天命を告げる石

 ガンガンと鍋を叩く音。それに混じって豚や鶏の声。まるで市場か戦場か。

 活気のある陣中の外で、柔らかく似た豚の脂とスパイスの薫りが天幕の仲間で誘惑してくる。


(ここ──どこ?)


 兗州の市場……?でもよくこんな音を聞いた覚えもするけれど……


(戦場だった!戦場なのに、こんな市場みたいに騒がしくていいの?)


 思い出して、わたしは皮の敷物から跳ね起きた。その拍子に身体の上に掛けられていた袍がさらりと床に落ちる。

 伽羅の薫りを纏った、濃藍の絹の袍。目を閉じてても誰の物か分かる。文若さんの長衣だ。

 夏とはいえまだ明け方は冷えるから眠ってしまったわたしに掛けてくれたんだろう。

 この長衣の持ち主は天幕の出入口に陣取って、一番頑丈そうな柱に背中を預けて片膝を立てて座った姿勢のまま寝息を立てている。


 寝転がっていたわたしの位置から一番離れたところで、床几やら布なんかで仕切りを作って律儀に未婚の男女の礼節を全うしていた。


 こんな所で男女の区画分けなんかしなくても、冷やかしてくる人はいるかもしれないけど、誰も「品行下劣」なんて言ってくる人はいないだろうに。


 あ、一人くらいはいるかな?

 昨夜、妙に突っかかってきた陳公台とか。


 正体の分からない皮革や茣蓙が垂れ下がっているのをこっそりめくりあげて文若さんの陣地に足を踏み入れた。

 

 彼の衣裳が着崩れているのを初めて目にする。袍がないせいでほんの少しだけいつもよりだらしない感覚を覚える。いつも若く見える顔立ちがあどけなくすら見える。


 自分よりも随分歳上の、しかも立派な身分の人になんてことを考えてしまっているんだろう。恥ずかしさに思わず赤面してしまう。


「これから、あなたは人を殺しに行くのですね」


 眠ったままでさえ神経質そうな顔を見ながらつぶやく。


 今のわたしは初対面の母子の悲劇に取り乱す自分とも違っていた。

 奉孝さんの講義はほぼほぼ軍略や兵法に重きを置いていたから、子ども一人が死ぬことによって大局を見誤ってはいけない、と教えられた。

 確かにそうかもしれないとも思う。けれど、心底納得できる訳でもない。わたしの生きてきた場所は、情を殺して「はい。そうですね」と納得してしまえるような世界ではなかったからだ。


 この優しい人はどうだろう。

 文若さんの寝顔を見ながら考える。


 敵意を向けられても「避ける資格がない」といって、実際に微動だにしなかったこの人ならば。

 利だと知っても心の深くで傷付くのではないか。


 知れば知るほど荀文若という人は、秩序の保たれた世界に生きるべき人で、国が国の形を成していないこんな時代に似合わない人だと思う。


「文若さん、わたしね。未来から来たんですよ。だから何度東行きの船に乗せてくれても、わたしの国には着きません……」


 嫌われるのが怖くて言えなかった言葉も、相手が寝ているなら言える。ずっとこの秘密を最初に打ち明けるなら文若さんにしたいと思っていたのだ。奉孝さんにはうっかりバレてしまったけど。


 と、突然文若さんの胸の辺りが柔らかな緑色に発光し始めた。

 何かの見間違いじゃない。薄暗い天幕の中で、文若さんの心臓を包み込むように確かに何かが光り輝いている。


「ぶ、文若さ……」

「離れろ!」


 名前を呼ぶのと同時に突き飛ばされた。

 まるで寝起きの人間の動きではない。


「た、狸寝入りしてましたね?!」

「人聞きが悪い!少し前に目が醒めただけだ」


 珍しく声を荒げた文若さんが、言いながら自分の着物の胸元を寛げる。

 きゃあ、なんて勘違いして悲鳴を上げる前に文若さんの意図を悟る。


 彼が首からぶら下げている錦の袋。発光源はそれだ。それを素早く切って放出するために長衣の殆どを寛げて文若さんはサッと小刀を取り出して、革紐を切って錦袋を放り投げる。


 カツン、と硬い音をさせながら、錦袋は天幕の反対側の際まで飛んでいった。


「アレ、なんですか?!」

「子澄から貰った護符と、竹簡、それとおまえから預かっていた玉だ」


 「触るな」という文若さんの声を無視をして、わたしはぶっ飛んでいった錦の袋を拾いに行く。

 彼は触るなと言うけれど、床でまだあわく光り続けているそれは、まるで月光のような温かみを感じて悪いもののように思えない。

 肌触りの良い赤い絹の袋を拾い上げて、許可を得て中身を探ってみる。


 文若さんが言った通り、絹帛の高そうな護符と「潁川荀彧」と書かれた竹簡、それとわたしがお守り代わりに渡した軟玉が入っていた。光のもとは、その軟玉だ。


「文若さん……」


 わたしはその小さな玉を親指と人差し指で摘んで、振り返って文若さんへと見せた。触ってみると分かる。じ、じじじ、と小刻みに振動しながら、柔らかな緑の光とともに人肌くらいの熱も帯びている。


『てん──め、い……』


「え?」


 何か聞こえた気がして、天幕内でわたし以外に言葉が喋れる唯一の人に問い掛ける。


「何か言いましたか?」

「いや……」


 険しい顔で間近まで近寄っていた文若さんが「何も言っていない」と首を横に振った。


 わたしの指先で、石は徐々に光を失ってきている。

 文若さんの長い指が、弱々しい小さな月みたいなソレを奪っていった。


「光る玉の話は聞いたことがあるが、実際に目にするのは初めてだ」


 矯めつ眇めつ眺めながら、不審そうに眉根を寄せる。


(あ、聞いたことあるんですね)


 本当に文若さんの知識量は計り知れない。わたしがそのことに舌を巻いている内に、文若さんの手の中で完全に光が消える。

 彼はただの磨き上げられた玉と変わらなくなった手中の石を自分の耳に近づけた。


「何か音がしたのか?今は何も聞こえぬが……」

「あ、いえ……。勘違いかも」


 ただ、『天命』と──。


 聞こえたような気がしたと話すと、文若さんは再度、じぃっと玉を見つめる。


「天命を告げる石……か──」


 文若さんは少しの間それを指先で弄んで、


「おまえには『お守り』以上の物であるかもしれぬな。これは……返したほうが良さそうだ」

 静かに耳に近付けたかと思えば、鈴を転がすように揺すってみたりしている。それでも何も反応せず、文若さんの手の中で、石はただのだった。


「持つ者を選ぶ種類の守護だ」


 ころん、美しく磨き上げられた玉、という性質に戻った石はわたしの掌の上に戻ってくる。

 わたしは代わりになるものを探して幕の中を一周して見る。

 急場しのぎで手に入れたモノでしかなくても、どうにかしたってわたしも文若さんにお守りを上げたい!


『斥候隊が戻ったぞー!!』


 天幕の外が俄に騒がしくなる。

 その時、わたしの視線に鏡台の前に置かれた、髪を整える為の短刀が目に止まった


「りぃや!」


 文若さんが止めるよりも早く、わたしは昨日の潔斎を済ませた儀式から垂れながらしにしていた自分の黒髪を掴んで、「エイヤッ」と刃を当てた。


 じゃりじゃりぶちん。ぶつぶつぶつ……


 想像したようにかっこいいシーンには全くならなかったけれど。


「代わりの、お守りです!霊験はあらかたではないでしょうけど!!」

「ふ、ふふ……」


 俯き気味に受け取って、文若さんが肩で笑いながらゴミにしか見えないそれを受け取って、子澄さんから贈られた美しい錦の護符で包んだ。


「だから、私はおまえが好きなんだ……」


 独り言のような文若さんの声は、私の耳には届かなかった。

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