第18話 セレンディップの観測者 #朔
確認しなければ、そう思った。
だけどどうやって?
昨日、深江が家に来た時、朔は新しいTSPの問題を受け取った。
今度は三十都市から三十一都市にスケールアップしている。
深江の量子コンピュータは開発中の最新モデルだから、構成を改良し続けており、定期的に新しい問題を試す必要があるということだった。今回の問題はまだ解答が出ておらず、計算時間の見込みは約八時間ほど。スケジューラで計算予約していて、丁度今日の午前中に結果が出る予定だそうだ。この種のTSPの厳密解は、今まで得られたことは一度もないから、今日が人類史において初ということになる。
内容を確認するために、また印刷しておく。
凪に見せる時も、紙で出しておいた方が都合が良い。
三連休最終日はやることを決めていなかったので、また図書館に行って問題の内容を検討しようと思った。前日は夜更かしをして、自宅を昼近くに出て、図書館へ向かう。
いつも使っている二階の学習スペース、四人掛けの机に来る。
先客がいた。
凪だ。
彼女もこの図書館を良く利用することは、以前から聞いていた。
「湊川さん、来てたんだ」
声を掛けながら、凪の目の前に行き、対面の席に座る。
返答がない。様子がおかしい。
机の上に広げたノートと、傍らに大学の赤本がある。左手で同じサイズの開いた本を押さえている。閉じている方の本には『自治医科大学』と黒い印字がある。その大学は朔も知っている。
広げているもう一冊の本は、数学問題のページ。
ページに書いてある内容は、朔も見覚えのある形式だ。問題数は少ないのに、やたら問題文が長く、そして解答も長文になる。これは東京大学の赤本だ。
それに対して、すさまじい速さと集中力で問題を解いている凪。
下から上に。解答を先に書いて、途中計算式を後から書き込んでいくという、独特のスタイル。前園教師のTSP問題を解いたときと同じだ。
凪は、朔の声が聞こえていないのか、目の前に座った朔に全く注意を向けない。
(無意識……)
朔が来てからものの数分で、凪は問題を全て解き終わった。
机の上には腕時計と、凪の傷だらけの携帯電話が置かれている。
凪は、シャープペンシルを持つ手を止めて、そのまま固まった。
時が止まったような時間がしばらく流れる。
朔はふと思いつき、音が出ないようにそっと、スクールバックの中から、深江からもらった新しいTSP問題が書れたレポートの束を取り出す。解答用の白紙もある。
どうしてそう思ったのかはわからない。凪に対してはそれが自然なやり方だと感じた。ただ、そうしてみれば何かが始まるような予感がした。
いつも教室で起こる当然の出来事のように、テスト問題と答案用紙が、前の席の人間から後ろの席の生徒に渡される時のように、自然な様子で。そっと自習スペースの机、凪が広げたノートの上に紙束と、隣に白紙をスライドさせる。今やっている自習を中断させる行為になる。だが、凪からは、予想していた抗議の声はなかった。
凪は紙束に書かれた問題文を視界に入れると、無言のままレポートを読んでいるようだ。やがて左手を伸ばし、レポートを一枚、また一枚とめくる。最後のぺージまでめくると、また固まった。
静寂が凪と朔の周りを包んだ。
朔は凪を凝視しながら、つばを飲み込んだ。
凪は微動だにしない。長いまつげに挟まれた瞳も固まったかのようで、瞬きすらしない。息すらもしていないのかと見紛うばかり。
つられて、朔も息を止めてしまい、しばらくしてため息をつく。
――――どれくらいそうしていたのだろうか。
――――机の上に置かれた腕時計の針が進む音だけが、かすかに耳に響く。
十五分ほどたった後、凪の手にあったシャープペンシルの芯が動くと、解答用紙に数字を刻み始めた。
0 → 4 → 3 → 11 →……
淀みなく、速記のような速度で端正な文字が刻まれていく。
まるで自動書記。その動作はあまりに正確なリズムで、綴られていく丸文字じみた凪の筆跡と比べると、違和感があった。
32個の数字と31個の矢印を書き終えると、凪は、シャープペンを机の上に置き、また猫のように一点を凝視する姿勢に戻った。
(いったい、これは何なのだろう……)
朔はいつの間にか、利き手の震えが止まらなくなっていることに気付いた。
朔は、右手を左手で押さえながら、おそるおそる、凪の前にある紙束と解答用紙を引っ張って、自分の手の内に引き寄せる。レポートと解答用紙が目の前から消えると、凪はまたその下に現れた自分のノートと、開いた赤本の凝視に戻った。
朔は、震える手で解答用紙を持ち、書かれている内容を見ながら、携帯電話を取り出す。SNSを起動する。相手は、問題をくれた深江。
朔:深江先輩、昨日頂いたTSP問題、今日結果が出ると言っていましたが、もう出ましたか?
深江:おう、少し前に出たよ。どうしたの?
朔:今ここに答え書いてもらうことってできますか?
深江:答えだけ知っても意味ないと思うけど。まあ、いいよ。
深江:0 → 4 → 3 → 11 → …… → 0
解答用紙を持った手の震えが再び襲ってくる。
深江が書いた量子コンピュータの解答と、凪がたった今書き込んだ解答を、先頭から末尾まで照らし合わせる。二回、三回。
何度見ても、寸分違わない。
朔は、独白する。
(湊川凪は、量子コンピュータで八時間かかる問題を、十五分で解いた)
何回かその文章を反芻する。
意味が後から襲ってくる。
ただ、計算が速い。
言ってしまえば、それだけのこと。
だけど、これは、あまりに―――異常すぎる。
(一番あり得ない方法だった……まさか、力技で問題を解いていたなんて)
最新鋭の量子コンピュータ。国家を代表する天才たちが、総力を結集して研究している。国の命運を左右すると言っても過言ではない、大規模プロジェクトだ。最先端のスーパーコンピュータであれば、十台束ねても数億単位の年月を要する計算も、八時間で終わる性能。十五分というのは、そのコンピュータの、約三十二倍の計算速度。
追加の事実に気付く。深江が持ってきたレポートは守秘義務を考慮した公開可能版で、使い古された回路設計や既知のアルゴリズムに基づいたものだった。それに対し、最新型量子コンピュータは、専用に開発された、最新の手法で動いている。
つまり、どういうことか。最新の手法で計算したら、凪の計算能力は、三十二倍よりももっと速いかもしれない………もはや見当もつかない。
(どうすれば……どうすればいい)
量子コンピュータの機構や論理の専門家ではない朔にとっても、今起きていること、見てしまったことの途方も無さは理解できた。受けた衝撃の大きさで、無重力の空間に投げ出されたかのような眩暈を覚える。
凪の携帯電話が振動した。
凪の体がぴくりと震え、瞬きを始める。
「あれ……? 新開地君!? いつからいたんですか?」
口に手を当て、頬を染めながら、凪が目をぱちくりとさせる。
「……さっき来たばかりだよ」
作り笑いを浮かべながら、朔は全身の寒気を押さえる。がたつく足を静めようと力を籠める。凪は携帯電話を触って、アラームの振動を止めた。
「新開地くん、あの……」
「湊川さん、受験勉強してたの?」
「そうなんです。私ちょっと成績落ちちゃったから、頑張らないといけないと思って」
ほわほわした呑気な声で、目の前の儚げ女子高生は、のたまう。
「それ、東大の赤本だよね。もう一つは、自治医科大……」
「こっちが、私の第一志望なんです」
自治医科大学は、授業料が完全に免除されており、格安の寮もある医大だ。
望めば、どんな大学でも行けるはずの子が、無料の大学を選ぶ…………
「じゃあ、東大の赤本は?」
「これは、前園先生がくれたんです。……何か、詫びだとか言って……」
(数学の前園が? ……もしかして、授業でTSPの問題を解いたときに、疑ったことのフォローか……?)
今はあまり重要ではないので、すぐにその思考は頭から振り払ったが。
前園のTSPを解いた計算能力。事故の予測。流体コンター図に似ている彼女の視野の異変。それらが今まで表に出なかった、本人も、周囲も、その異常な能力に誰も気づかなかった理由。
全て無意識でやっていたから。
そして、決定的な事実。この能力は、日常生活では、単なる計算が速い、数学が得意な人間としか見えない。複雑なTSPの問題を出題される高校生なんて、普通はいない。事故を未然に防げるとしても、事故自体めったに遭遇しないし、未然に防いだら予測したかどうかもわからないことが多い。
凪はいったいなんなのか。なぜこの能力が生まれたのか。
朔にとっては、それも不可解すぎる疑問だったが、それを考えることは、彼女を観測してしまった今となっては、あまり意味をもたないと思っていた。差し迫った問題があるから。まずは、認めなくてはいけない。観てしまったのだから。
(観測結果を真実とする……それが科学の鉄則……だけど)
「あの、新開地君……顔色、良くないみたいですけど」
自習スペースの反対側に座っている凪が、朔の方を心配そうな顔で覗き込んでくる。
「ごめん。ちょっと、この図書館……冷房効きすぎみたいだ。冷えて、具合が悪いのかも。早めに帰るね」
「あ、はい……ゆっくり休んでくださいね……」
名残惜しそうに言ってくる凪と挨拶だけして別れ、足早に図書館を後にする。
帰り道、朔はずっと考えていた。
凪は演算をしている。どうやって?
量子コンピュータを凌駕する演算能力の理由として考えられるもの。
今のところそれは、同じ量子演算であるのが最も妥当に思える。
昨日深江が言った言葉の一つを思い出した。
(量子ビット……)
量子コンピュータが、通常のコンピュータと異なり、特定の計算を異様に高速にできる理由は、計算素子が量子の重ね合わせを利用できるからだ。それができるのは、量子力学的な特性が現れている、量子ビットが中枢にあるから。
それが、もし人間の、凪の脳内にあるとしたら。
だけどそんなことが、どうやったら可能になるだろうか?
図書館と自宅の中間の公園、その中央にある噴水の周りをぐるぐると周りながら、朔は考えていた。
思考の中心にあるのは、やはり、どうすればいいのか、自分はどうするべきなのか、という事だった。
観てしまったのだから、自分は現実に備えなくてはならない。
もしこの事実を世間が知ればどうなるだろうか。
深江と自分が取り組んでいた、株価予測の計算も、凪の計算リソースが利用できるのなら、簡単に解けてしまうかもしれない。それどころか、もしかしたら世界経済の先行きを、数年に渡って予測できるんじゃないだろうか。その価値はどれほどなのだろうか。誰がそれを欲しがるのだろうか――
――誰だって欲しがる。天文学的な利益を生み出すポテンシャルがある……
もし、メディアや国家や研究機関が凪の能力を知ったら。凪は確実に「利用対象」か、「研究対象」になる。良くて囲い込み、悪ければ拉致、監禁、強制、実験…………生体サンプルとして解剖――
後ろポケットに入れていた携帯が振動する。
確認する。凪からの連絡だ。
凪:新開地君、大丈夫ですか? もう家に付きました? 風邪ですか? お大事にしてくださいね。
絵文字も、スタンプもない簡素で、業務じみた連絡。
同年代の女の子とは思えない。
これまでSNSで連絡を取る相手がいなかったのだろうか?
凪の置かれている環境を思い出してしまう。貧困、父親の経済的ネグレクト……クラスでの孤立。認知障害も、視界に現れる虹も、全部この異能が原因で出ているのだろうか。そう考えると、辻褄が合う。いろんなものを犠牲にして、身に着けた才能。
才能は、彼女を孤立させた。
彼女を幸せにはしなかった。
今までは。
これからも?
(最初の一人は、常に一人……)
ふと、朔は
それは、以前読んだSF小説に出てきた一節だった。
守らなければ。
漠然と考えたことだったが、だんだんと強い確信に変わっていく。
どこからそういう発想が来たのか、朔には分からなかったが、それは資産運用コンサルタントだった亡き父親の生き方、職業倫理から培ったものだったのかもしれない――顧客第一主義の発想。あるいは、少女への同情か。あるいはもっと他の感情?
彼女は頼れる人がほとんどいない。親も、友人も。
彼女が頼れるのは、自分だけではないのか?
自分のクライアントを保護しなければ。最初の一人を守らなければいけない。
それが、気付いた者の、彼女を観測してしまった者の役目なのではないだろうか。
自分にできることはなんなのか。
彼女は、たぶん、人類の至宝だ。
彼女の才能を、自由を、尊厳を守る。
そのためには、状況を、彼女の能力をもっと正確に把握する必要がある。
何ができて、何ができないのか――
誰にも知られないまま、秘密裏に――――
他には何を?
証拠の保全、情報管理……相談先の……選択――――
(自分は唯の高校生だ。一人だけでできることは限られている。協力者――だけど、誰を信じて、誰を疑う――――?)
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