第17話 フレーバー・ミキシング南蛮 #朔


 三連休の中日に、朔は友人を一人、自宅に招いた。


「こりゃまたすげえ家だな」


 威圧感のある五階建ての高級低層マンションの前で、そう漏らした青年は深江ふかえ耕作こうさく、朔に量子コンピュータの問題を渡した研究者だ。朔とは十歳近く歳が離れているが、安倍子あべこ高校のOBで、朔の父と彼の父が親交があった関係で知り合い、昔から懇意にしている仲だった。

 安倍子川沿いの道路に面した集合住宅の一つが朔の現住所で、駅からは徒歩で十二分ほどの距離。騒音とは無縁で落ち着いた雰囲気の新興住宅街。


「エントランスもおしゃれだね」


 入り口の自動ドアをくぐり、御影石タイルの床を踏みしめながら、深江は感嘆を漏らす。


「叔父さんの家ですよ」

「朔の叔父さんって、親父さんの遺産もらったんだろ? じゃあ実質、お前の家みたいなもんじゃん」


 よくわからない理屈を言う深江を尻目に、朔はエレベーターを呼ぶ。深江と共に、朔が叔父と二人で暮らしている三階の部屋まで来る。

 部屋に入った深江は、リビングの様子を見て感嘆する。窓側は一面ガラス貼り。三十帖はあろうかという広さで、置いてある家具も新品同然だ。


「なんか……すげえ広くてきれいなんだけど……」


 何が言いたいか、朔には分かった。生活感が無いと言いたいのだろう。実際LDKの部屋はほとんど使っていなかった。

 側面に七帖の個室が続いていて、そこが普段朔が使っているスペースだ。同居している叔父とは一緒にいることが少ないので、朔は寝食のほとんどをその部屋で過ごしている。部屋には物がなく、ベッドと脇に備え付けられたコンピュータ用のデスク、その上に乗っている二枚のモニター、デスクの前の大き目のオフィスチェアが目立つ。朔は深江に、そのチェアに座るよう促し、自分は別の部屋から椅子を一つ取ってきて、隣に座り、デスクトップの電源を付ける。

 深江はキーボードとマウスを受け取ると、朔が起動したPCをいじりはじめ、システムの詳細情報を確認する。


「ふーん。めちゃ綺麗にまとめてるけど、スペックは普通なんだな」

「計算はスパコンに投げるから、こっちの性能はあんまりいらないかと思ったんですが……」


 深江はカタカタとキーボードを叩き、朔が指定したプログラムを起動する。

 五月始めから作成している、TSP問題の解答ロジックを株価予測へ変換したプログラムだ。もともと、朔が学生ながら、資産運用のアドバイザーをやっていた関係から、深江に依頼されて始めた仕事だ。といっても、ソースコードもロジックも知人に依頼して作ってもらい、朔は要件定義とコーディネーター的な仕事をしているだけだ。今回は、ようやく組みあがったプログラムの起動結果と進捗を、深江にチェックしてもらうために、自宅に来てもらっていた。

 メインの49インチモニターには、接続されているスーパーコンピュータの仮想環境、量子コンピュータでプログラムを実行した時の、パフォーマンスを表示するウィンドウが表示されている。その隣の同じサイズのモニタには、プログラム開発環境。それらの表示を見ながら、深江が息を吸って吐き出す。


「うーん、まとまってはきたけど、実行にはちょっと厳しいなあ」

「何がネックなんです?」

「基本的に経済は多変量解析になるから……単純に計算リソースが足りないのかもしれない」

「というと、メモリとかCPUクロックとかコア並列数ですか?」

「スパコンだとそうだね。量子コンピュータの場合、量子ビット数とか量子回路数になるかな」


 深江は続けて、量子サポートベクターマシンや変分アルゴリズムによる最適化、などと専門用語を並べる。朔は、その辺りは詳しくないが、スパコンのシミュレーション結果から、深江が研究している現行の最新型量子コンピュータの性能でも、株式市場予測には難があることはわかった。


「ロジカルQubitが3000は必要かな……」

「Qubitって、量子ビットのことでしたっけ。確か、すごく不安定で増やすのが難しいんですよね」

「うん。今研究している機体でも2000ちょっと……増やすにはコヒーレンスを安定させる劇的な仕組みが……」

 

 深江は解説を終えると、必要な改善点についての指摘を始めた。それを聞きながら、朔はノートパソコンにメモする。

 そんな風に検討を続けていると、すぐに昼過ぎになっていた。

 

「腹減ってきたな」


 深江が背もたれに体を預けて、体を伸ばしながらそう言ったので、朔は何か食べ物が無いかキッチンの方に探しに行く。


「インスタントや冷食ならいっぱいありますよ」

「お前……普段そんなのばっか食べてんの? 何か外に食いに行こうぜ。この辺だと、今はどんな店があるの?」

「一番近いところだと、十日野アーケードの入り口にあるサイゼリヤですね」

「サイゼ昨日食ったんだよな」


 そう言った深江は、リビングに出ると、ローテーブルの上に置いてあったチラシを手に取って見た。


「お、この店、どう? 」


 朔は深江からそのチラシを受けとる。近所の弁当屋の割引券付きのチラシだ。

 その店は、十日野とびの側に昔からある弁当屋だが、朔は普段反対方向のスーパーやコンビニで食事を済ましているので、そこには行ったことがなかった。

 インスタントが駄目で、弁当屋にするというのもよく分からない気もするが、多少手の入ったものが食べたいということなのだろうと朔は思って、深江の案に賛成することにした。





 安倍子から十日野へ続く橋を渡ると、深江と一緒にしばらく街を歩く。

 十日野町は再開発から取り残された区域なので、よく言えば昭和レトロ、悪く言えば黒ずんだ古い建物が並んでいる。


「この辺、懐かしいな」

「深江さん、何年ぶりなんですっけ」

「大学行ってからあんまり十日野には行ってないから、それこそ十年振りかもな。随分寂れたなあ……建物とかなんも変ってねえけど。建て替え全くしてないんだな」

「あ、ここですね」


 ほんの十分ほどの距離に、その弁当屋はあった。アーケードから連続している雑居ビルの一階だ。聞いた事のない店名なので、チェーン店じゃなくて、個人営業のようだ。自動ドアをくぐると、「いらっしゃいませ」と、うら若い少女店員の声が聞こえる。

 とても聞き覚えのある声だ、と朔は思った。

 というより、昨日も一緒にいたのだから、聞き間違えるわけがない。

 柄付きの三角巾をかぶって、いつものツインテールではなく、ポニーテールにしているが、見覚えのある丸い小顔の少女が視線の先にいる。

 

「あっ! 新開地君」


 驚いて目も口も丸く開けている凪と同様、朔もちょっと呆気にとられた顔をする。


「湊川さんのバイト先ってここだったんだ」


 朔の隣にいる深江に対しては、こんにちは、と軽く挨拶する凪。


「新開地君、お昼ご飯ですか? 何にします?」


 カウンターから乗り出し気味に聞きこんでくる凪。朔と凪の距離が近いことを深江は興味津々に見ているのだが、朔はそれに気づいていない。


「そうだなあ…………じゃあ、チキン南蛮弁当にしようかな」

「はい! すぐ作るからね!」


 深江の牛焼肉弁当も注文し、会計を済ませると、凪が慌てて店の奥へ引っ込んでいく。カウンターの向こうのガラスウインドウ越しに厨房の様子が見えるが、中には凪の他、中年のおばさんが一人いて、凪に対して何か喋っていて色々と手伝っている様子が見える。


「凪ちゃーん、今日、小麦粉とお米もってく?」


 店長らしき人がカウンターの横の扉から出てき呼びかけた。厨房の外だから内容が聞き取れた。親戚みたいな口調。随分親し気な様子だ。凪と店の人達との仲は悪くないようだ。


(……小麦粉にお米? いつものお弁当、あの店でもらった材料から作ってたのかな……?)


 待っている十分ほどの間に、他の客も数人入ってくる。時間は午後の二時で昼時からは少しずれているが、それなりに繫盛しているようだ。


「お待たせしました。新開地君」


 凪がカウンタ―の外まで弁当の入ったビニール袋を持ってきて、朔に手渡す。


「ありがと。また来てもいいかな?」

「あ、はい! あの……私、土曜日は朝から夕方まで、平日は学校終わってからいるから! えっと、あとでSNS送るね……」


 店をでて川沿いの道を深江と二人で歩く。

 右手に持った弁当屋の袋は二人分のお弁当にしては、妙に重い気がする。


「あの子、朔の彼女だよね?」

「えっ?! 違いますよ、同級生です」

「え…………そうなのか? ……いや、あの子どう見ても……?」


 深江が何か言いたげにしているが、朔にはなんだかよくわからなかった。


 またマンションに帰ってきて、部屋に入り、ビニール袋から出した弁当の蓋を開ける。朔のチキン南蛮弁当を見て、深江が驚きの声を上げる。


「おい、大分差があるな。というか、写真と全然違うじゃん」


 良い方に違うと言いたいのだろう。朔の開けた弁当は大盛りという修飾語以上のインパクトがあった。まず、チキン南蛮以外にも唐揚げが4つ入っている。ちなみに、チラシの写真を見るに、この店の唐揚げ弁当の唐揚げ数は6つだった。キャベツ千切りもかなり圧縮されてこんもり入っている。ご飯は別の箱だが、これも締まり切らないぐらいの大盛。注文していないサービスだが、素直にありがたかった。

 深江の弁当は、写真の通りのビジュアルであったため、彼は不満げに「俺の焼肉がショボく見える」とぼやいたが、朔のほうを見ながら「これで彼女じゃないって嘘だろ」と訝し気な視線を浴びせてくる。


「そういやあの子、どっかで見たことあるんだよなあ」


 半分ぐらいまで平らげたところで、深江が口を開いた。


「見たことあっても、おかしくないかもしれませんよ。中学の時、数学オリンピックで優勝したらしいですし。文科省奨励賞もらえるんですよね、確か」

「それか! 思い出した。教授の手伝いで大学の計算環境補助に行ったときだな。二年……、いや三年前かな。優秀な中学生に見学させるっていうイベントがあったんだ」

「へえ、そんなのやってるんですね。先輩の研究室って量子コンピュータだったんですか?」

「コンピュータによる数学計算とか量子CFDシミュレーションだな」

「CFDってなんですか?」

「ああ、流体シミュレーションだよ。流れ解析とか。そん時は、ジェット機とか自動車の周囲の、乱流解析をデモでやってたかな」

「そんなこともできるんですね」


 ほとんど食べたあと、気になっていたことを漏らす。


「あの子、ちょっと困っていることがあるらしいんですよね」


 昨日、凪から聞いた内容を深江に相談することにした。深江は、国内ではこれ以上ない高学歴なので、脳科学にもそれなりに知見があるかもと思ったのだ。

 凪の視界に、時折虹色の帯が出ること。それは彼女が精紳不安の時や、差し迫った危険がある時に勝手に出てくることなどを話す。


「視覚異常みたいに出てきて。虹色で強弱が分かったりとか」


 ベクトル風に見えるっていうのは、さすがに異常すぎるので、あえて言わなかった。


「へえ、それってまさしくCFDのコンター図みたいだなあ」

「コンター図? それって何ですか?」

「えっと、流速や風圧を可視化するための表現技法でな。コンピュータシミュレーションでは良く使う図だよ。流れの方向を矢印付きの線で表して、流れの速さや、圧力の高さなんかを色で表示するんだ。ほら、こんな感じ」


 深江は朔のパソコンでネットを検索して、CFDコンター図のサンプル画像をいくつか表示した。それを見て、朔は思わず唾を呑んだ。


「……もしかして、これで……交通事故の予測なんてできたりしますか?」

「それはちょっと、人流予測みたいなの入ってるけど……まあ、ロジックは違うけど表示は同じになるかもしれないな」

「例えば車の通りそうな……確率が高い場所が青色から赤色になっていくとか……」

「そうそう、危険域表示なんてできるかもしれないな。まあ、でも……さすがに人間の頭の中にそんなものが現れる理由はないからなあ……なんか別のものか。虹色だったら可視光線の異常かな?」


 深江はそう結論付けて、ちょっと冗談めかして笑ったが、朔はもう笑えなかった。


(確かめないと……)


 深江があり得ないと笑ったその世界を、彼女は本当に見ているのかもしれない。

 深江が提示した科学的視界と、凪が見ている世界は、あまりにも酷似しすぎている。それは、人間の視覚には、本来映るはずの無い情報。見えるはずの無い、デジタルの情報……離散的なデータ。まるで量子の――――



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