その旋律は雪のように
彼と初めて会ったのは、放課後の音楽室だった。
奏でるピアノの音色は、あらゆる感情を映し出す映写機のようで、繊細なその指先から奏でられる音、ピアノの鍵盤の動き、グランドピアノの内部に張り詰められたピアノ線と繋がったハンマーの動きまで、私は見入ってしまった。
「あ……ごめん、演奏の邪魔だった?」
「いや、聴いてくれて嬉しい」
パタンとピアノの蓋が閉まる音とともに、彼がこちらを見る。
色は白く、儚げなその姿は、まるで妖精のようで、私は思わず息をのむ。
私は、それからも放課後ピアノの音がするたびに音楽室へ足を運び、彼の演奏に耳を傾けた。彼の演奏が、好きだった。そして、いつしか彼の姿を探していた。
「
彼は頷く。
「入試の実技試験の練習。受験までにこの演奏を仕上げないと」
彼の目はどこまでもまっすぐだった。
その視線の先に私がいたらいいなと思うまでに時間はかからなかった。
音大を志望している彼は、ピアノと夫婦みたいに寄り添っていた。
私は、彼を応援したい。彼のそばにいたいなんて、思ってはいけないこと。夢の邪魔はできない。
私の喉の奥が詰まったような感覚を覚える。そして手をぎゅっと握り、私は想いを封じ込めた。張り詰めた胸の中の線が、軋む音がする。
十二月。珍しくこの時期に初雪が降った。
いつものように音楽室に行くと、彼は力が抜けたように震えながら笑っていた。
「……どうしたの?」
彼が振り向く、その目には、涙。
「
力なく笑う彼に、私は思わずそっと抱きついてしまった。
「おしまいなんかじゃないよ、
彼は黙って私の顔に触れる。一瞬、胸が跳ねる。
静かな時間が、私たちの間に流れる。いつも響く旋律も聞こえないまま。
刹那、ぎゅっと彼のほうに抱き寄せられる。
「ありがとう。光……いや、
一瞬、しんとした時間が流れる。
私はどきりとして顔を上げる。彼の目が、まっすぐ私を見つめる。私はただ頷く。
彼の指が動かなくなった理由、それは精神的な重圧によるものだったらしい。その後、彼の指から旋律を奏でられることなく、私たちは高校を卒業し、彼は進路を変え、音楽の道を諦めた。
「……透也くん、本当によかったの?」
彼の顔が一瞬曇る、しかしすぐにまっすぐ前を見てはっきりと言った。
「これでよかったんだよ。親には散々言われたけど」
彼は微笑んで続ける。
「美緒のおかげだ。練習の時も美緒がいつもそばにいてくれたから。これからも――」
私は、彼をまっすぐ見て、頷く。
「もちろん、そばにいるよ。ずっとね」
私たちの間を雪のように溶けていったもう聞こえないはずのいつもの旋律がふわりと包んだ。
優しさと痛みのあいだで 凪砂 いる @irunagi
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