第3話『2306年、帝都の朝』
けたたましいアラーム音に混じって、リビングから飛んでくる気だるそうな声に、野宮リリ子は、うっすらと目を開けた。
【システム:スリープモード …… 解除失敗】
【現在時刻:08:15 AM】
【警告:遅刻確率 98.9% …… 上昇中】
意識の水底で、無機質な文字列が泡のように浮かんでは消える。
「リリコ! いつまで寝てんのよ! 遅刻するわよ!」
布団の中から手探りで、ベッドサイドに置かれた旧式の目覚まし時計を引っ張り込む。
鳴り響くベルを無理やり止め、時刻を確認すると、そっと元の位置に戻そうとして――ガチャン、と間の抜けた音を立てて床に落とした。
「あと、5分……」
「はいはい、いつものやつね」
【警告:管理者(ニーねぇ)接近中】
【危険度:レベルA(トースト没収の危機)】
呆れたような声と共に、リリコの部屋のドアが遠慮なく開かれる。
部屋の惨状には目もくれず、ずかずかと窓際まで歩くと、勢いよくカーテンが開け放たれた。
強い朝日が、部屋の中を白く染め上げる。
床に脱ぎ散らかされた服。
壁に貼られた大人気アニメ『カリュブディス戦記』のポスター。
棚に無造作に飾られたメカのフィギュアや、レトロなゲーム機、自慢のスニーカーのコレクションが、日の光に照らし出された。
「さっさと起きないと、あんたの分のトースト、らんすけのごはんにするけど、それでもいいわけ?」
「クゥン」と短い鼻を鳴らし、しわくちゃの顔でじっとこちらを見上げる、真っ黒なフレンチブルドック。
その言葉を合図に、肉の塊と化したらんすけの突進が、リリコを布団の奥へと沈み込ませた。
耳元で響くフガフガという鼻息。
そして、頬を覆う、ザラザラした舌の湿った感触。その愛情表現の激しさに、リリコは抗議の声を漏らす。
「うぐ…、おはよ、らんすけ…」
どうしようもなく気だるい朝。
ベッドから起き上がろうとする思考に、ナノマシンで構成された身体がワンテンポ遅れてついてくる。
まるで水の底にいるような、この意図的なリミッターがもたらす肉体とのズレが、今日も彼女を『野宮リリコ』という容れ物に押し込めていた。
リリコは、そんな奇妙な感覚をやり過ごしながら、鏡へと向かう。
毛先がゴールドに色づいたピンクのショートヘアは、芸術的なまでに四方八方に跳ねている。
リリコはあっさりと諦めた。
【ミッション更新:トーストを完食し、08:30までに登校せよ】
【報酬:ニーねぇの笑顔】
「うわああああ! マジで遅刻するー!」
リリコはドタバタと慌ただしい足音を部屋に響かせ、制服に大急ぎで腕を通す。
「ニーねぇ、ごめん、トースト!」
キッチンカウンターに置かれた皿の上のソーセージと目玉焼きを、左手に持ったフォークで一気にかき込む。
その間も、リビングの壁掛けスクリーンからはニュースが淡々と流れている。
『――帝国宇宙軍、絶対防衛ラインへの新型無人AF機配備を加速。開発は最終段階か…』
『【警告】帝都各地で、旧式アンドロイドの『ハルシネーション(幻覚)』によるものと見られる、原因不明の事故が多発。保守派団体は、アンドロイドの即時規制を求め…』
リリコは、ペロリと皿を平らげてからトーストをくわえた。
「ったく……。顔くらい洗ってきなさいよ。行儀悪いわねぇ……」
食パンをくわえたままカバンを掴む。
玄関へと向かうリリコを、呆れたように、しかしどこか楽しそうに呼び止めた。
「ちょい待ち! あんた、その頭で行く気?」
自分より背の低い彼女が、大きめの部屋着のスウェットから細い腕をのぞかせ、少し見上げるようにして手鏡を突きつける。
腰まで届く黒髪は、手入れも面倒なのかボサボサなまま、その中からいつもどこか眠たそうな、気だるげな顔が覗いていた。
その表情とは裏腹に、世話焼きなところは昔から変わらない。
「あ……」
差し出された手鏡には、見事に爆発したひどい寝癖頭の自分が映っていた。
「あんたがそんなだから、保護者のあたしが、先生に、呼び出しくらうハメになるんでしょ……」
ニケ・ブルーイン。
それが、彼女の本当の名前。
でも、リリコは、物心ついた時から、彼女のことをずっと「ニーねぇ」と呼んでいる。血の繋がりはないけれど、世界でたった一人の、大切な家族だ。
「よし、これでマシになったでしょ。さ、行った行った!」
「ありがと、ニーねぇ! 行ってきまーす!」
リリコは、世界のきな臭さには目もくれず、玄関のドアを開けた。
足元で、愛犬のらんすけが「クゥン」と寂しそうな声を上げた。
その大きな瞳に「行かないで」と書かれているようで、リリコは少しだけ胸が痛んだが、今は構ってあげられる時間はない。
外に出ると、少しひんやりとした朝の空気が肌を撫ずる。
リリコはふと空を見上げた。
古びたコンクリートの集合住宅、その5階の窓から、ニーねぇが小さく手を振っているのが見えた。
その向こうの、どこまでも広がる青い空には、一筋の飛行機雲が、白い線を引いていた。
◇ ◇ ◇
バス停で自動運転のバスに乗り込み、最寄りの駅へ。
そこから、旧式の高架鉄道に乗り換える。
ガタン、ゴトンと規則的な振動に身を任せ、吊り革につかまりながら、車窓を見つめるリリコの目の焦点は定まらない。
高架鉄道が、古びた住宅街を抜けて大きくカーブを描くと、目の前に広がる景色は一変する。
天を突くほどの超高層ビル群。
その間を、音もなく浮遊するエアカーが行き交い、ビルの壁面には、巨大なホログラム広告が色鮮やかに明滅している。
そして、さらにその高みには、霞んで見える巨大な宇宙エレベーターのシルエットと、煌びやかな軌道リングがうっすらと浮かんでいた。
2306年の帝都の姿だ。
旧式の電車が立てる耳障りな走行音だけが、ここが現実であることを告げていた。
自分のデジタルデバイスに視線を落とす。
イヤホンから、今一番お気に入りのアニメ、『カリュブディス戦記』の主題歌が流れ始めた。
世界の危機なんて、画面の中だけで十分だ。
「……最近、物騒よねぇ」
「見た? 昨日のニュース。またアンドロイドが暴走だって……」
音楽の隙間から、同じ顔をした大人たちの会話が耳に飛び込んでくる。
「なんでも、軍の研究所が狙われてるとか」
「シリウスの仕業だって噂もあるけど、あたしは国内の保守派の連中だと思うわ。あの人たち、アンドロイド技術のこと目の敵にしてるから……」
リリコは、ちらりと大人たちに視線を送ったが、根も葉もない噂話しに興味を失い、再び画面の中のヒーローに夢中になる。
世界の行く末より、来週の放送で主人公が手に入れる新しい必殺技の方が、よっぽど重要だった。
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