第7話 期間限定婚は変わらない。なぜか契約内容は更新されました!
「……抱いて眠る
その言葉を耳にした瞬間、
……あれ? これ、私が言ったことある……よね?
母の庭、蘭の香り、寝具……間違いない。あの言葉は、私のものだ。
けれど彼女はあえて気づかぬふりをし、衣を整えながら背を向けたまま、思案顔を崩さなかった。
「……どうした。痛むのか?」
薬箱の蓋を閉めながら、
「……
沈黙。
「
「……あっ!」
ようやく我に返った
「……痛むのか?」
「……ねえ、景澄。上元節のあの日を除いて、結婚前に私たちが会ったのって……何回ある?」
彼の瞳が大きく見開かれる。しばし考え、答えは曖昧だった。
「……覚えていない。」
「私の答えは――一度も、ない。」
「……ああ、その通りだ。一度もない。」
「三皇子殿下って、本当に嘘ばかりですね。会ったことがないなら、どうして私の言葉を知ってるんです?」
秋音は鋭い眼差しを向け、彼の手を肩から振り払った。
――皇室に生まれた彼は、きっと身動きできない。
生きるために嘘をつき、芝居を演じるしかない。
でも、一方で和離を口にしながら、もう一方では私を気にかける。
私は、大切に思う人にだけは、嘘も芝居もしてほしくない。
……大切な人?私、彼のことを大切に思ってる?
そんなはずない。ただ今日、板刑を庇ってくれただけ。昨日、毒を代わりに受けただけ……
「……和離を約したのは本当だ。お前を好きなのも本当だ。
何度もお前を見ていたのも本当で、お前が私を一度も見なかったのも本当だ。
私は多くの嘘をついてきた。だが――お前にだけは、まだ一度も嘘をついていない。これからも、つきたくない。」
「……そ、そんな……」
今度は
「で、でも……じゃあどうして和離を……?」
「……新婚の夜、誰だって花を飾りたい。でも、お前は私を好きじゃなかった。
私はお前が好きだ。ならば、お前が自由を望むなら……放すしかないだろう。」
「ちょ、ちょっと!そんな言い方じゃ、私が話本に出てくる薄情な女みたいじゃない!」
そのとき――
ぐぅぅぅ……
二人のお腹が同時に鳴った。
「……
「……する!」
月光は薄絹のように彼女の肌を撫で、淡く銀の色を映し出す。
静寂の中で、その光は髪や睫毛にまで染み込み、彼女の面影をいっそう幻想的に際立たせていた。
――父は兵部尚書。日々朝廷に出仕し、ときには遠征に赴き、武将を選び、辺境の守りを整えている。
口では「務めだから」と言いながらも、母はいつもその傍らに寄り添い、ともに出かけていった。
きっと二人にとっては、山河を巡る旅も、手を取り合う甘いひとときなのだろう。
私も、そんな愛が欲しい。
閉ざされた世界に縛られるのではなく、広い天地を並んで歩んでいける愛を――
けれど、私は幼いころから知っていた。
自分の運命は皇子妃として、この後宮に囚われることだと。
私は、権謀術数の渦の中でもがきながら生き延びるなんて、絶対にしたくなかった。
婚約者の
もし彼が即位すれば、私は皇后となる――そんな地位は私には務まらないし、望んでもいない。
もし彼が敗れれば、私は共に滅びる運命だろう。
だからこそ、物心ついたときから決めていた。
絶対に
私は和離を望む。
後宮を出て、流浪の旅に出たい。
私だけを見て、私だけを愛してくれる人を見つけたい。
後宮三千の華ではなく――
弱水三千のうち、ただひとしずくを掬い上げてくれる人を。
しばらくして、
「
窓辺に座っていた
「いいけど……どうして一椀だけ?」
「一椀しか作らなかったから。」
「……えっ!? 殿下が作ったの?」
驚きで目を丸くする
「また『殿下』か。昨夜は『景澄』と呼ぶって言っただろ?」
「
そう言って卓に麺を置くと、
差し出された箸を受け取り、渋々と受け取りながら、胸の奥をくすぐられるように一口すする。
「……ほんとだ。お兄様の味……美味しい。」
父と母はいつも二人で旅に出て、私を世話してくれたのは
正直、気分が悪いときに食べるからじゃない。幼いころ病弱だった私は、食欲がなくてもこれだけは口にできた。
だから今でも癖のように欲しくなるのだろう。あるいは――兄への甘えの名残かもしれない。
「……美味しい。」そう口にした瞬間、
「お前が美味しいと思うなら……また作ってやる。」
「三皇子が料理なんて、意外ね。」
「……お前にだけだ。」
――ほんとにこの人は、ときどき唐突に、心臓に悪いことを言う。
クサい台詞……いや、そう言い切るのも違う。
ただ、言葉のたびに胸がざわついて、顔が熱くなるのを止められない。
「次はそんなこと言っちゃダメ。自分を話本の男主人公だとでも思ってるの?」
『いや、どう見ても話本のヒーローでしょww』
『わかる、一瞬ときめいた自分がいる』
『でも無理無理、彼にはもう
『そもそもヒロインなんて、この後宮じゃ生き残れないでしょ!』
――突然流れ込んでくるコメントは、まるで私に忠告しているようだった。
ここに留まってはいけない、と。
どうせ彼は、これからも何人もの妻を迎えるのだろう。
……
「……どうした、もう食べられないのか?」
「……殿下は『私が好きだ』って言うけど、本当なの?
「……これで二度目だな。どうしてそんな勘違いをする?私がいつ、彼女を想っているように見えた?」
「だって……あの子が毒を仕掛けても、殿下は一言も責めなかった。」
「確かな証拠はなかった。それに、毒を口にしたのは……お前が私に渡した盃からだ。しかも
「……でも私は、後宮で足場を固めたいなんて思ってない。ここで生きていたくないのよ。」
「分かっている。」
「だから、嵐が過ぎれば送ってやる。今は成婚直後で、あまりに急ぎすぎれば多くの人間を巻き込むだけだ。」
そして、
「……それから『一生』についてだが、永遠を約束することはできない。だが、私は十三年のあいだ、ただ一人を想い続けてきた。」
「……十三年?」
賜婚は十二年前のはず――記憶の帳尻が合わない。
どうしていつも、彼と私の過去は噛み合わないのだろう。
……また、思いつきで口にしているだけ?
「……お前がまだ四つにも満たなかった頃だ。私の母妃が亡くなり、葬儀の席に沈尚書と一緒に来ていたな。あの場にいた者は――父上でさえ――誰ひとり本気で泣いてはいなかった。大人たちは皆、早々に席を立ってしまった。
ただ一人、お前だけが、私が泣くのを見て、一緒に泣いてくれた。まるで馬鹿みたいに、ずっとな。」
「当時は子供だから泣き虫なんだと思っていた。けれど、皆が帰っても……お前だけは帰らなかった。『にに、なかないで。ずっといっしょにいるから』――そう言って、涙を拭いてくれて、飴までくれた。そのことを……覚えていないのか?」
「……覚えてない。」
「お父様は、私たちが初めて会ったのは
「……ああ、あのことは誰も知らない。そのあと
「……その後、お前は私の許嫁となった。」
揺れる蝋燭の灯に照らされたその笑みは、どこか切なく、それでいて幸福に満ちていた。
「……お前が望まなかった婚約を、子供の頃の私は運命だと信じ込んでいた。」
――婚約まで至ったのは、自分が迷って、食いしん坊で、幼くて無知だったから。
彼が策略を巡らせたわけではない。嫌なことをされたことも、無理やり強いられたことも、一度もなかった。
そんな秋音に、
「なあ……せっかく今はお前が私の妻なんだ。結婚から始まる恋ってやつ……これから私が、お前を口説いてもいいか?」
「もし私が太子になっても……その時までにお前が私を好きにならなければ、その時は手を放す。約束は変えない。ほかの女を探せなんて言わない。ただ――その日まで、一度でいい、私にチャンスをくれ。」
それでも
「……私は、今でも信じている。これが、運命だと。」
「……っ!」
「……ごちゃごちゃ言ってないで、これでも食べてなさい!」
そう言って、麺をそのまま彼の口に突っ込んだ。
「……っ!? あ、熱……!」
驚いた
「……ほんとに、食べてても口が止まらないんだから……」
ーーーーーー
①弱水三千の典故について
「弱水三千のうち、ただひとしずくを掬い上げてくれる人を」という表現は、 中国古典小説『紅楼夢』第九十一回に登場する言葉「弱水三千、ただ一瓢を飲む」に由来します。
「弱水」とは渡るのが難しい川を指し、限りなく広がる水を「無数にあるもの」の比喩として用いています。
その三千の水のうち、ただひとすくいを選び取る、つまり――
「無数の女性の中から、ただ一人だけを選び、愛し続ける」
という、愛の一途さを誓う言葉として伝わっています。
ーーーーーー
後書き:
昨日のエピソードで
https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792440177168329
それから、目次にある英語の一文―― Beneath a Loveless Mask, a Heart That Loves は、この物語のタイトルを私なりに翻訳したものです。気に入っていただけたら嬉しいです~
今回のお話、ちゃんと「甘さ」届きましたか?皆さんが一週間を甘々な気持ちで過ごせますように!
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