第7話 期間限定婚は変わらない。なぜか契約内容は更新されました!

「……抱いて眠る寝具しんぐまでも、その香りに染めたい――」

 その言葉を耳にした瞬間、秋音シュウインは胸がざわついた。


 ……あれ? これ、私が言ったことある……よね?

 母の庭、蘭の香り、寝具……間違いない。あの言葉は、私のものだ。

 けれど彼女はあえて気づかぬふりをし、衣を整えながら背を向けたまま、思案顔を崩さなかった。


「……どうした。痛むのか?」

 薬箱の蓋を閉めながら、景澄ケイチョウが問いかける。


 秋音シュウインは返事をしない。まだ思考の渦の中にいた。


「……秋音シュウイン?」


 沈黙。


沈秋音シンシュウイン!」


「……あっ!」

 ようやく我に返った秋音シュウインは慌てて振り返った。


 景澄ケイチョウはすぐに歩み寄り、彼女の肩を支えてもう一度問う。

「……痛むのか?」


「……ねえ、景澄。上元節のあの日を除いて、結婚前に私たちが会ったのって……何回ある?」


 彼の瞳が大きく見開かれる。しばし考え、答えは曖昧だった。

「……覚えていない。」


「私の答えは――一度も、ない。」


 景澄ケイチョウは少し間を置き、低く答える。

「……ああ、その通りだ。一度もない。」


「三皇子殿下って、本当に嘘ばかりですね。会ったことがないなら、どうして私の言葉を知ってるんです?」

 秋音は鋭い眼差しを向け、彼の手を肩から振り払った。


 ――皇室に生まれた彼は、きっと身動きできない。

 生きるために嘘をつき、芝居を演じるしかない。

 でも、一方で和離を口にしながら、もう一方では私を気にかける。

 私は、大切に思う人にだけは、嘘も芝居もしてほしくない。


 ……大切な人?私、彼のことを大切に思ってる?

 そんなはずない。ただ今日、板刑を庇ってくれただけ。昨日、毒を代わりに受けただけ……


 秋音シュウインが自分の気持ちを持て余している間に、景澄ケイチョウは拳を握り、開き、そして一語ずつ絞り出すように言った。

「……和離を約したのは本当だ。お前を好きなのも本当だ。

 何度もお前を見ていたのも本当で、お前が私を一度も見なかったのも本当だ。

 私は多くの嘘をついてきた。だが――お前にだけは、まだ一度も嘘をついていない。これからも、つきたくない。」


「……そ、そんな……」

 今度は秋音シュウインの方が目を大きく見開き、顔を赤く染める。

「で、でも……じゃあどうして和離を……?」


 景澄ケイチョウは苦く笑った。

「……新婚の夜、誰だって花を飾りたい。でも、お前は私を好きじゃなかった。

 私はお前が好きだ。ならば、お前が自由を望むなら……放すしかないだろう。」


「ちょ、ちょっと!そんな言い方じゃ、私が話本に出てくる薄情な女みたいじゃない!」

 秋音シュウインは足を踏み鳴らして抗議する。だが心のどこかで、彼の言葉がすべてではないと直感していた。


 そのとき――

 ぐぅぅぅ……

 二人のお腹が同時に鳴った。

「……秋音シュウイン。飯にするか?」

「……する!」

 景澄ケイチョウは思わず吹き出し、くすりと笑って部屋を出ていった。


 秋音シュウインは天に浮かぶ明月を仰いだ。

 月光は薄絹のように彼女の肌を撫で、淡く銀の色を映し出す。

 静寂の中で、その光は髪や睫毛にまで染み込み、彼女の面影をいっそう幻想的に際立たせていた。


 ――父は兵部尚書。日々朝廷に出仕し、ときには遠征に赴き、武将を選び、辺境の守りを整えている。

 口では「務めだから」と言いながらも、母はいつもその傍らに寄り添い、ともに出かけていった。

 きっと二人にとっては、山河を巡る旅も、手を取り合う甘いひとときなのだろう。

 私も、そんな愛が欲しい。

 閉ざされた世界に縛られるのではなく、広い天地を並んで歩んでいける愛を――


 けれど、私は幼いころから知っていた。

 自分の運命は皇子妃として、この後宮に囚われることだと。

 私は、権謀術数の渦の中でもがきながら生き延びるなんて、絶対にしたくなかった。


 婚約者の三皇子ケイチョウは、野心を抱き、皇帝の座を望んでいる。

 もし彼が即位すれば、私は皇后となる――そんな地位は私には務まらないし、望んでもいない。

 もし彼が敗れれば、私は共に滅びる運命だろう。


 だからこそ、物心ついたときから決めていた。

 絶対に景澄ケイチョウを愛してはならない、と。


 私は和離を望む。

 後宮を出て、流浪の旅に出たい。

 私だけを見て、私だけを愛してくれる人を見つけたい。


 後宮三千の華ではなく――

 弱水三千のうち、ただひとしずくを掬い上げてくれる人を。


 しばらくして、景澄ケイチョウが一椀の麺を運んできた。

秋音シュウイン、待たせたな。ごめん。」


 窓辺に座っていた秋音シュウインは、思わず首を傾げる。

「いいけど……どうして一椀だけ?」


「一椀しか作らなかったから。」


「……えっ!? 殿下が作ったの?」

 驚きで目を丸くする秋音シュウイン


「また『殿下』か。昨夜は『景澄』と呼ぶって言っただろ?」

 景澄ケイチョウは何でもないように頷き、さらりと続ける。

沈言シンゲンから聞いたんだ。お前は気分が沈むと、あいつが作るトマトと卵の麺を食べたがるって。だから作り方を教わった。」


 そう言って卓に麺を置くと、秋音シュウインは少し迷った末に席へと歩み寄った。


 差し出された箸を受け取り、渋々と受け取りながら、胸の奥をくすぐられるように一口すする。

「……ほんとだ。お兄様の味……美味しい。」


 父と母はいつも二人で旅に出て、私を世話してくれたのは沈言シンゲンだった。

 正直、気分が悪いときに食べるからじゃない。幼いころ病弱だった私は、食欲がなくてもこれだけは口にできた。

 だから今でも癖のように欲しくなるのだろう。あるいは――兄への甘えの名残かもしれない。


 景澄ケイチョウはただ黙って、柔らかく笑んでいた。


「……美味しい。」そう口にした瞬間、秋音シュウインの目から涙がこぼれ落ちた。


 景澄ケイチョウが手を伸ばし、その頬を拭おうとした。けれど秋音シュウインは反射的に身を引いてしまう。


 景澄ケイチョウの表情に一瞬かすかな翳りが走る。その後、ふっと笑みを浮かべて言った。

「お前が美味しいと思うなら……また作ってやる。」


「三皇子が料理なんて、意外ね。」


「……お前にだけだ。」


 ――ほんとにこの人は、ときどき唐突に、心臓に悪いことを言う。

 クサい台詞……いや、そう言い切るのも違う。

 ただ、言葉のたびに胸がざわついて、顔が熱くなるのを止められない。


「次はそんなこと言っちゃダメ。自分を話本の男主人公だとでも思ってるの?」

 秋音シュウインは笑いながら突っ込む。


『いや、どう見ても話本のヒーローでしょww』

『わかる、一瞬ときめいた自分がいる』

『でも無理無理、彼にはもう古清霜コシンショウがいるんだよ』

『そもそもヒロインなんて、この後宮じゃ生き残れないでしょ!』


 ――突然流れ込んでくるコメントは、まるで私に忠告しているようだった。

 ここに留まってはいけない、と。

 どうせ彼は、これからも何人もの妻を迎えるのだろう。

 ……古清霜コシンショウ。毒を盛っても咎められなかった、あの女。


 秋音シュウインの箸は、そこでぴたりと止まった。


「……どうした、もう食べられないのか?」

 景澄ケイチョウが問いかける。


「……殿下は『私が好きだ』って言うけど、本当なの?古清霜コシンショウのことも好きなんじゃないの?一生、私だけを好きでいてくれるなんて……どうして言い切れるの?」

 秋音シュウインはまっすぐに彼を見つめた。


「……これで二度目だな。どうしてそんな勘違いをする?私がいつ、彼女を想っているように見えた?」


「だって……あの子が毒を仕掛けても、殿下は一言も責めなかった。」


「確かな証拠はなかった。それに、毒を口にしたのは……お前が私に渡した盃からだ。しかも古清霜コシンショウは貴妃の姪。あの場で糾弾してみろ、矛先が向くのはお前だ――成婚したばかりで、まだ足場も固まっていないのに。」


「……でも私は、後宮で足場を固めたいなんて思ってない。ここで生きていたくないのよ。」

 秋音シュウインの声は涙を帯び、それでも冷たさを含んでいた。


「分かっている。」

 景澄ケイチョウは穏やかに微笑む。

「だから、嵐が過ぎれば送ってやる。今は成婚直後で、あまりに急ぎすぎれば多くの人間を巻き込むだけだ。」


 そして、景澄ケイチョウは少し間を置き――静かに続ける。

「……それから『一生』についてだが、永遠を約束することはできない。だが、私は十三年のあいだ、ただ一人を想い続けてきた。」


「……十三年?」

 秋音シュウインの手が震えた。


 賜婚は十二年前のはず――記憶の帳尻が合わない。

 どうしていつも、彼と私の過去は噛み合わないのだろう。

 ……また、思いつきで口にしているだけ?


 秋音シュウインは眉をひそめ、じっと彼を見据えた。


「……お前がまだ四つにも満たなかった頃だ。私の母妃が亡くなり、葬儀の席に沈尚書と一緒に来ていたな。あの場にいた者は――父上でさえ――誰ひとり本気で泣いてはいなかった。大人たちは皆、早々に席を立ってしまった。

 ただ一人、お前だけが、私が泣くのを見て、一緒に泣いてくれた。まるで馬鹿みたいに、ずっとな。」

 景澄ケイチョウは揺らめく灯火を見つめ、指先でその影を弄ぶようにしながら続ける。


「当時は子供だから泣き虫なんだと思っていた。けれど、皆が帰っても……お前だけは帰らなかった。『にに、なかないで。ずっといっしょにいるから』――そう言って、涙を拭いてくれて、飴までくれた。そのことを……覚えていないのか?」


「……覚えてない。」

 秋音シュウインは衝撃に目を見開いた。

「お父様は、私たちが初めて会ったのは上元節じょうげんせつだって……」


「……ああ、あのことは誰も知らない。そのあと上元節じょうげんせつで、私が罰で跪かされていたとき……お前がそこにいた。だから私は――」

 景澄ケイチョウはふっと笑みを浮かべ、秋音シュウインを見つめる。

「……その後、お前は私の許嫁となった。」


 揺れる蝋燭の灯に照らされたその笑みは、どこか切なく、それでいて幸福に満ちていた。

「……お前が望まなかった婚約を、子供の頃の私は運命だと信じ込んでいた。」


 秋音シュウインは何も言えず、ただ麺を口に運び続ける。


 ――婚約まで至ったのは、自分が迷って、食いしん坊で、幼くて無知だったから。

 彼が策略を巡らせたわけではない。嫌なことをされたことも、無理やり強いられたことも、一度もなかった。


 そんな秋音に、景澄ケイチョウがふいに身を寄せる。

「なあ……せっかく今はお前が私の妻なんだ。結婚から始まる恋ってやつ……これから私が、お前を口説いてもいいか?」


 秋音シュウインは顔を上げず、麺をすすり続ける。


「もし私が太子になっても……その時までにお前が私を好きにならなければ、その時は手を放す。約束は変えない。ほかの女を探せなんて言わない。ただ――その日まで、一度でいい、私にチャンスをくれ。」


 それでも秋音シュウインは箸を止めない。


 景澄ケイチョウはさらに身を寄せ、彼女の耳元に囁いた。

「……私は、今でも信じている。これが、運命だと。」


「……っ!」

 秋音シュウインの心臓が跳ね上がる。次の瞬間、彼女はぐいっと景澄を押し返し、箸で麺をひとすくい。

「……ごちゃごちゃ言ってないで、これでも食べてなさい!」

 そう言って、麺をそのまま彼の口に突っ込んだ。


「……っ!? あ、熱……!」

 驚いた景澄ケイチョウが目を丸くする。


 秋音シュウインはぷいと顔をそむけ、頬を赤らめたまま呟いた。

「……ほんとに、食べてても口が止まらないんだから……」


 ーーーーーー

 ①弱水三千の典故について

「弱水三千のうち、ただひとしずくを掬い上げてくれる人を」という表現は、 中国古典小説『紅楼夢』第九十一回に登場する言葉「弱水三千、ただ一瓢を飲む」に由来します。

「弱水」とは渡るのが難しい川を指し、限りなく広がる水を「無数にあるもの」の比喩として用いています。

 その三千の水のうち、ただひとすくいを選び取る、つまり――

「無数の女性の中から、ただ一人だけを選び、愛し続ける」

 という、愛の一途さを誓う言葉として伝わっています。


 ーーーーーー

 後書き:

 昨日のエピソードで小青シャオチン秋音シュウインに結ってあげた新しい髪型は「双環望仙髻そうかんぼうせんけい」と呼ばれるものです。イメージイラストを描いてみましたし、衣装の変化についても簡単にまとめたので、興味のある方はぜひどうぞ!

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792440177168329


 それから、目次にある英語の一文―― Beneath a Loveless Mask, a Heart That Loves は、この物語のタイトルを私なりに翻訳したものです。気に入っていただけたら嬉しいです~


 今回のお話、ちゃんと「甘さ」届きましたか?皆さんが一週間を甘々な気持ちで過ごせますように!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る