第32話『帝国の爪』

 ブルーインは、ゆっくりと目を開けた。

 250年前の、あの白く、冷たい会議室の光景が、まだ網膜に焼き付いている。


「私たちは、プリズム・ドライブの繰り返し行われたテストワープ航行、そして完成した禁断の兵器…カリュブディス作戦。因果律ごと消し飛ぶ爆心地から、時間遅延タイム・ディレイを覚悟でワープアウトする片道切符。そのリスクを逆手にとって、未来へ飛ぶことに賭けたの。あなたたちに、もう一度会うために…」


 ブルーインは、自分の手を見つめる。


「でも、カリュブディスから帰還して、冷凍保存していたリリコをアンドロイドとして復活させた後…野宮博士は、突然私たちの前から姿を消した。理由は、私にもわからない…」


「私も、もう疲れたの。誰かのためでも、世界のためでもなく、ただ自分のために生きたかった。私も…あなたたちと同じように、リリコに、あの過去に囚われた人間だから。だから、あの子には…ブリ子には、何も知らない、普通の女の子として生きてほしいの…」


 ブルーインは、そこで初めて、レヴィの目をまっすぐに見た。


「だから、あなたが現れた時、すぐにわかった。250年前の、あの時のレヴィだって。そして感じたのよ…ああ、また何かが、私が逃げようとしたものが、追いかけてきたんだって」


 ブルーインは、そっと視線を落とした。


「私にとって、あの事故は、まだたった4年前の出来事なの…。昨日のことのように、思い出せる…」


 レヴィは、言葉を失っていた。

 目の前の女が、ただの敵や味方ではない、自分と同じく「時間」に取り残された、孤独な存在であることを、今、ようやく理解したのだった。



 ◇ ◇ ◇



 二人を支配した長い沈黙を無遠慮に引き裂く、来客用の無機質な電子音が鳴り響く。


 ブルーインは、無言のまま、俯きながら玄関に向かい、まるで諦めたかのように、静かにドアを開けた。

 そこに立っていたのは、武装した三人の兵士だった。


 彼らは、ブルーインには目もくれず、リビングのソファに座るレヴィに向かって、一直線に歩いてくる。

 その光景を見て、レヴィは、全てを悟った。


「レヴィ・クラウド・ストラウスを、国家保安法違反の容疑で拘束する」


 その言葉を、ブルーインは唇を噛み締めながら見つめていた。

 だが、次の瞬間、別の兵士がブルーインにも銃口を向けていることに気づき、ブルーインの顔から血の気が引いた。


「野宮博士の助手、ニケ・ブルーイン。あなたも同行願う」


 対応はあくまで紳士的だが、下から突き上げるように睨み返す。

 さらに別の兵士が、ぐったりしているらんすけに特殊な銃を向け、麻酔弾を撃ち込み、捕獲用のケージに入れる。


「貴重なサンプルだ、丁重に扱え」


「話が違う!」


 計算も、予測も、全てが無に帰した。

 理性が焼き切れたように、ブルーインは掴まれた腕を振り払い、金切り声に近い悲鳴を上げた。


「あなたたちが用があるのは、この子だけでしょ! 私と、らんすけは関係ないはずよ!」


 だが、間髪いれずに兵士は冷たく言い放つ。


「我々は、帝国の法に従うまでだ」


 ブルーインは、自分が描いたささやかな未来が、砂の城のように脆くも崩れ去ったことを悟った。

 ただ、ブリ子と静かに暮らしたかっただけなのに。


 顔を上げると、玄関の光の中へ消える、兵士の大きな影とレヴィの後ろ姿が見えた。



 ◇ ◇ ◇



 無機質な、コンクリートの壁に囲まれた一室。

 レヴィは、硬いパイプ椅子に座らされ、ただ、正面の壁にある、小さなシミを眺めていた。

 いつからここにいるのか、もう時間感覚は曖昧だった。


 重い金属の扉が開く音がし、武装した兵士が一人、無言で部屋へと入ってくる。


「来い」


 短く告げられ、レヴィは無言で立ち上がった。

 事情聴取があると聞かされている。

 冷たい廊下を、兵士の後ろについて歩く。


 その途中、ドアが少しだけ開いた監視室の前を通りかかった。

 部屋の中に並んだ複数のモニターの一つ、大型のスクリーンに映し出されたニュース映像が、一瞬だけ、レヴィの視界に飛び込んでくる。




『――【速報】帝国宇宙軍付属新幕張女子高等学校にスパイ容疑で――』

『――テスト航行中の重大インシデントとの関連は…軍当局は依然として――』




 SNSのタイムラインには、自分への悪意に満ちた言葉が、滝のように流れている。


「シリウスからの転校生、やっぱりスパイだった」


「優等生だと思ってたのに」


「美人局か?」


 学校の正門前には報道カメラマンや野良メディア運営者が集結し、ジャーナリストとともに無関係な学校関係者に詰め寄っている。

 テレビスタジオでは緊急特番が組まれ、芸人や知識人がこぞってSNSで煽りはじめた。


 帝国軍のパイロット候補生でもこの様だ。

 裏切られたのではない。シリウスから来たなんてことも関係ない。

 もともと世界なんてそんなものだ。


 ブルーインもまた、ブリ子に狂い、自分を見失いかけている私と同じ。

 彼女も私もブリ子を中心に世界が動いていたんだ。


 それだけでいい。


 レヴィは、そっと、目を閉じた。

 心を閉ざすことでしか、自分を保つことができなかった。

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