつんざく爆音。地面が揺れ、瞬時に炎と黒煙が立ちのぼる。叫び声が響き、人々が押し合いながら逃げ惑う。何が起きたのか理解する前に、爆風に吹き飛ばされ、背中をアスファルトに叩きつけられた。
「……え……?」
視界が歪む。熱気と血の臭いが入り混じり、世界が真っ赤に染まる。
倒れた人々の間を、銃を持った男たちが走り抜けていくのが見えた。――テロだ。
身体が動かない。足が千切れそうに痛み、息をするたびに胸が焼け付く。
必死に声を出そうとするが、喉からは血の泡しか溢れなかった。
助けを求める叫び声。泣きじゃくる子供。
無差別に人々が撃ち倒されていく。
「……なんで……俺が……」
理不尽。
何もしていないのに、ただそこに居ただけで、命が奪われる。
まだやりたいこともあった。未来だって、約束だって。
なのに。
瞼が重く落ちていく。意識が闇に沈むその瞬間まで、悔しさと恐怖だけが胸を満たしていた。
意識が沈み、闇に飲み込まれたと思った次の瞬間。
まぶたの裏に白光が差し込み、視界が急速に広がっていった。
そこはどこまでも白い空間。地平も天井もない、ただ光だけが満ちた虚無。
「……ここは?」
声を発したはずなのに、自分の声は水の中のように籠って響いた。感覚が曖昧で、肉体というものが存在しているのかさえ分からない。
「やっほー、ようやく目ぇ覚めた?」
不意に、軽快すぎる声が背後から降ってきた。
振り返ると、そこには奇妙な存在がいた。
見た目は少年のようで、しかし老成した瞳を持ち、衣服は煌びやかな神官の装束と派手な舞台衣装を混ぜ合わせたような異様な格好。笑みは底抜けに明るく、それでいてどこか不気味だった。
「……あんた、誰だ」
「自己紹介? そうだねぇ……人はだいたい『神様』って呼ぶかな。君にとっても、その方が理解が早いでしょ?」
神様。
馬鹿げていると思った。だがこの状況自体が馬鹿げている。死んだはずの自分がこうして意識を保っているのだから。
「俺は……死んだんだな」
「正解! ドカーンって爆発に巻き込まれて、そのまま即死。痛かったでしょ? 可哀想に、災難災難。」
軽い口調で、しかし核心を突いてくる。
あの惨状を思い出し、胸が抉られるように痛んだ。
怒りと虚しさと、言葉にならない感情が渦巻く。
「ふざけるな……なんで俺が死ななきゃならなかった!」
叫びは空虚に響くだけで、神は肩をすくめる。
「理由なんて些細なこと。テロなんてそんなもんだろ? 巻き込まれた人に罪はない。でもね、理不尽こそが、この世界の真理なんだよ」
「……っ」
その言葉は正しい。正しいからこそ、余計に腹が立った。
「でも安心しなよ。君にはチャンスをあげる。再挑戦の舞台をね」
神はぱん、と手を叩いた。
瞬間、空中に大きなルーレットが現れる。色とりどりのパネルに、文字や記号が刻まれていた。
「はい出ました! 転生特典ルーレット〜!」
神が手を叩くと、頭上に巨大なルーレットが現れた。色とりどりのマスには「超魔法」「剣聖」「不老不死」「神の寵児」など、いかにも強力そうな言葉が並んでいる。
「な、なんだよこれ……」
「これはねー、いわゆる転生特典ルーレット。勇者召喚とかチート能力とか聞いたことあるでしょ?ほら、異世界モノお約束!強運なら大当たり!逆にハズレ引いたらドンマイってことで!」
神は笑いながら矢印をつまみ、くるりと回す。
カラカラカラ……と軽快な音が虚空に響く。
俺は呆然とその様を見つめていた。
勝手に回され、勝手に決められていく。生まれ変わる場所すら、俺には選ぶ権利がないのか。
「ストーーップ!」
矢印が止まる。そこに刻まれていた文字を、神が愉快そうに読み上げた。
「おめでとー! 君に授けられる能力は……《死に戻り》!」
「……は?」
あまりに聞き慣れない単語に、反射的に声が漏れる。
「名前の通りだよ。一度死んだら、時間を巻き戻してやり直せる。セーブポイント付きの人生、なんて豪華なんだろうね!」
「……ゲームじゃあるまいし……」
皮肉を吐くと、神はにやにや笑いながら指を振った。
「ただしー、これは祝福であると同時に呪いでもある。死を経験した痛みと記憶は、そのまま残るから。燃やされれば燃やされる痛み、斬られれば斬られる痛み。何度でも味わってね」
「……っ」
背筋が冷たくなった。
死をやり直せる――それは確かに強力だ。だが、死の苦痛を何度も受け続けるなど、地獄そのものではないか。
「嫌なら使わなきゃいいだけ。けどまあ、生きてる限り一回は役に立つよ。……君、理不尽に殺されるの嫌いでしょ? この力で抗えばいいじゃない」
神の目が一瞬、鋭く光った。
愉快そうに笑っていながら、その奥底には計り知れない意思が潜んでいる。
「さあ、新しい人生を始めよう。舞台は剣と魔法の異世界! 名前も姿も、全部変えて。君は――エリシアとして生きるんだ」
その言葉と共に、光が視界を覆った。
---
泣き声が耳に響いた。
それは……自分の声だとすぐに気づいた。
小さな手。柔らかすぎる肌。
抱き上げられた視界の向こうには、見知らぬ女の顔があった。
「……エリシア。あなたの名前は、エリシアよ」
優しい声がそう告げた。
こうして俺は――いや、**私は**。新しい生をエリシアとして歩むことになった。
死を抱えたまま、再び生まれ変わって。
---
最初の数年は、ひたすらに奇妙な体験だった。
生まれたばかりの肉体は自分の意思で満足に動かせず、言葉も発せられない。頭脳は大人のままなのに、体は赤子そのもの――そんな矛盾が日常のすべてだった。
泣くしかない状況で、泣くのを堪えようとしても、勝手に喉が震えて涙があふれる。前世では二十歳を超えていた自分が、今や母親の胸で泣きじゃくる存在になってしまったのだ。
それでも、母の腕の温もりや、耳元で囁かれる子守歌には、不思議と心が和らいだ。
――こんな感情は、前世ではほとんど味わえなかった。
やがて言葉を覚え、二本の足で立ち上がれるようになると、周囲の大人たちは「エリシアは賢い子だ」と口を揃えるようになった。
それも当然だ。すでに思考の基盤は大人のそれで、飲み込みも早かったのだから。
ただし――身体が少女であることには、どうしても違和感を拭えなかった。
鏡に映るのは、白銀の髪に澄んだ瞳を持つ幼い少女。
頬は柔らかく、声も甲高い。
動かすたびに揺れる髪を眺めるたび、「これは俺じゃない」と心の奥でつぶやいてしまう。
……いや、違う。もう「俺」ではないのだ。
私は――エリシア。
母は優しかった。父は寡黙だが、家族を守る強さを持っていた。
家はそれほど裕福ではなかったが、暖炉の火と家族の笑顔は、確かに自分を包んでくれた。
だが、私は忘れられない。
あの血の匂い、耳をつんざく爆音、理不尽に絶たれた命。
そして――神と名乗る存在の笑み。
「死に戻り」。
あれがただの冗談ではなく、現実に与えられた呪いであることを、まだこの時の私は実感していなかった。
---
十歳になる頃には、私は村の子供たちの中でも落ち着きすぎているとよく言われた。
同年代の子が無邪気に遊ぶ中で、私は一歩引いて観察することが多い。
その目は、常に「この世界の理を探る」ために使われていた。
魔法。剣。見知らぬ神々の名。
前世では存在しなかった概念が、この世界では当たり前のように息づいている。
特に魔法には強く惹かれた。
火を灯す魔法を母が使った時、私の心は震えた。
――これが、世界を変える力。
もし前世にあれば、あのテロを止めることもできただろうか。
そんな思いを抱きながら、私は必死にこの世界の言葉と知識を吸収した。
---
ある日のことだった。
村の近くの森で、私は初めて“それ”を体験する。
森に入ってはいけない、と言われていた場所。
けれど私は前世の癖で、「知らないことを知りたい」という欲に抗えなかった。
森の中に入り辺りを見渡しながら歩いていた、だが何かおかしいこの森はあまりにも静かすぎた。
枝葉が揺れるたび、心臓が跳ねる。
――嫌な予感がした。けれど、好奇心に突き動かされ、私はさらに一歩踏み出してしまった。
その瞬間だった。
茂みが裂け、黒い影が飛びかかってきた。
黄色に濁った眼、血と肉の匂いをまとった獣――狼だ。
「――っ!?」
反応が遅れた。避けるより早く、牙が喉に突き立つ。
ブチッ、と肉が裂ける音が自分の体から響いた。
焼けつくような激痛が走り、息が詰まる。
喉から溢れる血が気道を塞ぎ、呼吸ができない。
「ぐぅっ……ぁ、がっ……ぁああああああっ!!」
叫びは血に濡れて掠れ、声にならなかった。
喉を噛み千切られる。首の骨に牙が食い込み、軋む音が響く。
体が痙攣し、手足が勝手に暴れる。だが小さな腕では獣を引き剥がせない。
視界がぐにゃりと歪む。
地面に叩きつけられ、泥と血で顔が汚れる。
温かいはずの血が、どんどん冷たくなっていくのを感じる。
助けて。
誰か――。
母の顔が浮かぶ。父の声が耳の奥で木霊する。
ああ、まただ。前世と同じ。理不尽に、こんな形で――。
「いやだ……いやだぁぁぁあああああああああああああ!!」
喉が裂けてもなお、声を絞り出す。
痛い、苦しい、死にたくない。
暗闇が視界を覆い、世界が遠のいていった。
---
次に目を開けた時、私は村の入口に立っていた。
さっきまでの血の臭いはなく、体も無傷。
……だけど、あの痛みは消えていなかった。
喉がまだ焼けるように痛い。噛み千切られる感覚が残っている。
自分の悲鳴が耳にこびりつき、心臓を締め上げる。
「――っ、あぁぁぁぁぁぁ……っ!!」
膝から崩れ落ち、地面を掻きむしった。
涙が止まらない。嗚咽が喉を突き上げる。
体の震えは収まらず、爪の隙間に泥が食い込む。
「怖い……痛い……いやだ……」
唇を噛み、血が滲んだ。
けれど、それでも現実は変わらない。
――私は死んだのだ。確かに一度、殺された。
それでも、こうして戻ってきている。
これが、《死に戻り》。
神が笑いながら押しつけてきた呪い。
何度でも死を味わわせる、拷問のような力。
「……ふざけるな……っ」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、空に向かって吐き捨てた。
それでも胸の奥底では、はっきりと誓っていた。
――もう二度と、理不尽には殺されない。
そしていつか必ず、この力の意味を突き止めてやる。
死を抱く少女 シバリリ @Sibariei
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