第二回さいかわ葉月賞 あおい賞

鍋谷葵

第二回さいかわ葉月賞 あおい賞

 テーマは『夏』

 第二回さいかわ葉月賞、鍋谷葵特撰、あおい賞についてお知らせします。


 『青蟹記』 青切 吉十様著。


 本作が第二回さいかわ葉月賞、あおい賞の受賞作品となります。


 本作品は冒頭から日常の延長が描かれ、物語が私たちの住んでいる世界と接続されていることが強調されています。これに加えて、主人公が購入したガルシア・マルケスの『百年の孤独』や昼食の値段を細かく描写することで、主人公の生活が充足していないことが短文で表現されていました。


 その後、蟹に出会うまでも一般人としての倦怠に溢れる夏の日常が丁寧に描かれていました。日常を日常として、ドラマ性を排して描くことは物語を作るうえ(多くの読者は非日常を味わえる物語を求めているため、単なる日常は物語として停滞とみられることがしばしばですから)で勇気がいることです。


 しかしながら、本作では会社員の気怠い休日を丁寧に描くことで、読者に現実性を突き付けていました。それはこの作品自体が享楽的で消費される小説ではないことを明言することであり、文学的に誠実な態度を読者に示す勇敢さだと捉えられました。


 日常のなだらかさを淡々と語ることで生まれる生活的緊張。


 それを打ち壊す蟹との出会い。


 この蟹との出会いは現実では絶対にありえないことです。私たちが生活している世界においてテレパシーを用いて人間と言葉を交わし合う生物などいないのですから。


 その非現実性は読者全員が理解できますし、理解があるからこそ生活的緊張がほぐれて緩やかさが作品に漂うのでしょう。


 ただし、蟹と出会う以前の部分を物語性に逃げることなく丁寧に描写していることから、蟹と出会っても、そこには生活の匂いが漂っており、現実の中に完全な非現実が内包される構造が出来上がっています。この構造によって緊張と弛緩が両立され、現実でありつつ非現実であるという独特な認識が生み出され、読み物としての緊張と面白さを成立させています。


 このような背反する世界観を両立させる技量は本当に見事でした。


 また、構造的な技量だけではなく、人間の孤独と真正面から向き合った内容も見事でした。


 主人公の生育環境、そのために生じた父への侮蔑、侮蔑の反射による自嘲。


 幸福ではない現状の責任転嫁をしている自分を主人公は胸中において静かに侮蔑していて、けれども、それについては知らないふりをしている。だからこそ、これを指摘されたとき、蟹に苛立ちを覚えてしまった。こんな人間臭さと、「めんどうくさいやつははじかれる」という自己嫌悪に満ちた自己認識を書き切ることで、あまりにも人間的な主人公が完成されます。この主人公像は自然と読者の人間性に接続され、主人公と同じ生を辿っていなくとも読者は主人公の孤独を味合うことができます。これによって読者は当事者意識を持ち、作品を自意識的に捉え、作品もまた読者の自意識に入り込むように主人公の現状を突き付けます。


 非正規雇用という孤独、満足な賃金が得られないための孤独、想いを伝えられない不器用さがもたらす孤独、そんな誰しも一つは当てはまるだろう孤独は読者を捉えて離さない。だからこそ、蟹の「非人間的な環境に身を置いているのね」という台詞が強い衝撃をもって作品全体に優しさ(孤独な人間の対話者としての蟹、その存在もまた優しさであり、読者にとっては心の支えとなっています)をもたらし、読者はそれをじっくりと味わうことができるのでしょう。


 この誰もが抱える孤独とその充足の描写は非常に現実的で人間的です。この点においても、読者を空想の中に放らないという誠実な姿勢がうかがえました。


 物語の終わり方も秀逸でした。


 主人公と蟹、互いが互いを理解し合えたところで蟹が自らの死が近いことを語る。


 この展開は、相互理解による幸福でさえ、瞬きのものでしかない人生の理不尽さをひしひしと伝えてきます。その上で、生き物の生に対するいじらしさが、死の孤独に恐れを抱く蟹が自身を食べてほしいと頼む描写によってより強調されていました。そして、主人公が季節外れだというのに蟹の願いを受け入れて鍋で食べる描写からは、理解した相手と常に一緒に居たいという孤独な人間の願望が静かに成就し、孤独な精神がゆっくりと満たされていく主人公の経験を追体験することができました。


 最後は主人公が衝動に駆られて海に赴き、蟹になってしまう。


 それは蟹がかつて辿った道筋であり、人間社会において非人間的な環境を強いられている主人公にとっての救いであったのでしょう。


 欲望が湧き上がらない静かな海底で過ごす理解者との日々、その静かな精神の充足は欠乏しかなかった主人公にとって何よりの救済になったのだと思います。


 本作品は、現実に即したありのままの光景を逃げることなく描写することで、幻想世界を現実の中に内包し、読書という経験を通して主人公と読者を接続し、誰もが体験しうる孤独とその充足を読者に経験させる稀有な作品でした。


 本当に素晴らしい作品をありがとうございました。


 最後になりますが、さいかわ葉月賞の方に参加していただいた作者の皆様、選者の惣山沙樹様、鳥尾巻様、もちぱっち様、うみべひろた様、豆ははこ様、そして本賞を開催してくださった犀川よう様、みなさまに感謝申し上げます。


 素敵な「夏」の時間をありがとうございました。

 


 


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