第2話『湾岸の喧騒』
――半年前
湾岸の埠頭は、地を揺るがすような硬質なテクノサウンドに支配されていた。
潮風に混じって、焼けたオイルと、高電圧が空気を焦がすオゾンの匂いが鼻をつく。
あちこちで、改造アーマードフレームの走り屋たちが、剥き出しのジェネレーターの最終調整に余念がない。
本来は戦場を駆けるための無骨な人型兵器が、ここでは重厚な装甲を極限まで削ぎ落とされ、巨大なエンジンと骨組みだけの異形のレーサーへと成り果てている。
野次馬たちは賭けのオッズを、手元の端末に向かってヒステリックに叫んでいる。
その熱気と喧騒のただ中に、一人の少女。赤いタータンチェックのかぼちゃパンツに、白いフリルのブラウス。
まるで異世界から迷い込んできたかのように、場違いなほど清楚な出で立ちで、ただ一人、静かに佇んでいる。
月光を反射して淡い青にきらめく銀髪が、ツインテールに揺れる。その手には、観測用スコープが構えられていた。
レンズの先、夜の闇に沈んだ幕張の海では、湾岸闇エアレースが繰り広げられていた。
水面すれすれを、違法に設置されたホログラフィック・パイロンが青白い光のゲートとなって連なり、二条の光――二機の改造アーマードフレームが、物理法則を嘲笑うかのように直角的な機動で互いの航跡を縫って交差していく。
まるで意志を持ったミサイルの乱舞。
観客たちは、そのあまりにも人間離れした
スコープは、その一方の光――『幕張絶対可憐流星隊』のマーキングが施された純白の機体だけを、執拗に追い続けていた。
レンズにオーバーレイ表示されたエネルギー波形のグラフが、瞬時に理論値の限界を振り切る。
そのありえない数値に、少女は息を呑む。
――間違いない、この機体のパイロットか。
確信と共に、静かに呟いた。
「……見つけた」
◇ ◇ ◇
内臓が背中に張り付くような圧迫感に、野宮リリ子は歯を食いしばり、操縦桿を握りしめた。
機体の振動に合わせ、絹のようなピンクの髪が踊り、その毛先は光を帯びたゴールドへと溶け込んでいく。
コックピットを埋め尽くす計器盤の青白い光が、汗の滲む額を照らし、そのピンク色の瞳に無数の警告灯を映し込んでいた。
右手の指先がコンソールのタッチパネルを撫でるように滑り、エネルギー配分を微調整する。
左手はスロットルを断続的に押し込み、機体の姿勢を制御。
足元では、ラダーペダルを蹴り飛ばすように踏み込み、強引なヨーイングで機体を滑らせた。
【警告: 横滑り角 ……
【システム: 姿勢制御 ……
ゲートを潜るたび、対岸の観客席から熱狂と怒号が音の波となって押し寄せるのが、肌で感じられた。
真横に、龍のエンブレムを付けた黒い機体が並ぶ。
その機体は、まるで荒馬をねじ伏せるかのように、ガクン、ガクンと不規則に揺れていた。
『ぐっ…! この…!』
コックピットから、操縦桿と格闘するような、荒い息遣いと、力んだ声が漏れ聞こえてくる。
『おいおい、マジかよ…!』
敵機のコックピットから、驚きと苛立ちが混じった通信が、ブリ子の回線に傍受される。
『大河! 油断してんじゃねえぞ! そいつ、ただのルーキーじゃねえ!』
『うるせえ! 分かってる!』
パイロット――
『リアクター温度、危険領域。 リリコ、少し抑えなさいよ?』
思考リンクを通じて、聞き慣れた、少し呆れたような声が直接、脳内に響く。
「大丈夫だって、ニーねぇ。この子、ちゃんと私の言うこと聞いてくれるから!」
【警告: リアクター温度 臨界点】
【システム: 出力制限を推奨 …… 拒否されました】
【システム: 安全装置を作動 …… 拒否されました】
リリコは悪戯っぽく笑うと、背中に「虹色氷菓」と刻まれた特攻服の袖をまくり、最後のストレートでスロットルを一気に全開にした。
ゴウッ、と獣の咆哮のような轟音が響き、機体後部のジェットノズルから、蒼い炎が尾を引く。
景色が歪み、黒いライバル機が瞬時に後方へと消え去った。
◇ ◇ ◇
その神業的な走りは、ただの分析対象として見つめていたはずの少女の心さえも、知らず知らずのうちに揺さぶられていたが、真横からのつんざくような声で我に帰る。
「ブリ子ぉぉぉぉ! いけぇーっ! ゴールまであと少し!」
リリコと同じ純白の特攻服を羽織った春日アカネが、背中まで流れるオリーブグリーンの緩やかなウェーブヘアを夜風になびかせ、拡声器を片手に身を乗り出し、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「もう…アカネ、声が大きすぎます」
隣で、同じ特攻服に身を包んだ町田ミヤビが、やれやれというように耳を塞ぐ。
切り揃えられた黒髪のボブカット。その前髪には、鋭いイエローのメッシュが一筋入り、彼女の知的な瞳を強調させる。
その二人の純粋な熱狂に、ツインテールの少女は一瞬呆気にとられるも、いつの間にかアカネと肩を組み、一緒になって拳を突き上げ、理性を忘れたように叫んでいた。
微笑ましく理解不能な二人のその姿は、猛スピードで色を失っていく景色の中、リリコの瞳にも白い熱狂を帯びた光として認識ができた。
【ミッション: 完了】
【判定: 勝利】
勝利を確信したリリコがふぅーっと口元を緩め、最後のゲートを駆け抜けた、その直後。
けたたましいサイレンが、レース会場の熱狂を暴力的に断ち切った。
何本ものサーチライトが夜空を神経質に走り回り、逃げ惑う観客たちを無慈悲に照らし出す。
拡声器から、いかにも面倒くさそうな警告が響き渡った。
『おらー、そこの走り屋ー、近所から苦情が殺到してんだよ! 全員逮捕すんぞ、とっとと帰れー!』
「レヴィ、目立ちすぎ。あんたも時間よ」
不意に、少女の隣に深く帽子を被り、まるで芸能人のようなオーラを放つ女が影のように現れ、その腕を掴んだ。
「あわわわわっ、ま、まだ……!」
少女が慌てためき、声にならない声を漏らす間もなく、女は有無を言わぬ力でその襟首を掴むと、雑踏の中へと強引に連れ去っていく。
それを横目に見たアカネも、慌てて拡声器をしまいながら叫んだ。
「ブリ子、明日学校でー!」
その直後、レースのオープンチャンネルに、通信ウィンドウが強制的に割り込む。燃えるような赤髪を荒々しく逆立て、凶暴な狼のような瞳をした男――鬼塚大河が、ノイズ混じりに叫んだ。
『おい、ブリ子! オレは負けたと思ってねーからなー!』
通信は、それだけを一方的に告げて、乱暴に断ち切られた。
拡声器のボリュームを下げていたアカネの隣で、ミヤビが小さくため息をつく。
「……鬼塚大河も、懲りないですね」
リリコは機体のサーチライトを二度、三度とチカチカと点滅させてアカネたちに合図を送ると、思考リンクのチャンネルを切り替え、呆れたような声で呟いた。
「あー、きちゃったよぉ、残念〜」
「ニーねぇ、お巡りさんのご到着。いつものルートで帰るね」
『まったく……。さっさと帰ってきなさい。座標は送ってあるでしょ』
ニーねぇに促されるまま、リリコは手慣れた様子で機体を反転させ、ビル群の合間に設定された秘密のルートへと姿を消していく。
今宵の湾岸闇エアレースは、サイレンの音にその熱狂を奪われ、幕を下ろした。
誰もがそれぞれの日常へと還っていく。
この夜空を切り裂いた白い機体の光の残像だけが、この静けさの中に確かに残り続けていた。
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