第16話 流れゆくメタノイア #朔



 朔は、安倍子あべこ区の内陸側の外れ、住宅地の街路を歩いていた。


(何もなかった……)


 六月の第三週の週末、金曜日は安倍子高校の創立記念日であり、朔は休みを利用して今いる地域にある元父親所有の雑居ビルを訪問した。

 朔の父親は生前、区内に複数の不動産を所有していた。叔父からその内の一つに、父親の遺品が隠されているという情報を聞いたのは五月の始め。叔父が目星をつけてきた雑居ビルを午前中ずっと家探ししたが、何も見つからなかったので、朔は疲れ果てて落胆していた。


 小休止のために帰り際、近くの公園に立ち寄る。

 流水公園という名のこの公園は、中に自然の河川を模した沢があり、区民の憩いの場になっている。世間は平日だが、親子連れが多くいて、小さい子供もかつて子供だった父親母親も皆、沢の中に入って遊んでいる。


 朔は、公園の中央を流れる川沿いを歩きながら、携帯電話で雑居ビルの間取りを見ていた。叔父に送付してもらった怪しい物件のリスト。画面を左から右にスワイプすれば、次々に似たような物件の間取り図が出てきて、それを見送りながらため息をつく。


(物件の数が多すぎるんだ……どこに隠されているか検討もつかない)


 父の残した不動産は、居住していない建物が大半だった。父の死後、一度、委託している管理会社が遺留品を確認している。それでも見つからなかったのだから、もしかしたら分かりにくい場所に隠されているのかもしれない。あるいは隠し部屋とか。そういう秘匿されている箇所を、見取り図から検討付けて探す電子ツールなどがあればいいのだが。パッとは思いつかない。


(探し物か……そういえば保留にしていたけど、図書館で問題を解いた人も見つかっていない)


 量子コンピュータ試験問題の解答者、今のところ、朔にとっては候補が凪しかいない。凪は計算力が尋常ではないし、事故を回避した謎の能力もある。しかしそれらの能力と、図書館での解答の繋がり、そのミッシングリンクを埋める鍵が無い状態だった。


 ふと思いつく。凪の事故回避の予知能力らしきもの。もしかして、あれが探し物に使えたりしないだろうか? 


 そんな思案をしながら、公園の中を歩いていると、川に水車が設置してあるスペースまでやってきた。水車小屋の対岸に、木が平たい岩に日陰を作っている場所があり、そこで懸案の対象者、湊川凪を見つけた。


 いつもの制服姿だからすぐに分かった。

 凪は岩に腰を掛け、靴を脱いで素足になって川の水に足をひたしている。六月とはいえ、梅雨は明けて、夏の匂いが近づいている季節。熱帯性の高気圧が日本上空に居座っているせいで蒸し暑いから、凪も水辺で涼んでいるのだろう。


 凪は携帯電話を見ているようで、こちらに気付いている様子はない。

 もう本人だと分かっているが、朔は少しいたずらしたくなって、先日教えてもらったばかりの凪のSNSアカウントに、メッセージを送った。


朔:「今どこにいるの?」

凪:「今、流水公園にいます!」


 凪は即座に気付いて、返事を打ってきた。

 朔はすぐに反応してくれる凪を、ちょっと微笑ましく思いながら、川辺にいる彼女に近づいていく。斜め後ろから、携帯電話の画面を集中して見ている女の子に声をかける。


「こんにちは」

「あっ?! ……新開地君……」


 首を朔に向け、驚き、気恥ずかしさ、赤面、嬉しそうな顔と、瞬時に変化を見せる凪の顔。慌てたらしく、手に持っていた携帯電話を取り落としそうになって、川の水面すれすれでキャッチする。


「湊川さん、こんな遠くまで来ることあるんだね」

「こっちにも図書館あるので、たまに……」


 凪の返答に耳を傾けながら、朔は彼女の全身を確認する。くるぶしから下は底の浅い川に入っていて、そこから生えている白くて細い素脚が見えて、ちょっと、頬が熱くなる。しかし、水に濡れないようにスカートを上げていたせいか、が目に入ってしまった。朔から見える左の太腿ふとももの根元付近から半分まで、棒状の青痣が刻まれている。痛々しい痣。どうしたらこんな跡が付くのか。何か、板の端にぶつかったような……例えばテーブルの縁とか。

 凪は朔の目線に気づいたらしく、咄嗟にスカートを直してそれを隠す。


「あの、これは、転んだだけです。さっき……じゃなくて、えっと……昨日の夜です」


 明らかに慌てて、しどろもどろで凪が説明する。

 転んで、テーブルや家具の端に、太腿を打ちつける。あり得ないことではないが。気がかりなことを思い出した。友人から聞いた情報。湊川凪は父親から金銭的DVを受けているかもしれない。


(まさか、物理的な暴力も受けているのか……?)


 朔が一歩踏み込んで、少し立ち位置を変えると、また新しい情報が分かった。

 最初の位置からは見えなかった右手には、包帯が巻かれていた。親指と人差し指の間を起点にして、手首から下腕全体がぐるぐるとテーピングされている。凪は朔の視線の移動に気づいて、まずいものを見つかったといった様子で眉尻を下げる。


「これ、ちょっとガラスで切っちゃって……あの、手首とかじゃないですから!」


 朔はそこまでは想像していなかったが、確かににも見える。

 まあリストカット、というわけではないと思う。包帯が巻かれているのは利き腕の方だから。それにしても、全身怪我だらけの同級生を見ていると、胸が痛くなる。顔をよく見ると、下唇の左端が腫れているように見える。切って瘡蓋かさぶたができた跡もある。


 朔はしばらくうつむいている凪を見つめていたが、やがて凪の右手をそっと取った。どういう意味があったかといえば、先日、凪が朔の左手の怪我を心配して手を握ったとき、朔は凪が添えた言葉に驚いて、恥ずかしくてすぐ離してしまったから。朔は、彼女を拒絶したわけではない、嫌っていないということを示したかった。女の子の右手に触れた少年の左手は、ワゴン車の事故の後に巻いた包帯はもう取れていた。


「僕の左手、もうほとんど治りかけてるよ」


 爪が割れていた左小指を見せてそう伝える。事故から六日ほどしかたっておらず完全に治るはずもないが、血は止まっているし、爪も伸びてきている。

 凪の右手の包帯は下腕全部を覆っているので、どこを切ったのかわかりづらい。怪我している場所を触らないように、そっと、丁寧に手の部分だけ握る。

 座っていた凪は腰を上げて立ち上がり、また一層うつむき加減になっているが、手は離さなかった。


「先週の、事故のことなんだけど……どうして分かったのか――聞いてもいい?」


 凪は静かに頷いてから、語り始めた。


「目の前に、虹色の……たぶん分布図? みたいなものが見えるんです。色で強弱を表していて」


(虹色?……分布図……色で強弱……)


 凪の言った情報をまとめてみて、すぐに朔は思い至った。梅雨で散々雨が降っていたから。神奈川県はゲリラ豪雨も多いから、この季節、予報は逐一確認する習慣がついている。今日も、自宅を出がけに似たようなものを見た。


「天気予報の雨雲レーダーや降水量みたいな?」

「そう、それです!」


 朔が即座に答えたせいか、凪は目を丸くしていた。と、すぐに嬉しそうな、安堵したような顔になったが、朔は考えすぎて怪訝になり口がへの字になる。それを見て、凪も不安になって、口早に説明を追加する。


「ちょっと違うのは、たまに矢印みたいに見えることがあって、それでどこが危険か、どこに危険が向かっていくか大体わかって……ごめんなさい。こんなの変ですよね。信じられないですよね」


 上目遣いに訴えかけるような凪の言を聞いて、朔は頭をひねって分析する。視界に映っているという虹は、何らかの科学的な情報、なのだろうか。もちろん、そんなものが見える人がいるという話は聞いた事はない。


「確かに初めて聞く話だけど……でも、目の前で見たから。それで、その表示? を見ることで、ワゴン車の動きや、どこに逃げたらいいかわかったってことなんだよね?」

「はい」


 サイエンス・フィクションの話であれば、視野の中に周囲の状況を表示するサイボーグなんて話もよくある。一種の複合現実的表現MRだ。とはいえ、凪はそんな機械仕掛けの存在には全く見えないが……今触れている手も暖かいし、人として不自然なところは見当たらない。例えば改造手術的な……頭の中に周囲の情報を計算できるチップを埋め込まれて、それが見えるようになったとか?——さすがにどっちの発想も、突拍子もないし、荒唐無稽すぎる。また、凪がそんなことをされていたとしても、普通に高校生をやっている理由もわからない。


「あの、私、ゴールデンウイークの最終日、区立図書館に行ったんです。あの日、ちょっとショックなことがあって……それで。そういう時、私ちょっと意識がはっきりしないことがあって……もしかしたら」


 その日は、量子コンピュータの問題が解かれていた日だ。凪にも何か心当たりがあるらしい。


(しまったな。今、印刷した問題を持っていて、それを彼女に見せれば何か分かったかもしれないのに)


 問題を見せれば、彼女も何か思い出したかもしれないのにと、口惜しく思った。

 

(意識がはっきりしない……無意識……)


 妙にその単語が引っかかった。凪の不自然な人の呼称の仕方も、無意識にやっているという話だ。虹の視界異常も無意識に出てくる。図書館に行ったのも無意識……


(問題の解答を書いたのも無意識だったとか――?)


「あっ」


 水しぶきが朔の足元を濡らす。いつの間にか近づいていた幼児が、水の中で転んでいた。朔から離れて、凪がその子を抱き上げる。


「大丈夫?」


 三歳ぐらいの男の子。服は全身ずぶぬれになっているが、小さい声で、ありがとう、と言うと、その子は水の中を危なっかしく駆けて、少し離れたところに立っている、母親らしき人物のところへ向かっていく。

 凪は水の中から上がり、石の隣に置いてあった彼女のバッグからタオルを取り出し足を拭くと、靴下と靴を履いた。


「僕ももう、帰るよ。一緒に公園の外まで行く?」


 朔がそう言うと、凪はちょっとはにかんで、うん、とうなづいた。




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