阿部くんのアンパン
増田朋美
阿部くんのアンパン
夏休みも終わり、多くの会社や教育施設では新学期が始まった。当然のことながら、幼稚園保育園でも新学期が始まる。中には、保育園や幼稚園に行きたくないという子もいるのだが、そういう子どもたちが、年々増えてきているのではないかと危惧されている。
その日、阿部慎一くんは、店の近所にある保育園から、アンパンを作ってくれという要請があり、所属園児全員の人数分のアンパンを作って、保育園に届けに行った。
「どうもありがとうございます。24個全員分作ってくれたんですね。本当に感謝としか言いようがありません。最近、テレビの影響からか、アンパンを食べたいという園児が急増いたしましてね。それで、アンパンを作ってくれるパン屋さんを探していたんですが、うちは、小麦アレルギーの子が居るので、小麦以外の粉でアンパンを作ってくれるパン屋さんを探していたんですよ。」
老婦人の園長先生に頭を下げられて、阿部くんは、
「いいえ、そんな大したことありません。アンパンは比較的初心者の方でも作れますので。」
とだけ言っておいた。
「最近は、なかなか保育園に通いたがる子も少ないんですよ。だから、いろんな手を使って、保育園に来てもらうようにしないと。この間は、絵本専門士の方に絵本を読んでもらったんですけどね。全く聞いてくれませんでした。じゃあ、食べ物なら子どもたちも心をひらいてくれると思ったんですよ。」
という、園長先生。それがもし本当なら、この保育園はワケアリの子供さんたちを預かっているのかな、と、阿部くんは思った。
「子どもたちが、美味しそうに食べているのを見ていきませんか?それなら、作り甲斐があると思うのですが?」
園長先生にそう言われて阿部くんは、保育室に行った。この保育園は全員あわせても、24人しか園児が居ないので、比較的小規模な保育園である。一応、0歳児から5歳児まで預かっているが、事実上在籍しているのは、3歳からとなっている。
「ほら、みんな美味しそうに食べてるでしょう。うちの園児たちは、食べることに対しては、とても貪慾なんですよ。」
そういう園長であったが、阿部くんが見たのは、みんな確かに美味しそうにアンパンを食べていることは確かである。しかし、一人だけ、5歳くらいの男の子が、一人の女性保育士の前で、わーんと涙をこぼして泣いているのであった。
「どうしたの?光輝くん。なんで泣いてるの?理由を話してよ。」
と、優しい女性保育士がそういうのであるが、光輝くんと言われた男の子は、さらに泣き続けるのであった。
「どうしたの?なんで泣くの?ほら、アンパンを作ってくれたおじさんに、そんな顔をしたら申し訳ないでしょ。そんなことしたら、アンパンのおじさんが悲しくなるのよ。」
と、園長先生がそういうが、光輝くんはいつまでも泣いていたのだった。
「ほら、おじさんの前で泣いては行けないでしょ。謝りなさいよ。」
と保育士がそういうのであるが、
「いやいや、謝らせる必要はありません。嫌だと思われるんだったらそれで良いですよ。それより、ちゃんと光輝くんの泣いている理由を聞いてあげることが大事なんではないですか?」
と阿部くんは、そういったのであった。園長先生が申し訳なさそうに、
「光輝くん、泣いてないで、なんで悲しい思いをしたのか、先生に教えてくれないかな?」
と、聞いた。光輝くんは、肘で涙を拭くと、
「だって、僕の家では全然アンパンを食べさせてもらえないんだもん。」
というのであった。
「は?だって、昨日もパンを買いに行ったって、光輝くん行ってたよね?嘘はついちゃだめよ、光輝くん。食べさせてもらえなかったわけ無いでしょう?」
保育士の女性が急いでそういうと、
「ええ。そうかも知れませんが、子供さんの嘘というのは、願望をそのまま口にしているようなこともあります。必ず裏を取りましょう。」
と園長先生が言った。さすが園長先生、そういうところが雄弁だ。
「光輝くん、本当に昨日、お母さんと一緒にパンを買いに行った?」
と、女性保育士がちょっときつく言った。光輝くんはそれでまた泣きそうになったが、
「なにか、パンを食べられない事情があったのでしょうか?」
と、阿部くんは、園長先生にいう。
「ああそんなことありません。親御さんにも確認は取っていますが、光輝くんのお母さんは、お母さん一人で光輝くんと、お兄さんを育てています。お母さんは大学の先生で、経済的に不自由しているようなことはありません。ごめんなさい、光輝くんは時折、こういう変な事を言うときがありまして。」
と、女性保育士が説明した。園長先生は、光輝くんの事を喋りすぎないようにと注意した。
「大学?どこの大学ですか?」
阿部くんが聞くと、
「静岡大学ですよ!ちょっと検索をかけてみたらすぐ出ます。静岡大学の望月加壽子とね。」
感情的になりやすい保育士はそういったのであった。
「佐藤先生、あんまり人の話をまくしたてるのはやめなさい!」
と、園長先生が言ったので、その保育士は、それ以上喋らなかったが、阿部くんは、望月加壽子という名前は覚えることができた。
「本当にすみません。ほら、光輝くん、泣いていないで、アンパンを食べよう。」
女性保育士はそういうのであるが、光輝くんは、アンパンを食べようとしなかった。しまいには、若い女性保育士が、彼に無理やりアンパンを食べさせて、これで全員アンパンを食べてくれたことになったが、阿部くんはどこか腑に落ちないところがあった。
一方、チャガタイさんこと、曾我敬一が運営している焼肉屋ジンギスカアンでは。
「ほら、もっと食べろ。」
チャガタイさんが、少年に肉を渡すと、少年は、ありがとうと言って、肉を食べた。
「どうもすみませんね。公園の砂場で遊んでいたのですが、いつまで経っても帰ろうとしないので、声をかけてみたところ、ママがいつまで経っても帰ってこないということでした。」
「そうなると、ネグレクトの可能性もあるからさ。おせっかいおじさんのつもりで連れてきちゃったよ。」
と、ジョチさんと杉ちゃんが、そういったのであった。
「お前さん名前なんて言うの?」
少年は、杉ちゃんにそう言われて、ちょっと怖がっているような顔をした。
「杉ちゃんが、ヤクザの親分みたいな言い方をするから、繊細な子供さんは怖がりますよ。お名前はなんですか?」
ジョチさんが優しく言う。チャガタイが、兄ちゃんは誰に対しても敬語を使うクセが抜けないと言ったが、ジョチさんはそれを無視して、
「あなたのお名前は?」
ともう一度聞いた。
「望月琢磨。」
と、少年は答える。
「お前さん歩けないんだったら、どっか特別支援学校に通ってるはずだよな?どこへ通ってるんだ?」
杉ちゃんが聞くと、
「吉田特別支援学校。」
と、彼は答えた。
「はあ、吉田ですか。随分遠くへ通っているのですね。富士市に住んでいるとなると、富士宮の特別支援学校があるはずですが、そちらには通えなかったんですか?」
ジョチさんが聞くと、
「近くの学校だといじめの原因になるということで、遠方の学校に通わせることにしたんです。」
と、望月琢磨くんは答えた。
「はあ、お前さんのお母ちゃんは何をしているのかな?」
杉ちゃんが聞くと、
「静岡大学の教授をしています。」
琢磨くんは答えた。
「はあ、でも、そんなに偉くてもさ、お前さんにご飯を食わさないようでは全然えらくもないわな。」
杉ちゃんが言うと、
「そんなことありません。昨日は食べたんだし。」
琢磨くんは答える。
「何を食ったんだ?」
杉ちゃんはすぐ言った。
「カップ焼きそば。」
と琢磨くんは答える。
「じゃあ、昨日は?」
杉ちゃんがまた聞くと、
「カップ焼きそば。」
と、彼は答えた。
「カップ焼きそばばっかりじゃないか。それなら立派な育児放棄じゃないかよ。そんなこと言うんだったら、お前さんのお母ちゃんは、なんにも偉くなんかない。最愛の息子さんであるお前さんの事をそうやってご飯食わさないんだからさ。そんな親、バカにして軽蔑しちゃえ。」
杉ちゃんはでかい声でそう言って、琢磨くんの肩を叩いたのであった。
「そうかも知れないですけどね。琢磨くんのお母さんは、この世で一人しかいませんよね。それをお母さんのほうがわかってくれたら、とても幸せな人生になるんですけどね。」
ジョチさんがそう言うと、
「そんなことないよ。僕だけのお母さんじゃないもん。」
と、琢磨くんは言う。
「ああ兄弟が居るんだね。俺達も兄弟だけど、血はつながってないんだよ。この体格の差を見ればわかるじゃないか。琢磨くんの家族もそうなのかな?」
チャガタイさんが、内容の割に優しい言い方で言った。
「そういうことじゃないんだ。ママは一人だし、パパも一人。でも、パパはもうこの世には居ないんだ。」
と琢磨くんは答える。
「そうか。じゃあ、お前さんの親御さんはお母ちゃんだけか。それと、兄弟が居るってことか。」
杉ちゃんがそう言うと、琢磨くんは頷いた。
「じゃあね、琢磨くん。お母ちゃんのもとに帰れるように、静岡大学に電話してみるから、お母ちゃんの名前を教えてくれるか?」
と、杉ちゃんが言うと、琢磨くんは小さな声で、
「望月加壽子。」
と答えた。
「皮肉なものですね。子供の文学を研究している人物が、育児放棄だなんて。僕は、一度望月加壽子さんにあったことあるんですが、ものすごい若作りをしていて、子供さんが居るとは思いませんでしたよ。」
ジョチさんは、大きなため息を付いた。
「ま、そういう事するんだったら、親としても、研究者としても、失格や。もうちょっと、精神を鍛え直してもらわなくちゃ。もう少し、お前さんとお前さんの兄弟の方を向いてやってくれって、頼まないとだめだわ。」
杉ちゃんがそう言うと、琢磨くんはさらに小さくなった。
「本当は僕が悪いんだ。」
と、琢磨くんは小さな声で言った。
「なんで?お前さんが悪いなんてそんなこと言わなくていいよ。お前さんは、ご飯を食わせてもらえなかったんだから、被害者だろうが?」
杉ちゃんがでかい声でそう言うと、
「でも、僕が歩けなくなって、リハビリに毎日通うのが辛いと言ったから、そんな弱音を吐く子はもう出ていきなさいと怒って、、、。」
と琢磨くんは言うのであった。
「だって弱音を吐くのはしょうがないよ。そんなにリハビリをやらなくちゃいけないの?」
杉ちゃんが言うと、
「僕がもう一回立てるようになるのを、ママは心から楽しみにしていると。」
と言う琢磨くん。
「なるほどね。それがプレッシャーになって辛いか。でもね、僕もご覧の通り歩けないけどさ、歩けない人間でも、こうして能天気に生きてるわけだから、そんなに気にしなくても大丈夫だよ。」
杉ちゃんは琢磨くんに言った。
「そうですね。障害は不便である。しかし、不幸ではないって、誰かが言ってましたね。」
と、ジョチさんも言った。
「完璧に昔の姿を取り戻さなければならないかという必要はないと思いますよ。それは返って今の貴方みたいに、プレッシャーになって生きづらくなる可能性もありますし、それが辛いんだったら先程の杉ちゃんみたいに、能天気に生きていてもいいと思うんですけどね。」
「そうそう、のんびりのほほん。それが良いんだ。でも、琢磨くんは未成年者だ。親御さんのところに帰らなくちゃな。」
チャガタイさんが優しくそう言うと、琢磨くんはつらそうな顔をする。
「弟の光輝にも、そういうこと、言ってくれる人が居てくれたらな。」
「弟さんは、光輝くんって名前なんだね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうだよ。やっぱり僕のせいで、辛い気もちをしているんだ。みんな僕が悪いんだ。」
と、琢磨くんは言った。
「うーん、確かにつらい思いをするというのはよくあるが、それをみんなお前さんが悪いと決めつけるのはちょっと違うと思う。それで、光輝くんはなにかいじめでもあったのか?」
杉ちゃんが言うと、
「光輝は、保育園に行ってるんだけど、保育士の先生に、きついことを毎日言われているらしくて、僕のせいで出かけたくても出かけられないから、嘘の日記をつけて提出したことがあるの。」
琢磨くんはそういうのである。
「そういうことは、精神用語で言うと解離というものにつながっていきますね。辛い思いをして、ここに居るのは自分ではなくて他の人間だと思わせることです。それがひどくなれば、解離性同一性障害などの重篤な精神疾患に陥る可能性があります。」
と、ジョチさんが言った。チャガタイさんが、兄ちゃんあんまり難しい言葉を使うなよと言ったが、琢磨くんは、それを理解したようだった。
「だから、光輝がそうなったのは、僕のせいなんです。僕がママも、光輝もみんなをだめにしてしまった。パパも、僕が殺したのも同然なんです。パパは、僕をいい学校へいかせたくて仕事しているときに事故で死んでしまったから。」
「そうか。でも、事実は事実だが、お前さんのせいだとは考えるな。誰のせいにしても始まらない。それより、そのことについて、これからどうすればいいかを考えろ。それに善も悪も、上も下も何もないんだよ。」
そういう琢磨くんに杉ちゃんは言った。ジョチさんが、静岡大学へ電話をかけ始めた。果たして彼のお母さんは戻ってきてくれるか、疑わしいものであった。
「光輝くん。」
同じ頃、阿部くんは、静かに言った。
「お兄さんが足が悪くてずっとリハビリをしなければならなくて、お母さんがお兄さんのことばかりで寂しいんだね。それで、アンパンを食べないんだ。お兄さんが、アンパンが好きだったの?」
光輝くんは、小さな頭で頷いた。
「光輝くん!そういうことは、黙っていないで保育園の先生にちゃんとお話をするって、お約束したよね!」
若い保育士は、そういったのであるが、
「光輝くんは、それを言い出せなかったんですよ。だって、お兄さんが大好きなんでしょうから。だから、お兄さんが居なくなってほしいなんて言えるわけないじゃないですか。」
阿部くんは、そう言ってしまったのであった。保育士は、パン職人に何がわかるんだと言う顔をしたが、
「いや、食べるということは、周りの生活が充実していないとできないものです。それは、長年パン屋さんをしてきてわかったことです。」
と阿部くんは反論した。
「確かに寂しいかもしれないけどね。光輝くんは我慢しなければいけないんだって、先生、何遍も言い聞かせたと思うんだけどなあ?」
若い保育士はそう言うが、
「どこかで、光輝くんの寂しい気持ちを受け止めてあげられる存在が居るから、彼は生きていけるということだってあり得るんじゃありませんか?もし、お母様がそれはできないんだったら、他人が代わりになるしかないでしょう。逆に、そういう人がいれば、光輝くんはそれを頼りに生きていけますよ。」
阿部くんは、思わず言った。
「僕、おじさんと一緒にパン作りたい。こんな保育園にいても、しょうがない。」
光輝くんは泣きながら言った。
「望月加壽子さんと連絡を取れました。今教授会が長引いてどうしても来られないので、来るのは5時以降だそうです。」
と、園長先生が、電話の受話器を持ったままそう言っていた。阿部くんは、なんて身勝手な人なんだと思ったが、それはいえなかった。
「光輝くん先生といっしょに、絵本読んで待ってようね。」
と若い保育士はそう言うが、
「僕、おじさんと一緒に居る!」
光輝くんはそう言うので、阿部くんはここは少しでもアンパンマンにならなければならないなと思って、保育園に残ることを決めた。同時に、誰か、光輝くんの気持ちをわかってくれる人が居てくれたらと思うのだった。
「静岡大学に連絡が取れました。望月加壽子さんは、教授会で来られないそうです。」
と、ジョチさんは、大きなため息を付いた。
「そういうときやっぱり、親御さんが二人いてくれたほうがいいな。だって、岡三一人だけで、なんとかできるとは到底思えないよ。」
と、杉ちゃんがでかい声で言った。
「そうですね。俺もそう思うな。例えばさ、俺達兄弟は、俺も兄ちゃんも血がつながってない兄弟だけど、俺は俺で焼肉屋をやって幸せだし、兄ちゃんは、何だ、社会福祉法人とか言う組織の理事長なんかやって、ちゃんと社会的な地位も得ているし、まあね、なんとかなるものだ。だから、君と、光輝くんをしっかり支えてくれる、そして、君たちのお母さんを支えてくれる人が現れたら、一緒に暮らさせてあげような。」
と、チャガタイは、涙をこらえながら言った。
「本当は、お前さんだって、お父ちゃんがほしいって、心のどこかで思っているんじゃないのか?」
杉ちゃんがそう言うと、琢磨くんは涙をこぼして泣き出してしまった。
「まあ、偉いやつだって、一人ぼっちで居たら、えらくなんかなれないんだよな。人間なんてそんなもんだよ。それを、お前さんたちで知らせてあげようね。」
杉ちゃんはそう琢磨くんの肩を叩いた。
「お前さんもな、完璧に歩こうなんて思わなくていいんだぜ。歩けなくても、僕みたいに能天気に生きている人間はいっぱいいる。歩けなくたって、笑顔を見せれば、お前さんのお母ちゃんだって、安心してくれるんじゃないかな?」
「ありがとうございます。」
琢磨くんは、杉ちゃんに頭を下げた。
同じ頃、阿部くんは、保育園でパンを作るにはどうすればいいかを、光輝くんにきかせていた。彼も、この先生きてたってろくなことはないという顔をしていたが、
パンを作るときのお話を聞いていくにつれて、にこやかな顔になっていくのであった。もしかしたら、この少年は、パン作りに生きがいを見出してくれるのかもしれない。
いつの間にか、五時の鐘がなったが、光輝くんのお母さんは姿を見せようとしなかった。保育園の人たちは、お母さん来ないですねなんていい始めたが、光輝くんは、阿部くんの話を真剣な顔で聞いていた。もう、日が落ちるのが早くなり、30分程度で暗くなっていった。なんて日の暮れるのが速いんだろうと思ったが、もう季節は秋が近づいているんだとみんな感じ取っていた。近い内に、涼しくなって行くのだろう。
阿部くんのアンパン 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます