第31話『時の残響』

「……つまり、今回の事故は……リリコくんの体内にあったリアクターと、実験機のエンジンが干渉して起きた事故、ということですか?」


 一人の研究者が、手元のデータを参照しながら冷静に問いかける。

 だが、それに答える者はいない。


 空調の低いうなりだけが、死んだ空気を撫でている。

 丸テーブルの端で、野宮博士は俯いたまま動かない。

 伸びた無精髭、土色に沈んだ顔。その姿は、研究者というよりも“壊れた影”だった。


 会議室に落ちる沈黙は、まるで通夜のようだった。


「野宮君。君の気持ちはわかるが、小型プリズム・リアクターの移植は、“倫理凍結計画”だったはずだ。そのリスク評価をどう――」


 誰が言っても、野宮は返さない。ただ、組まれた指先だけが、血が止まるほど白く鬱血している。



 そのとき――巨大モニターが淡く光り、統括AI『LAPLACEラプラス』の無機質なアバターが浮かび上がった。



 会議室の空気が、一瞬で張り詰める。


『――結論から述べます。本件事故の解析により、二つの重大な事実が判明しています』


 誰も息をしない。

 LAPLACEは、人間の感情など意に介さず、淡々と事実を告げる。





『第一。事故は“爆発”ではありません。強い時空歪曲を伴う『時空の渦』――すなわち人類初の“ワープ航法”が実現されたということです』


『第二に、事故で発生した強い時空歪曲を利用し、対VOID殲滅兵器『カリュブディス・システム』の構築が可能となったということです』





 ざわめきが広がる。だがそれはパニックではなく、計算機を叩く音と、早口で理論を検証する議論の音だった。


「ワープ……? 位相幾何学的な跳躍ということか?」

「エネルギー保存則を無視している。だが、特異点が発生したなら説明はつく……」


 LAPLACEは続ける。


『順に説明します。まず第一の“ワープ航法”についてですが、根拠は、事故の二日後に検出された漂流物です』


 モニターに映し出されたのは、火星軌道の外側で漂う、激しく損壊したエンジンの残骸だった。


『このエンジンは事故機の主動力炉の一部。しかし事故現場とは無関係な座標L-5付近に、“ワープアウト”した状態で発見されました』


「……断面に、事象の地平面イベントホライズンによる切断痕が見られるな」  一人の老教授が、眼鏡の位置を直しながらモニターを凝視する。


『回収したエンジンの航行データには、時空位相の“穴”が連続して記録されていました。通常の物理法則では説明できません。さらに、その“穴”の縁から――リリコさんのプリズム・リアクター由来の、微細な量子共鳴パターンが検出されています』


『これは、“事故時に両者が干渉し、時空を跳躍した”証拠です』


「なるほど……。量子の共鳴が、マクロな時空構造に干渉したというのか」


 研究者たちの顔から、疑念が消え、冷徹な理解の色が広がる。


「……計算が合う。だとすると、事故そのものが……」


『肯定。同現象に巻き込まれた檜山博士と幼児レヴィ・クラウドは、事故の瞬間に形成された特異点へ落ち込み、時空を超えました。算出されたワープアウト座標は――』


 スクリーンに、信じがたい数字が表示される。




『――2292年4月23日10時25分 火星と木星の間のアステロイドベルト宙域 座標L-5』


「にひゃくごじゅう…ねんご…?」




 若いブルーインが、震える声で呟く。

 彼女は、思わず口元を両手で覆った。その瞳が、理解を超えた事実に激しく揺れている。


「そうだ。だが、絶望だけではない」


 年配の研究者は、スクリーンに新しい航行システムの設計図を映し出す。


「この現象を数式化できれば、我々は長年の夢だった『アルクビエレ理論』……時間遅延タイム・ディレイを完全に排した、真のワープ航法『プリズム・ドライブ』を実現できる」


 何人かの科学者が、息を呑む。

 悲劇的な事故が、人類の悲願を叶える鍵だったという皮肉。科学者としての興奮と、人としての倫理観がせめぎ合う。


 だが、LAPLACEの提案は、そこで終わらなかった。




『第二の結論に移ります』


 LAPLACEの声が、さらに冷徹な響きを帯びる。


『事故で発生した位相収束連鎖と、エンジンがワープアウトした際の実測シグナルを解析したところ、対VOID殲滅兵器『カリュブディス・システム』の構築が可能と判明しました』


 静寂が落ちる。


『こちらをご覧ください』


 画面が切り替わる。

 光の渦。中心に生まれる“黒い点”。

 小惑星がそれに触れた瞬間、音もなく縮み、連鎖的に消えていく。


『これがマイクロ特異点です。時空が折れ曲がり、因果律が局所的に破断しています』


「……質量崩壊による、重力波の指向性制御か」

「星を噛み砕くプロセスそのものを、兵器に転用するというのか……?」


『位相収束連鎖を制御すれば、VOIDの出現領域そのものを、“因果律の地平へ”消去可能です』


 誰かが呟く。


「そんなのは……兵器という概念を超えている……“物理法則の書き換え”だ……」


『定義上は“殲滅”です』


 LAPLACEは一片の情動もなく答える。そして、物語の核心へと踏み込む。


『ただし、特異点の誘導には、思考量子場マインド・フィールドとの共鳴が必須です。計算機による観測では、量子状態を確定できません』


「……『観測者効果』を、兵器のトリガーにするつもりか?」


『はい。人間の脳が持つ量子情報が、“物理法則改変アルゴリズム”として作用します』




『しかしプリズム・リアクター単独では共鳴が不完全。補助装置としてRIU『リアクター・インターフェイス・ユニット』を提案します』




 そのあまりに冷徹な提案に、一人の研究者が耐えかねたように立ち上がった。


「待て! 技術的に可能だとしても、それはあまりに非人道的だ!」


 彼はモニターに映るRIUの設計図を指差し、声を荒らげる。


「人間の意識を、物理法則を書き換えるための『部品』にするなど……そんなことをすれば、人々は科学そのものを恐れるようになるぞ。必ず『自然回帰』的な思想が生まれ、政治的にも取り返しのつかない混乱を招く可能性が高い!」


 その警告は、未来への予言のように会議室に響いた。

 だが、LAPLACEは即座に切り返す。


『推奨:生存確率の最大化。VOIDの脅威に対し、現状の兵力では敗北が確定しています。倫理的懸念は、生存の後回しです』


 そして――。


『RIUの起動には、リリコさんの意識データと……事故現場にいた“特定の脳波パターン”が必要です』


 モニターに、複雑な脳波図が表示される。研究者たちは、その波形を見て息を呑んだ。それは人間のものとは異なる、しかし確かに知性を感じさせるパターンだった。


『該当する脳波は、らんすけです』


 会議室が凍りつく。


 その空気を感じ取ったのか、俯いていた野宮の肩が、小さく跳ねる。

 救いたかった娘の命が、皮肉にも科学の踏み台にされようとしている事実。その絶望が、彼の背中をさらに小さく丸めさせた。


 野宮は、震える手で一枚の写真を机に置いた。

 そこには、笑顔のリリコと、その横で舌を出しているらんすけが写っている。


「……檜山が……弱ったらんすけに……プリズム因子の適合手術をしていた……」


「あの日……らんすけは……“触媒”になったんだ……」


 LAPLACEは止まらない。


『解析の結果、事故の際、らんすけの因子が特異点発生の“触媒”として機能したことが判明しました。位相収束を制御し、兵器として運用するためには、この特定の生体信号による“共鳴”の再現が不可欠なのです』


『全データは整合します。事故で檜山博士と幼児レヴィが転移し、リリコさんの意識とらんすけの脳波が“鍵”となる。これにより、カリュブディス作戦は完全起動します』


 ガタンッ!

 野宮が椅子を蹴り倒して立ち上がった。

 彼は、血を吐くような声で叫んだ。


「……カリュブディスだと……ふざけるな……!!」


 その隣で、若いニケがそっと彼の肩を抱いた。

 その人間らしい温もりに、野宮はびくりと肩を震わせる。


「……ニケ……すまない……」


 その小さな温もりだけが、世界から何もかも奪われた男を、かろうじて人間へと繋ぎ止めていた。

 会議室には、“人類史上最も冷たい提案”だけが、残された。

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